06話 ナースコールは地獄への入り口


「わたしに病院に行けって?」


ヴォータン傭兵事務所の応接室。黒髪ツインテールの少女、サキは四角い木のトレイを小さな胸の前で抱えて怪訝そうに言った。彼女の体の調子が悪いから病院で診てもらう、というわけではない。看護士の手伝いの仕事のためだ。

サキの目の前には彼女の雇い主である、黒髪ツンツン頭の大柄な青年ガムがソファに座っている。彼は依頼内容の詳細に目を通していた。そして彼とテーブルを挟んで反対側に、灰色のスーツの上から白衣を羽織った、おでこの広い、丸メガネをかけた中肉中背の中年男性が座っていた。彼の名はエイマンと言い、クロノス西病院の営業担当だ。

「我が病院は前代未聞の危機なのです、ハイ」

その顔は疲労が濃く、目の下には隈ができていた。きっと仕事に追われているため寝られていないのだろう。彼の依頼内容を聞くと、それも無理のないことであった。

その内容とはこうだ。

十日ほど前、クロノス西病院で一度に十人の看護士が辞めるという事態になった。

この病院は城下では大きな病院である。患者数も多いため、当然人手が足りなくなる。すぐに新しい看護士の募集をかけたが、最低でも一週間はかかるということだった。新しい看護士が来るまでの一週間、看護士の手伝いをする人材をエイマンは集めているのだ。

それを聞いて、ガムはサキの病院への派遣を提案した。

ガムとエイマンの視線がサキを向く。

「でも、なんでわたし? ガム……じゃなくて、所長じゃだめなの?」

サキがガムに問う。

「わかってないなお前は」

わざとらしく大きくため息をつくガム。先刻サキが持ってきた紅茶を一口すする。

「病院ってのは体だけを治すところじゃないんだよ。男性患者は女の看護士に看護されることによって心が癒されるんだ。するとどうだ、体の方にもいい影響が出るってもんだ。ねえ、エイマンさん」

「……え? ええ、ハイ」

同意を求められうろたえるエイマン。

「そこに俺みたいなごつい男が行ってみろ。患者はみんながっかりだよ。治るものも治らないし、まずい病院食がさらにまずくなるよ」

「め、面目ないです、ハイ」

「……あ、すいません。冗談です」

面目なさそうにするエイマン。それに対して謝るガム。その様子を見てサキが小さく震えている。ガムは「やばい、セクハラだって怒られるかな」と内心びくびくしていた。するとサキが目を輝かせて

「じゃあ、わたしが行った方が患者さんの役に立つってこと?」

と言った。予想外のサキの反応にガムは驚いたが

「ああ、そうだ。お前が患者の薬になってくるんだ」

と言った。

「うん。わたし、頑張って患者さんの元気を取り戻すよ」

今週、ガムには別の依頼が入っているため病院には行けない、というのが実情だ。しかし、思いの他サキが嬉しそうなので、言い出しにくくなってしまった。

書類を読む限り実際の看護士が行う医療行為などではなく、医療器具の準備や洗浄、その他雑務が主な仕事なので、サキでも問題無いだろうと判断した。

「ところでエイマンさん。なぜ看護士が一斉に辞めたんですか?」

ガムの質問に、エイマンは顔に冷汗を浮かべ、口ごもって

「私の方では看護士達の一身上の都合で、としか……。すいません、ハイ」

と、曖昧な返答をした。ガムは不審に思ったが、それ以上追及するのはやめておいた。

追い詰めると、目の前のこの男が調子を崩して病院送りになりそうな雰囲気だったからだ。

「では、明日からそちらの病院に行かせてもらいます」

「助かります。よろしくお願いしますです、ハイ」

立ち上がって一礼するエイマン。サキは応接室を後にする彼を見送り、玄関まで案内した。

サキが応接室に戻ると、ガムが言った。

「サキ。色々あると思うが、決してキレたらだめだぞ。第一に患者の事を考えて仕事に当たれ」

「うん。わたし、頑張る」

ガムは心得程度のつもりで言ったのだが、サキの行動が病院の体制を一変させるなどと、この時は思いもしなかった。


◆◆◆


サキの病院勤め当日。早朝から身なりの支度をし、一人病院へと向かった。石畳の通りを歩いていると、両脇の民家の人々も朝の支度を始めているようだった。煙突からは朝餉の準備をする煙、犬を散歩させる人。町全体が目覚め始めているようだった。

あくびをしながら歩くサキ。昨夜は中々眠れなかった。ガムに仕事を振られた時、自分が一人前になったような気がしたからだ。だが一方、暗殺を生業としていた自分が人を助ける仕事などできるのかと不安にもなった。でも、やるしかないのだ。依頼を完遂して、生きていくために自分の実績を作っていかなければならない。

そんなことを考えながら歩いていると、茶色い大きな建物が見えてきた。五階階建ての建物には無数の窓、そして建物の周りは煉瓦の塀で囲まれている。正面の門の横には「クロノス西病院」の看板。どうやらここのようだ。

サキは門をくぐり、正面の玄関から

「おはようございまーす」

と言って建物の中に入った。そこで見たのは地獄のような光景だった。


◆◆◆


右へ左へバタバタと駆ける看護士。呻きながら担架で運ばれる男性。病院内に鳴り響く怒号。泣き叫ぶ子供。血まみれの手袋のまま走る看護士。待合室で不安そうに肩を寄せ合う親子。

サキの目に飛び込んで来たのはそんな光景だった。

「…………」

サキは無言で受付の窓口に向かった。窓口の向こうで書類と格闘している中年女性に

「あのう、すいません。ヴォータン傭兵事務所から来た……参りました。サキと言います」

と声をかけた。

「え? 何?」

ぶっきらぼうに聞き返してくる窓口の女性。茶髪のパーマがかったセミロングの頭を掻きむしっている。

「ヴォータン傭兵事務所から参りました、サキと言います」

「ああ、あなたね。聞いてるわ。でも、来るのが遅いわよ。何時だと思ってるのよ」

「え……?」

サキは戸惑った。自分は時間通りに来たはずだが。

「ったく、最近の若い子は……。まあいいわ。私はカーラ。案内するからちょっと待ってて」

受付の女性はサキを一階の女子更衣室に案内した。更衣室に入ると、女性は棚から看護服を取り出し、サキに手渡した。

「はい、これに着替えて。外で待ってるから、着替えたら声をかけてね」

言って、更衣室から出るカーラ。

早速看護服に着替えるサキ。白いヘッドドレス、紺を基調とした詰襟、長袖、ロングスカート。襟の部分にはレースの飾りがついている。そして、背負ってきたザックから手鏡等の小物を取り出し、看護服に忍ばせる。着替えを終え、サキは更衣室から出る。カーラは扉のそばで待っていた。

「なかなか似合うじゃない」

「はあ、ありがとうございます」

「さ。さっさと行くわよ」

そのまますたすたと歩きだすカーラ。サキは小走りでついて行く。その途中にも、院内を走る看護士が何人もいた。これだけバタバタしていると、本当に人手不足なのだろいうことが伝わってくる。カーラが扉のない病室に入ってく。サキもついて入ると、そこは集団の病室だった。八人の病室は満床だった。その中の一人、青年に注射をしている若い女性の看護士が一人。年の頃は二十代半ば。身長が高めの茶髪のショートカットの女性だった。

カーラが彼女の横で声をかける。

「エイダ、応援の子よ。後はよろしくね」

それだけ言うとカーラは病室を出て行った。

エイダと呼ばれた女性看護士は、病室の入り口で立っているサキを一瞥すると

「ちょっと待ってな」

と言って青年への注射を続けた。

「はい、良し。大人しく寝てんだよ」

青年を寝かせ、医療器具を乗せたワゴンを押し、次の患者の点滴を付け替えにかかるエイダ。

「おいエイダ。そんな奴の看護は置いといて、早くワシの看護をしろ」

隣のベッドの壮年男性からエイダに声がかかる。

「マウロじいさん、あんたただのアル中だから酒飲まなきゃ治るよ。大人しく寝てな」

「なんだと? ワシは患者だぞ? もっと手厚く看護せんか」

「ベッド貸してるだけでもありがたいと思いな」

「なんて横柄な女だ……!」

わなわなと、拳を握りしめるマウロ。横柄なのはあんたの方でしょ、とサキはその様子を眺めていた。

「おいそこのチビ。ぼーっと突っ立っとらんでワシの肩を揉まんか!」

「え? わたし?」

これも看護の一環なのかしらん、とサキはマウロのベッドに向かった。そして、ベッドの上に胡坐をかいて座るマウロの肩を揉み始める。

「ぜんぜん効かん。もっと強く揉まんか!」

「こう?」

サキが思いっきり力を入れると、マウロが悲鳴を上げた。

「強すぎじゃバカモン! もっと加減しろ」

「は、はい」

サキが力を弱めると、マウロは恍惚とした表情を浮かべた。

「そうそう、その力加減を覚えておけよ」

「はい」

そのまましばらくマウロの肩揉みを続けるサキ。エイダは点滴を付け替え終え、次の患者の看護に取り掛かる。そんな調子で十五分ほどで、彼女はこの病室の看護を終えた。

ツカツカとサキに詰め寄り

「で、あんた誰?」

と問う。サキは肩揉みをやめ、背を正して挨拶する。

「ヴォータン傭兵事務所から参りました、サキと言います」

「あっそ。じゃあサキ、それ持ってこっち来て」

と、ワゴンを指すエイダ。

「はい」

肩揉みを中断されたマウロは不満顔で

「なぜやめさせる! いい心地じゃったのに!」

と抗議した。

「患者はじいさんだけじゃないんだよ? それに肩揉みは看護と違う」

なおも抗議の声をあげるマウロを背に、病室を出るエイダ。ワゴンをサキに運ばせ向かった先はナースステーションだった。中央には大きなテーブルがある。そこに突っ伏している者、ぼーっと前方を眺めている者などが数人いた。サキはその部屋の奥の流し場に案内された。

「点滴の袋はそこ、注射針はそこに捨てて。注射器、ピンセットはその洗剤で洗っといて」

「はい」

早速作業に取り掛かるサキ。その作業は手慣れたもので、適切かつスピーディだった。褒められたことではないが、サキは暗殺者時代に何百種類もの薬物を扱っていた。暗殺には毒殺も含まれるためだ。そのため、医療器具の扱いには慣れていた。作業を終えると、サキはナースステーションのテーブルでカルテを眺めていたエイダに声をかけた。

「エイダさん。終わりました」

「じゃあ、次はそこの棚からこれらの準備お願い。ワゴンに乗せて」

「はい」

エイダからメモを受け取るサキ。そこには番号と器具、薬品名が記されていた。サキは記載通りにてきぱきと器具等を取り出し、ワゴンに乗せ終わった。

「早いね。じゃあ、行くよ」

言って、椅子から立ち上がりナースステーションを出るエイダ。サキはワゴンを押し、エイダについて行った。彼女たちは次の病室へ向かった。

病室に行き患者の看護、ナースステーションに戻り使用した器具の処理、新しい器具の準備そして再び患者の看護……。午前中だけでその作業を六回。昼休憩に入ったのは正午を半刻程過ぎた頃だった。

サキはナースステーションで、エイダと共に昼食を食べていた。パンが二つとウインナーが三切れ。そして野菜のスープが用意されていた。スープは既に冷めてしまっていたが、動きっぱなしだったため、おいしく感じた。その様子を見ていたエイダがサキに問う。

「若いのになんで傭兵事務所なんてとこで働いてんの、あんた」

「……両親がいないの、いえ、いないんです。正確には、母親は生きてますけど、その、施設に行っちゃって」

口ごもりながら話すサキ。

「ふーん。苦労してんね」

何事でもないように相槌を打つエイダ。

「アタシも似たようなもんかな。十八の時に両親がアルコール依存症で治療施設行きさ。まあ、。独房にぶちこんで転がしとくのが治療ってんなら合ってるんだろうけど」

言って、エイダはパンをかじる。彼女にサキが問う。

「エイダさんは悲しくなかったんですか?」

「使わなくていいよ、敬語。堅っ苦しいのは苦手なんだ」

「あの、では、エイダさんは悲しくなかったの?」

「全然悲しくないって言ったら嘘になるけど、清々したって方が大きかったな。あいつら酔っ払うとアタシに暴力振るってたからね。隣の家のおばさんが見かねて警察に通報したんだよ。そしたらその場で二人とも連れていかれて、それっきりさ」

「ごめんなさい。失礼なことを聞いて」

「いいよ。隠すような事でもないし」

「ところで、なぜ看護士になったの?」

「病院には病人が来るだろ? その中にはアルコール依存症の患者もいるじゃん?

さっきのマウロじいさんみたいな。

……看護士の立場ならそいつら好き放題いたぶれるなって……」

凄惨な表情で語るエイダ。サキは椅子に座ったまま後ずさった。エイダはにっこり笑って

「冗談だよ。……両親がいなくなったら自分で自分の面倒を見なきゃなんねえ。

医療の知識があれば自分が病気になっても対処できるんじゃないかっていう打算だよ」

と言った。

「サキは傭兵事務所なんて荒っぽいとこにいてだいじょう……」

まじまじとサキの顔を覗き込むエイダ。

「……うん。あんたは大丈夫そうだ。事務所の人間がいい人なんだね」

その言葉に、ガムの自分に対する扱いを思い出して、サキはなんだかくすぐったい気持ちになった。

そこに一人の初老の男性医師が、血塗れの手術衣と手袋のまま入ってきた。その姿に、パンをかじる口が止まるサキ。エイダは特に何事もなかったかのように食事を続けている。

彼女はその男性医師に話しかける。

「ブンダさん。まだ手術中?」

「ああ、メスがいかれちまった」

「はいはい、その手であっちこっち触られると大惨事になるからちょっと待ってて」

言って、エイダは部屋の棚からメスを数本取り出し、ブンダに渡した。

「休憩中にすまんな」

「それよりブンダさんも休みなよ。朝からずっとだろ」

「そう言うなら、この病院から病気を一掃してくれ」

「バカ言ってんじゃないよ。わたしらみんな解雇されちまう」

「そういうことだ。休んでるヒマなんてねえ」

言って、足早に部屋を出るブンダ。エイダは彼に手をひらひらと振って送り出した。

ブンダと入れ替わるように、一人の女性看護士がふらふらと入って来た。年の頃は十七、八だろう。ウェーブがかったロングの金髪、巨乳で眼鏡をかけた身長高めの若い女性だった。歩くたびに彼女の胸が揺れ動く。彼女は「点滴……、錠剤……」と呟きながら棚をごそごそと探し始めた。ステーション内にいた二人の中年の女性看護士から、迷惑そうな視線が彼女に向けられる。

「ちょっと! 昼ご飯食べてるんだから、バタバタしないでちょうだい!」

「まだ仕事片付かないの? ほんとにどんくさいんだから……」

非難の言葉に、金髪ロングの女性は「すみません。すみません」と謝るばかりだった。

「きっと栄養が全部胸にいっちゃったのよ」

「だから要領よく仕事する考えができないのね」

「……でも男性患者の受けはいいのよね、彼女」

「……それはあの胸で患者を誘惑してるからよ」

非難はさらに続く。無言で作業を続ける金髪ロングの女性。

「あーあ、見てらんねえな。ミリィ、どの薬だ?」

彼女を見かねたエイダが席を立ち、ミリィと呼ばれた金髪ロングの女性のそばに行く。

「す、すみませんエイダさん。ラクテック、ソルデム……あとオラセフとザイロリック」

「はいはい。ラクテック、ソルデムはここ、オラセフとザイロリックはこことここ。覚えた?」

「は、はい。すみません」

「謝らなくていいから。ってか、なんで今頃取りに帰って来たんだ?」

「あの、その、エルミラさんが薬、足りないから取って来てって……」

ミリィの言葉に、はぁ、とため息をつくエイダ。

「足りないじゃないだろ。それはあいつが準備するの忘れただけだ。ちょっと注意してやるから一緒に行くぞ」

「は、はい。すみません」

エイダがミリィを連れてステーションを出た、と思ったらひょっこり戻って来てサキに言う。

「サキ、午後からまた看護あるから、そこのメモに書いてある薬やら点滴やら用意しといて」

と言って、先ほどまでエイダが昼食を摂っていた席を指さした。そこには薬品名や点滴名が書かれたメモと、空の食器が残されていた。

サキはエイダの食事を終える速さに驚いたが、すぐに納得がいった。

現在この病院は人手不足。一人当たりの労働量が増える。すると休憩時間は減る。だから食べられるときに食べておかなければならないのだ。

サキは残りのパンとウインナーとスープをかき込むようにして食べ終えた。


◆◆◆


午後の看護のため、サキはエイダについて三階の六人部屋の病室で看護をしていた。右腕を骨折した老人男性の包帯をエイダが取り替えている時だった。

サキの背後で病室の扉が乱暴に開かれた。

そこに立っていたのは長身でやせ型の男性だった。白衣に金のネックレス、そして金縁眼鏡。髪型は薄茶のオールバックだが、毛束の一つが鼻先に垂れている。

鼻に付く感じの男だな、とサキは思った。

「エイダちゃん、おっはよ~」

言って、金縁眼鏡の男がエイダにすり寄る。

「……フェネンさん。もう昼回ってますよ」

フェネンと呼ばれた金縁眼鏡の男に、エイダが呆れたように言う。

「あ~? そうだっけ? どうでもいいよ。それより」

がエイダの肩に手を回し、彼女の眼前に顔を近づける。

「今夜、飲みに行かない? とっておきのバーがあるんだ~」

「行きません。患者の手当てがあるので」

にべもないエイダ。そのまま包帯の交換を終える。するとフェネンがその老人男性に詰め寄り、胸倉を掴む。

「フェネンさん、何を!?」

エイダがとがめる。

「じいさん、あんたまだいたのかよ。もう動けるんならさっさと出て行けよ」

老人男性をベッドから引きずり下ろすフェネン。咳き込む老人。他の患者からどよめきが起きる。

「な、何をするんじゃ……」

「るせえじじい。うちはてめえみたいな貧乏人をずっと置いとくわけにゃいかねえんだよ。荷物まとめて帰れよ」

底冷えしたようなフェネンの声。

「フェネンさん! その患者さんは昨日入院したばかりなんですよ!? 骨の接合だって全然……!」

フェネンがエイダの髪の毛を掴み、エイダの抗議を遮る。

「メスがぼくに文句言うんじゃないよ。クビにするよ?」

「……っ!」

押し黙るエイダ。

「やめなさい」

サキが割って入り、フェネンの腕を掴む。

「なんだ、お前? 見ない顔だな」

サキを見下ろすフェネン。

「ヴォータン傭兵事務所から参りましたサキと申します。病院での暴力行為はご遠慮ください」

「サキ、やめな!」

エイダがサキを制止する。

「でも、エイダさ……」

言いかけて、サキの体が吹っ飛ばされる。フェネンの拳が彼女の頬を打っていた。床に転がるサキを見下ろすフェネン。

「メスガキがぼくの邪魔するんじゃねえ」

フェネンの足がサキの頭を踏みつける。

「……くうっ」

呻くサキ。他の患者は息を飲んでその様子を見ている。

「ほら、謝れよ。メスガキ。フェネン様の邪魔してごめんなさいって土下座しろよ」

ぐりぐりと、サキを踏みにじるフェネン。

「フェネンさん! やめてください!」

後ろからフェネンを羽交い絞めするエイダ。サキを踏みつけていた足がどかされる。

「……なんだよ。これからって時に」

エイダを押しのけるフェネン。

「しらけた」

言って、フェネンは老人男性に向き直る。

「おら、じじい。さっさと出て行けよ。次の患者がつかえてるんだ。なんなら病死扱いにしてやろうか」

「ひ、ひぃ」

フェネンの言葉に老人は力なく立ち上がり、よろよろと病室から出て行った。

それを見送ったフェネンは

「あーすっきりした。じじいが無事退院できて良かったねー」

と、あっけらかんと言った。そしてエイダに向き直り

「エイダちゃん、暇ができたらまた今度ね~。ちゅっ」

と投げキッスをして病室から出て行った。しばらく病室には沈黙が流れた。ふっと我に返ったエイダが

「ちょっとサキ、大丈夫?」

と言って、床に倒されていたサキを抱き起した。

「う、うん。びっくりしただけ」

暗殺者としての鍛錬を受けていたおかげで、サキは打たれ強い体を持っていた。頬は腫れているが、痛みはそれほどではない。しかし数秒後に訪れたのは猛烈な怒りだった。

「エイダさん。あの、フェネンって男はなんなの?」

「……うちの院長。暴君だよ。病院で好き放題やっても許されるって思ってる。一年前に前院長が病気で引退する前は善政が敷かれてたんだけど、今はこのありさまだよ」

看護士が一斉に辞めた事情について、先日事務所でエイマンが口を濁した理由がわかった気がした。新任してしばらくは、あの横暴な院長をみんな我慢していたが、限界が来たのだろう。一週間したら新しい看護士が来るということだが、彼らもまた辞める羽目になるのではないだろうか。それに今いる看護士だっていつ辞めるか分かったものではない。

いや、その前に患者を追い出すとはどういう料簡なのだろうか。仮にも病院とは病気や怪我をした人のための施設ではないのか。それを自分の気分で追い出すなど、言語道断ではないだろうか。自分の仕事を全うしていない。しかし、看護に関してひよっこな自分になにか言えることなどあるのだろうか。

サキがゆらりと立ち上がり、ひきつった笑顔でエイダに言う。

「……エイダさん。次の看護に移りましょう」

「お、おう」

サキとエイダはこの病室の患者の看護を終え、部屋を出た。


◆◆◆


八人部屋の病室に移動したサキとエイダ。そこには既に他の看護士が入っていた。そのうち一人はナースステーションでみた金髪巨乳の看護士、ミリィだった。もう一人は黒髪ショート、中背の看護士である。彼女をみたエイダが眉間にしわを寄せた。

「エルミラ、この部屋の看護は今日はアタシがやるっつったろ。何してんの」

エルミラと呼ばれた黒髪ショートの女性看護士がペロッと舌を出す。

「あれ、そうだっけ?」

「そうだっけって、お前。昼言っただろうが」

「エイダちん、ごめん。いつもの調子でつい」

悪びれないエルミラ。エイダはエルミラの横にいるミリィにも注意する。

「ミリィ。お前にはこの忘れっぽい先輩のサポート頼むって言ったじゃんか」

「す、すいません」

「あのな、ミリィ。先輩に注意するのは気が咎められるのかもしれないけど、こういう連絡の不備が大きな事故につながるんだ。そのうち謝っても済まない事態になる。忙しくてもそれはちゃんとやれ」

「…………はい」

本当に申し訳なさそうにミリィ。

「わかったらいいよ。そうだ、サキ」

エイダがサキに向き直る。

「そこの治療器具をエルミラのと交換してやんな。ここはあいつらに任せよう」

「はい」

サキは持ってきたワゴンの上のピンセットやら注射器やらが載った金属製のトレイを持ち、エルミラの元に向かう。

その途中で、床から飛び出た木片にスカートが引っかかった。

はずみでサキの手からトレイが放り出される。飛び出すピンセットや注射器。その先にはベッドに横たわる若い男性患者。そのままピンセットや注射器が患者に降り注ぐ。

と思われたその前に、それらはぽよんぽよん、とミリィのたわわな胸に弾かれ床に落ちた。幸いにも、注射器もピンセットも先端以外の部分がミリィの胸に当たったようである。

「だ、だいじょうぶ?」

転んだサキに手を差し伸べるミリィ。患者の危機を救ってもらい、手を差し伸べてくれたミリィに対し、サキはなぜか負けたような気分になっていた。ふと、自分の胸を見つめるサキ。一瞬の沈黙ののち

「…………ありがとう」

とミリィの手を掴み、立ち上がるサキ。その笑顔はひきつっている。

エルミラがミリィの背後の若い男性患者に声をかける。

「大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」

「ああ、ミリィさんのおかげで助かったよ」

「お見苦しいところを」

と言って、ぺこりと頭を下げるエルミラ。ミリィもそれに倣い頭を下げる。

サキが床に落とした器具を回収し、元のワゴンに戻す。

エイダがサキの肩をぽん、と叩き

「それじゃあ、アタシらは行こうか」

「は、はい」

サキはエイダについて、病室を後にした。


◆◆◆


午後の看護が終了したのは九時を回った頃だった。終業後、エイダに案内されたのは看護士の寮だった。病院の外装と同じ茶色の寮は五階建てで、病院のそばに建てられている。

約五十人がこの寮に住んでいるという。

サキの部屋は五階の一番奥の部屋だった。最上階の部屋は登るのが大変なので人気がないらしい。

「二人部屋だから、仲良くしろよ」

別れ際に洗い替え用の看護服をサキに手渡し、エイダは去って行った。その足取りは若干おぼつかなかった。きっと疲労が溜まっているのだろう。今日一日働いてわかったことだが、サキが見たところエイダは人一倍働いていた。看護作業をてきぱきとこなし、他の看護士の面倒も見るし、業務上必要な注意も忘れない。それは仕事というだけではなく、彼女の性分がそうさせるのだろう。しかし、この人手不足でそんな状態が続けは、倒れてもおかしくないのではないのか。

エイダの力になれるよう頑張ろう、とサキは思った。

一人残されたサキは、あてがわれた部屋に入る。

部屋には二段ベッドと机が二つ、そしてクロゼットと丸い壁掛け時計がひとつあった。部屋の突き当り、天井近くに壁掛け時計。その下に窓がある。そして机はその手前に横並びに置かれていた。その右の机の上には花を活けた一輪挿し、机の下には旅行鞄がある。きっとこの部屋の先輩の持ち物だろう。

サキは部屋の奥に進み、自分のザックを左側の机の上に置いた。

その中から着替えのブラウスと綿のハーフパンツを取り出す。先ほどエイダに渡された洗い替え用の看護服をしまうため、クロゼットの扉を開ける。中は、上段にはポールが水平にわたっており、数枚のハンガーが掛けられている。そしてハンガーには数着のジャケットとワンピース、そして看護服が一着。おそらく先輩の洗い替え用の看護服だろう。目を下にやると、そこには小箱が数個置かれていた。半分は空だったが、もう半分には下着や靴下が詰められていた。意識せずサキは下着の入った小箱に手を伸ばし、ブラジャーを取り上げる。フリルのついたピンクの可愛らしいブラだった。しかし可愛くないのはそのカップである。このブラの持ち主のは相当でかい。ブラをまじまじと見つめ、思わずサキは服の上からそれをあてがった。

……わたしもいつかこのブラに見合うような胸になるのだろうか。

ブラと自分の胸の隙間が妙に寒々しかった。

その時。

「……なにしてるの……?」

サキの背後にか細い声。彼女が振り向くと、そこには羞恥で顔を真っ赤にしたミリィの姿があった。サキは手に持っていたブラを放り出し、反射的に振り向き、両手を伸ばしてミリィに襲い掛かった。

彼女が掴んだのはミリィの胸だった。サキの小さな手には収まらない。

「ちょっと大きいからって調子に乗ってんじゃないわよわたしだっていつかそんな風に!」

サキが揉むたびにたゆんたゆんと揺れるミリィの胸。

「ちょっ……やめて……」

「わたしだって、栄養さえしっかりとればカップはうなぎのぼりに!」

一層激しく揉みしだくサキ。ミリィの表情が羞恥と苦痛に歪む。

「やめっ……」

「このっ、このっ!」

「……っやめなさい!!」

サキの体を掴み、自身からぐいと引きはがすミリィ。ぜえはあと全身で息をする。

サキはしばらく自分の両手をぼーっと見つめていたが「……わたしは一体何を」と呟いた。

「ほんとになんなの……」

呆れた様子でぼやくミリィ。その両腕はサキから身を守ろうと胸の前で組まれている。

「あなたがわたしのルームメイト?」

ミリィの言葉にサキは背を正し

「はい。ヴォータン傭兵事務所から参りましたサキと申します。昼間は助けてもらって、ありがとうございました」

と挨拶した。さっきまでの暴挙が嘘の様だった。

「わたしはミリィ・フォール。よろしくね」

にっこりとほほ笑むミリィ。

「よろしくお願いします」

「無理して敬語使わなくてもいいわよ」

「……、はい。じゃあ、ミリィ。よろしく」

「ふふ、よろしく。……でも、さっきみたいなことはもうやめてね」

「……ごめんなさい」

恥ずかしそうに俯くサキ。ミリィはクロゼットの使い方をサキに説明した。上段は共同で、下段の小箱は半分ずつ使うこと。

また、寮での過ごし方についても説明してくれた。朝五時起床、夜十二時までに就寝。

朝食は朝五時半から、夕食は夜十時まで。トイレは各階で、風呂は一階で共同。看護服は毎日、一階の共同洗濯場で洗うこと。

ミリィのしゃべり方はおっとりしており、丁寧だった。また、聞く者を和ませるような声音である。

「……わかった?」

「うん」

サキはミリィより頭一つ分以上長身なので、自然と見上げる形になる。そこでサキは気付いた。ミリィの目の周りが赤く腫れていることに。それは泣いた跡だというのは明らかだった。

「ミリィ、目が」

「……、ああ、これ?」

ごしごしと目の周りをこするミリィ。

「なんでもないの」

明らかに嘘だったが、サキはそれ以上踏み込まないことにした。会って間もない人を追及するのが、どうにも憚られた。

「それより、サキ。その服の裾」

ミリィがサキが着ている看護服の裾を指さす。

「?」

「破れてる」

よく見ると、前の裾の一部が裂けていた。おそらく昼間、エルミラとミリィがいた病室で躓いた時だ。

「脱いで」

「え?」

言って、ミリィがサキの両肩を掴む。ものすごい力だ。サキは身動きが取れなかった。

「いいから、わたしにまかせなさい」

言うや否や、ミリィはサキが着ている看護服を剥ぎ取った。あっという間に下着姿にされるサキ。今日は白のキャミソールとショーツだった。

「きゃあ! な、何を」

先ほどの仕返しだろうか。ミリィがサキの小さな胸に手を伸ばす。

といったことは全くなかった。ミリィは看護服を持ったまま、自分の机に向かった。そして机の抽斗から裁縫道具を取り出し、裾の破れを繕い始めた。その手つきは手慣れたもので、見る見るうちに敗れた箇所が閉じられていった。

「はい、完成」

修繕が終わった看護服をサキに返すミリィ。

「……ありがとう」

「わたし、裁縫は得意なの」

その生き生きとした表情と動作は、昼間のナースステーションでのものとは別人のようだった。

「一週間は短いけど、服は大切にしてね。今みたいに破れた箇所があったら、わたしに言って?」

頷くサキ。

「そんなに裁縫が得意なのに、なんでミリィは看護士に?」

「……そうよね。私は仕事も遅いし要領も悪いし、看護士に向いてないよね」

「いや、そういうつもりじゃ」

慌てるサキ。

「うん。わかってる。でも、立派な看護士になるのが私の目標なの。

……わたしは幼い頃に母親を亡くしてるの。もともと病弱だったらしくて、長くは生きられなかったんだ、って父は言ってたわ。でも、母は精一杯私を愛してくれたわ。

だから、わたしは病気の誰かを支えられるようになりたいって思ったの」

そのミリィの言葉は、サキの胸をちくりと突き刺した。サキは父を殺され、母は現在精神病患者の療養施設にいる。サキがまず考えたのは、自分と家族をこんな境遇に追いやった犯人への復讐だった。そして母とはもう三年顔を合わせていない。家族のために復讐を考えたが、自分はちっとも家族のことなど考えていなかったのではないか。母に会いに行くことくらい、いつだってできた。

対してミリィは母の死を受け入れ、目標を定め、自分の道を歩き始めている。

「ミリィは、すごいね」

ううん、と首を振るミリィ。

「わたしは全然。でも、きっとエルミラさんやエイダさんみたいな看護士になってみせるわ」

力強く語るミリィの目は輝いていた。

「いけない、もうこんな時間」

ミリィが部屋の時計を見て言った。もうすぐ十時になろうとしている。

「お風呂、まだでしょ? もうすぐ終わりだから、早く行きましょ」

「う、うん」

サキは戸惑った。今度は生であのボリュームを目にしないといけないのか、と。


◆◆◆


二日日。サキは昨日と同様に着替を終え、エイダについて看護作業の補助をしていた。

エイダはマウロの点滴を取り換える作業をしていた。架台から使用済みの点滴瓶を外す。

そこで、彼女が瓶から手を滑らせる。落下する瓶を空中で掴むサキ。

「エイダさん、大丈夫?」

「……ああ、すまない」

エイダは新しい瓶をワゴンから取り出し、架台へ取り付ける。

「危なっかしいな……。ところでエイダ。看護食がまずいぞ。肉を食わせろ」

「あんたは肝臓だけじゃなくて胃もアルコールで焼けてるから、オートミールで我慢しな」

マウロの要求をばっさり切り捨てるエイダ。昨日よりも言葉にトゲがある気がする、とサキは思った。

「ぐぬぬ。老い先短い老人になんたる仕打ち。貴様、碌な死に方はせんぞ」

「それは困る。アタシゃ、幸せな人生を送りたいんだ。あんたみたいなアル中じゃない、金持ちの素敵な男と一緒に暮らす」

「言うに事欠いてアル中とはなんだ」

「違うのかい?」

ぐぬぬ、と呻くマウロ。その怒りの矛先はサキに向けられた。

「おいチビ」

「サキです。チビって言わないで」

「チビをチビと言って何が悪い。……お前はエイダみたいに愛想のない女になってはならんぞ」

「エイダさんは立派な看護士です。マウロさん、あなたはもっとエイダさんに感謝してもいいんじゃないでしょうか」

「ぐぬぬ、減らず口を。エイダ、お前はどういう教育をしてるんだ」

「見ての通りだよ」

エイダが点滴のコックを捻る。点滴液が入った瓶から、液がチューブを下っていく。

そこでサキは気づいた。チューブ内に空気が入っているのを。

見る間にチューブを下っていく空気の塊。

サキはすかさず袖から、矢尻を紐でつないだ暗器『アンカーウィップ』を取り出し、点滴チューブを切り払った。暗器は、着替えの時に手鏡などと一緒に、服に忍ばせておいたものだった。

チューブはマウロの腕のそばから切断され、液が宙を舞った。

マウロの体内には済んでのところで届かなかった。

全く状況が呑み込めないエイダとマウロの目が見開かれ、口があんぐりと開いていた。

他の患者も騒然としていた。

「な、な、なにをするんじゃチビ!」

我に返ったマウロが非難した。

「すいません」

サキがエイダに向き直り

「……エイダさん、チューブに空気が」

と言った。その言葉にエイダはハッ、とした。

「ごめんなさい!」

マウロに謝るエイダ。

「な、なんじゃ!?」

まだ状況が呑み込めないマウロが、彼女の突然の謝罪にうろたえる。

「じいさんに投与する点滴、空気が混じってた」

「なんじゃと!? ……お前、わしを殺す気か!」

「本当に申し訳ない」

マウロの怒りは収まらなった。点滴する前にもっと確認しろ、気が緩んでるんじゃないのか。そもそも看護士に向いていないんじゃないかということまで言い出した。

その非難にエイダは反論せず、「ごめんなさい。ごめんなさい」とひたすら頭を下げ続けた。

サキそんなエイダを見るのは忍びなかったが、完全にこちらのミスである。ただ立っているしかなかった。

しかし救いの手は別のところから差し出された。

「……ちょっとマウロさん、言いすぎなんじゃない? エイダちゃんはよくやってるよ」

それは同じ病室の他の患者からだった。

「朝早くから夜遅くまで、たくさんの患者の世話して」

「同僚の仕事も手伝って」

「後輩や新人の面倒も見て」

次々に患者からエイダを応援する言葉が投げられる。

「みんな……」

エイダが呟く。

「それにマウロさん。あんたが無茶言って面倒かけるから、エイダちゃんが疲れるんじゃないか」

「なんじゃと!? わしが悪いというのか?」

他の患者を見回すマウロ。全員が一様にうんうん、と頷いていた。

「と、年寄りになんたる仕打ち……」

マウロががっくりとうなだれた。

「まあ、エイダちゃんがミスしたことは確かだ。でも、事故を未然に防いだサキちゃんを褒めてあげようよ。ね、マウロさん?」

マウロを促す患者。ゆっくりとマウロは顔を上げた。

「……そ、そうじゃな。よくやってくれた、チビ」

「………………」

無言で顔を赤くするサキ。どうやら礼を言われるのには慣れていないようだった。返事の代わりにぺこりと頭を下げた。

エイダも

「アタシもだ。助かったよ、サキ」

と言った。サキはエイダに

「……いえ、そんな……」

と嬉しそうに一礼した。


◆◆◆


その日のサキの活躍は一部の患者に知れ渡ることになった。エイダはサキに信頼を置いたのか、サキに看護方法を色々と教えた。そしてサキは看護を患者に実践してくこととなった。サキは教わった通りに看護をしているのだが、

包帯を取り換えては

「これくらいのケガで痛がってるんじゃないわよ」

と余計きつく縛ったり、

錠剤を与えては

「顆粒薬が苦い? じゃあ味を感じないよう、舌を切り取ってあげるわ」

と患者の舌をつまんだり、 

挙句の果てには看護食を渡し、

「餌の時間よ。まずいとか少ないとか文句言うやつは出てきなさい。この看護食がごちそうに思えるくらい、もっとひどい物食べさせてあげるわ」

と患者を煽る始末だった。

エイダはサキの言動を注意したが、患者から文句が出ることはなかった。それよりむしろ、男性患者からはサキの看護に期待と興奮を持って迎える節もあった。

それを見たエイダは患者に「変態どもめ」と吐き捨てた。

しかし、サキにある程度看護を任せてからエイダの負担が減ったのも事実だった。エイダはその余裕を確認の時間に当て、ミスの無いように努めた。


その日の午後、サキはエイダからの指示で五階の資料室から薬剤のカタログが載っているファイルを取ってくるよう頼まれた。目的のファイルを見つけ、退室するサキ。

すると、廊下の奥からばたん、と大きな音がした直後、ミリィが走ってこちらに向かってきた。その足取りはふらふらと今にも倒れそうだった。そして顔は恐れの色に染まっている。

サキは「ミリィ?」と声をかけたが、ミリィはサキに気付かなかったのか、そのまま通り過ぎてしまった。階下に降りるミリィ。

サキはミリィが走って来た方角を見やった。彼女は廊下の一番奥から走ってきた。

……あそこは院長室があったはず。

サキは胸騒ぎを覚えながらもナースステーションに戻った。


◆◆◆


三日目。午後の休憩中。ナースステーションにミリィの姿はなかった。

朝、サキは身支度をしていたのだが、ミリィは布団に入ったままだった。サキは起こそうとしたが「もうちょっと眠いから、先に行って」という返事だった。

そして現在、本日ミリィは欠勤となっていた。

「憶測でものは言いたくないけど、セクハラされたんだろうね。院長に」

サキが昨日のミリィの様子をエイダに伝えたら、そんな答えが返ってきた。どうやらそれは公然の事実のようで、話を聞いていた他の看護士に驚いた様子はなかった。

「院長は色情狂なんだよ。ここの女は全部自分の好きにできると思ってる。サキも見ただろ? 初日にアタシをナンパしてるとこ」

確かにフェネンは病室でエイダをナンパしていた。

「おまけに院長だ。病院の最高権力者だから、ずっとやりたい放題さ。誰も咎める奴がいないからな。

それにミリィはあの性格だろ? 院長にとっては格好の獲物だよ」

「じゃあ、もしかして、ここの看護士が一斉に辞めたのって……」

「院長のセクハラのせいさ」

その言葉に、サキは全身の力が抜けるようだった。看護士や患者への横暴だけではなく、セクハラまであったとは。院長がここまで邪悪だとは思わなかった。

「ここでは院長に逆らう奴、院長の言動を流せない奴は辞めるしかないんだよ。こないだもセクハラ以外で追い出された奴が一人いたからな」

「セクハラ以外って?」

その質問にエイダはハッ、と口を押えた。

「あー、これ言っていいのかな……。まあ、サキは口が堅そうだからいいか」

言って、エイダはある事件について語り出した。

一か月前、ある中年女性患者の腎臓の切除手術でのことだ。ブンダが執刀するはずの手術を、急にフェネンが務めることになった。しかし女性は手術のミスで命を落としてしまった。フェネンはミスを助手のニークという男性医師のせいにした。フェネンと患者の家族に責められたその助手は、病院にいられなくなり、辞めてしまったのだ。

「なんで手術がブンダさんから院長に代わったの?」

「その患者がグラマーで美人だったからだよ。院長は手術して患者に恩を着せて、手を付けようとしてたんだ」

「なにそれ!? ……ひどい」

「ああ。ひどい話さ。でも、ここではそれが常識なんだ」

「じゃあ、看護士は泣き寝入りするしかないの? そうなったらミリィは……」

彼女は優しいが、強いわけではない。

「辞めるしかないだろうな」

「……なんとかできないの?」

「言ったろ? 院長に逆らう、院長の言動を流せないやつは辞めるしかないって。自分でなんとかできる奴しかここでは残れないんだ。冷たいようだけど、それが現実だよ」

サキは悔しかった。ミリィは決して仕事は早くないが、丁寧に、確実に仕事をこなす。それは病院という、命を扱う職場では大事な資質ではないかと、サキは感じていたからだ。

「そうだ、サキ」

「なに?」

「お前、まだ四階の看護はまだだったな」

「ええ」

サキがエイダと主に回っているのは一階から三階の病室だ。

「そこの戸棚に入ってる菓子持って、四階に行ってくれ」

部屋の奥の木製の戸棚を開けるサキ。そこにはクロノスでは有名な高級菓子の詰め合わせが入っていた。

「エイダさん、これは?」

「ご機嫌取りだよ」


◆◆◆


エイダの指示で四階に移動したサキ。この階の病室は全て個室で、金持ち用のものという話だ。四〇一号室の前に立ち、サキは扉をノックする。

「失礼します」

と扉の向こうに呼びかけると「入りたまえ」というしわがれた声で返答があった。

ドアノブを回し病室に入るサキ。そこは八人用の病室並みの広さの部屋だった。天蓋付きのベッド、毛足の長い絨毯、壁には大きな絵画、そして戸棚やクロゼットといった調度品も高級なものだとわかった。

病室にはベッドに老齢の男性患者が一人。石膏で固められた右腕を、肩から布で釣っている。どうやら骨折しているらしい。エイダの話では、この患者はゲムカという名前らしい。白髪交じりの茶髪にワシ鼻が特徴的だった。そしてもう一人、ベッドのそばに立つ者がいた。

「やあ、君か」

それは金縁眼鏡の白衣をまとった男、フェネンだった。サキに声をかけるフェネンは、先日サキを殴ったことなど、おくびにも出さないような態度だった。

「何か用かい?」

「……ゲムカ様にお見舞いの品を」

エイダに教わった通りに、サキが言う。フェネンの元まで進み、高級菓子を渡す。

「ああ。待っていたよ」

受け取り、丁寧な手つきで包みを開けるフェネン。中身はクッキーだった。フェネンはそれを差し出し、ゲムカが左手で受け取る。

「旦那様はここの菓子を嗜好していると聞きましてね」

「おお、ありがたい。ワシはここの菓子がクロノスで一番好きなんだ」

クッキーを口に運び、味わうゲムカ。満足そうに笑っている。

「うむ。最高だ」

「それは何よりです。ついでに治りが早まると良いのですが」

「うむ。そうだな。……いや、それは困る」

「? なぜでしょう?」

「ここは居心地がいいでな。いつまでも滞在したくなるわい」

「勿体ないお言葉です。ですが旦那様がお望みなら、いつまでも滞在して構いませんよ。なんなら一日中、専属の女性看護士も付けましょう」

「そいつはいい。可愛い子を頼むぞ」

「勿論。ですがその場合、入院費は可愛くありませんよ?」

「がはは。構うものか。金ならドブに捨てるくらいあるわい」

談笑する二人。その様子を見てサキは不愉快になっていた。つい先日、ゲムカと同じように骨折で入院していた老人の患者を、フェネンは邪魔者として追い出した。しかしゲムカの前ではこの態度である。彼が金持ちだから優遇しているのだ。

フェネンが雑談をやめ

「あ、君。そうだ」

と、サキに声をかけた。

「なんでしょうか?」

「後で僕の部屋にコーヒー持って来てくれる?」

「……わかりました」

サキはしぶしぶ了承し、病室を後にした。


◆◆◆


しばらく後、サキは五階の院長室の前に立っていた。その手には銀製のトレイ。トレイにはコーヒーカップと、砂糖とミルクそれぞれが入った小さな壺、そして銀のスプーンが乗せられている。

すると、中からフェネンと誰かが言い争う声が聞こえてきた。

「お前はこのままでいいと思っているのか!」

「思ってないよー。だから看護士を募集したじゃん」

どうやら院長と話しているのはブンダのようだ。

「入れればいいというもんじゃない。病院の体制、すなわちお前が変わらん限りこの病院は潰れるぞ!」

「それは心配ないよ。その時は金持ちの患者だけ受け入れればいいんだからさ」

「いい看護士のいない病院に患者が来るものか!」

「その時はお金でいい看護士を募集するよ」

「腕のある看護士がこんなひどい病院になど来ることはない!」

「ふふん? 金で言うことを聞かない人間がいるものか。……ブンダさんには僕のパパの時代からお世話になってるけど、あんまり楯突くと、クビにしちゃうよ?」

「……話にならんな」

ツカツカと、扉に足音が近付いてくる。乱暴に開かれる扉。中からブンダが出てきた。

ちなみに危険を感じたサキはあらかじめ扉との距離を取っていた。

扉の陰に隠れた形になったサキには気付かず、ブンダは五階から降りて行った。開かれたままの扉から先が中を覗く。彼女に気付いたフェネンが

「やあ、君か。おいで」

と院長室に招いた。「失礼します」と部屋に入り、片手で扉を閉めるサキ。

その部屋は異様だった。机や本棚、絨毯は単なる高級品である。問題は壁面だった。壁を埋め尽くすように、裸婦画が掛けられている。サキはそれらの絵画から一斉に見つめられるような錯覚を覚えた。途端に部屋の空気の粘度が上がるようで、、息苦しさを感じる。

沼の中を進むようにして、サキはフェネンが座る机の上にコーヒーを運んだ。

「ご苦労様。さっそく貰おう」

砂糖とミルクをカップに入れ、スプーンで混ぜるフェネン。そしてコーヒーを口にする。彼はにこりと笑った後に

「先日は手荒なマネをしてすまなかった。君の活躍は聞いたよ。間一髪で患者を助けたって?」

先日のマウロの点滴の件のことだろう。

「ええ、まあ」

曖昧な返事をするサキ。

「謙遜するな。僕は優秀な看護士が好きなんだ」

さらにコーヒーを一口すする。カップを机に置くフェネン。その表情が不機嫌そうに歪む。

「……しかし、エイダは何をやってたんだか。あいつには目をかけてやってたのに」

「……え?」

「あいつのミスで患者が死ぬとこだったんだろう? なんてマヌケなんだ」

「それは、あの」

エイダは連日の激務で疲れていた節があった。それはマウロと同室の患者も周知のことだった。サキは反論しようとしたが、その前にフェネンがまくし立てる。

「ニークといいエイダといい、どれだけ僕の足を引っ張るつもりだ。ミスで患者が死ねば、僕の病院の評判が落ちるじゃないか」

ニークって、確かフェネンに辞めさせられたという医師だっけ……?

「まあ、エイダにもそろそろ飽きてたとこだ」

言って、フェネンは椅子から立ち上がり、サキの眼前に立った。

「最近は若い子にそそられるんだよねえ」

フェネンはサキの体に腕を回し、尻を撫で始めた。

「……っ!」

思わず身を固くするサキ。持っていたトレイを床に落とす。

「まだ、肉付きは良くないけどこの先期待できるねえ。……昨日のミリィも良かったけど、君も資質十分だ」

フェネンがさらに尻を揉む。

「君、僕の秘書にしてあげようか? 給料は二倍出すよ?」

直後。サキの袖からアンカーウィップが飛び出し、フェネンの首をかき切った。吹き出す鮮血が部屋を汚す。壁の裸婦画が紅く染まる。そのままどさりと床に崩れ落ちるフェネン。

虚ろな目が壁の裸婦画の一枚を見つめていた。

……という光景を想像したサキだが、フェネンを押しのけるにとどまった。

「……考えておきます。仕事があるのでこれで」

「そうかい? またコーヒー、よろしくね」

トレイを拾い、一礼するサキ。院長室を後にし、扉を閉めた。しばらく呆然と立ち尽くすサキ。噂は本当だった。そしてフェネンは「ミリィも良かった」と言っていた。やはり彼女は彼にセクハラを受けたのだ。そして彼の言う「秘書」とは、おそらく娼婦のような役割を担うことになるのだろう。この病院の看護士は院長の持ち物のように扱われている。

その状況に、サキが思い出したのは昨日のミリィの姿だった。青ざめた顔で院長室から逃げたミリィ。母を亡くし、立派な看護士を目指す彼女を、フェネンはその矜持ごと踏みにじろうとしている。そんな理不尽が許されてたまるか。

サキは踏み出し、同階にある資料室へと入った。


◆◆◆


「ミリィ、寝てる場合じゃないわよ!」

終業後、寮の自室に戻ったサキは、ベッドに潜っていたミリィを叩き起こした。

「な、なに?」

「起きて。話、聞いて」

サキの有無を言わせぬ迫力に、サキはベッドから起き上がり机に座った。サキもミリィの隣に座る。

「わたし今日、院長にセクハラされた」

「……え?」

「院長室で、お尻触られたの」

「……サキも?」

「やっぱり、ミリィもされたんだね」

「……うん」

「ミリィ、率直に言うわ。院長に仕返ししよう」

「え?」

きょとんとするミリィ。

「懲らしめてやろう。わたし達にはその権利がある」

「懲らしめるって、そんなこと」

「エイダさんにも話は聞いた。ここでは看護士は院長に逆らえないって。逆らったらクビになるって。だからって、わたしたちが反撃しないっていうのはおかしい」

「それは……そうだけど」

ミリィもこの病院の中が異常だというのは分かっていた。だが、院長に逆らえばクビになる。そうなってしまえば看護士になるという目標が叶わなくなる。それゆえに彼女は身動きが取れなくなり、院長にされるがままになっていたのだ。

サキが続ける。

「わたしが言える立場じゃないけど、このままじゃこの病院は変わらない。院長のセクハラが原因で、看護士が一斉に辞めた。それで募集をかけてる。でも、セクハラが無くならない限り、また看護士は辞めちゃうことになる。だから、院長に思い知ってもらう必要がある。わたしたちは怒ってるって」

「どうしてサキがそこまでしようとするの?」

「許せないから」

「…………」

「院長がミリィの目標を潰そうとしているのが、許せないから。

……ミリィはお母さんを失って、悲しみを乗り越えて看護士を目指してる。そのあなたをまるで使い捨ての道具のように扱おうとしてる奴がいる。そんなの、だめだ」

父の仇への復讐を成すという、いまだに暗闇の中をさまよっているサキにとって、ミリィは一筋の光のように見えた。その光を失うことは耐えがたいことだった。

「サキ…………」

「だから私は院長に仕返しする。ミリィがやらないって言うなら、わたし一人でやる」

ミリィはしばらく逡巡し

「わたし……やるわ」

と決意した。

「ミリィ、よく言ってくれたわ」

「で、どうすればいいの?」

「わたしに考えがあるの。これを見て」

サキがポケットからメモを取り出し、机に置いた。ミリィが目を通す。

「ミリィにはこれをやって欲しいの。お願いできる?」

「わかったわ」

二人は深夜まで、院長に仕返しをするための計画を詰めていった。


◆◆◆


四日目、そして五日目。サキとミリィは普段通り出勤して患者の看護に努めた。サキはエイダ以外の大勢の看護士の補助として働いた。また、ミリィは病院から排出される布類の回収をおこなった。

終業後も二人は計画の実行に向け、準備を進めていった。


◆◆◆


六日目。再びフェネンに呼ばれたサキ。エイダは「気を付けなよ」と声をかけ、サキを見送った。あらかじめ砂糖とミルクなどを混ぜたコーヒーをトレイに乗せ、院長室の扉の前に立った。こんこん、と扉をノックする。扉の向こうから「入りたまえ」という声があがる。「失礼します」と扉を開けるサキ。この間と同じ、裸婦画だらけの異様な光景が広がる。

裸婦画を視界から追い出すようにし、フェネンの前に進み出るサキ。

「お呼びでしょうか」

と、コーヒーカップをフェネンの机に置くサキ。

「うん。この間の話、考えてくれた? って言っても断る選択肢はないと思うけど。この病院で僕に逆らうことができる奴なんかいないからねー」

にやりと笑うフェネン。その視線がコーヒーカップへと落ちる。

「おや? 砂糖とミルクを混ぜてくれたのか? 気が利くね。利発な子は好きだよ」

カップを手に取り、コーヒーをすするフェネン。

「温度もちょうどいいし、味もいつもよりコクがある。君なら僕の最高の秘書になれるよ。……で、どうだい?」

フェネンの秘書になるかどうかを迫られるサキ。秘書になればこの病院では安泰、拒めばクビ。そんな二択だった。しかし、サキの答えは決まっていた。

「その前に、院長。先ほど院長に会いたいという若い女性が、下の階に見えられていましたが」

「なに?」

フェネンの眉がピクリと動く。

「それは、君から見て美しい女性か?」

「ええ、それはもう。とてもグラマラスな体形で、胸元が大きく開いた服にミニスカートをまとった、大変魅力的な方です」

「素晴らしい。行こう、案内しろ」

椅子から立ち上がるフェネン。足がもつれて転びそうになった。美女に会えると思い、動揺しているようだ。下の階まで、フェネンを案内するサキ。興奮した彼は、現在の階が分からなくなるほど興奮しているようで、「まだ着かないのか、まだ着かないのか」と呟いていた。そして彼の鼻息はサキに当たらんばかりに荒かった。

階下に着く二人。奥に縦びた通路はほんのりじめっとして、ひんやりしていた。通路の途中に人影が見える。

薄ピンク色のブラウスに同色のミニスカート。ブラウスはの胸元は大きく開いており、大きな胸が覗いていた。その女性は室内だというのにつばの広い帽子を目深にかぶっており、

表情が伺えない。帽子から伸びたつやのある茶髪が彼女の魅力を引き立てていた。

「か、彼女か?」

「ええ」

前に進み出るフェネン。帽子の女性に握手を求める。手を握り返す女性。

「初めまして。この病院の院長のフェネンだ……体調がお悪いのかな? 手が冷えてる」

「元々体温が低いんですの。ごきげんよう。フェネンさん。でも、初めましてではないわ」

「以前お会いしたことが?」

「ええ、一か月前」

「おかしいな。一度会えば、あなたのような美人を忘れるはずないんだが」

「無理もありませんわ。あの時あなたはとても忙しそうにされていたようだから」

「そうだったか? でも、再びお会いできて光栄だ。こんなところで立ち話もなんだ。私の部屋で話をしよう」

「喜んで。ですがその前に、診ていただきたいものがあるの」

「診て欲しいもの?」

女性はブラウスをめくり、フェネンの前に腹を晒した。そしてへその右あたりを指さす。

「ここが痛むの」

女性が指さした先には、縫合の後があった。覗き込むフェネン。

「手術の跡が痛むのか?」

「ええ」

「それはヤブ医者に当たったな。僕が手術すればそんなヘマしないんだが。不運だったね」

「あなたよ」

「え?」

「手術したのは、あなたよ」

「な、なんだと」

女性の顔を覗くフェネン。青白いその顔を見て、彼の目が驚愕で見開かれる。

「き、君はまさか……!」

「一か月前、あなたが手術したリリットよ」

そこでフェネンは気付いた。この階は地下一階―――霊安室がある―――ということに。

「君は、死んだはずじゃ……!」

「ええ。あなたの手術のせいでね。でも仕方ないわ。あなたは忙しかったんだもの。手術の責任を助手に負わせなければならないくらい」

「あ、あれはもう、手遅れだったんだ。末期症状だった」

「嘘。病気は初期の症状で、悪い部分を切除すれば治るって、ブンダさんは言ってたわ。

わたしは悔しかった。治るはずの病気で命を落とした。夫と子供を残したまま旅立たなきゃならなかった」

「…………」

「一人で逝くのは寂しかった。でも、夫と子供を連れて行くわけには行かないわ。

リリットがフェネンの首にそっと右手を添える。

「一緒に来てくれるわよね」

凄絶な微笑みを浮かべ、手に力を込めるリリット。それは女性のものとは思えないくらいの強さだった。体を持ち上げられるフェネン。つま先がかろうじて床に着いている状態になった。その顔がみるみるうちに青くなっていく。

「ゆ、許してくれ。僕が悪かった……!」

かすれる声で、フェネンが呻く。

「だめ。あなたが悪いのよ。あなたがこの病院にいる限り、被害者は浮かばれないわ」

「許してくれ……、許してくれ……」

涙と洟を流すフェネン。リリットは空いている左手で、ポケットからメスを取り出した。

それをフェネンの頸動脈にぴったりとくっつけた。「もう、悪さはしないって誓う?」

「……ち、誓います……!」

「……そう…………わかったわ」

リリットは微笑み、右手の力を緩めた。


「でも、だめ」


言って、リリットが左手を引いた。鈍い銀の光が薄暗い通路に煌めく。冷たいメスの感触にフェネンは悲鳴を上げ、全身の力が抜けてしまい、失禁した。その場に崩れ落ちるフェネン。尿が床を濡らし、じわじわと広がっていく。


「……これに懲りたら、二度と悪さしないでくださいね」


リリットが帽子を脱ぎ、フェネンに声をかける。呆然としてリリットを見つめるフェネン。

「き、きみは、リリット……じゃなくて、ミリィ……か?」

頷く帽子の女性。リリットの正体は変装したミリィだった。

「なんで、僕は君とリリットを間違えて……?」

「何か悪い物でも口にしたんじゃないですか?」

後ろからサキ。実は先ほどフェネンに持っていたコーヒーには、ミルクと砂糖と一緒に幻覚剤を混ぜておいたのだ。幻覚剤を服用した人間の視覚を思い通り操ることはできないが、ある程度の方向付けをすることはできる。それが先月手術のミスで亡くなったリリットだった。サキはセクハラを受けた直後、資料室でリリットの治療記録を手に入れた。そして他の看護士から彼女の特徴を聞いた。そうしたら、ミリィの体形に近いということがわかった。そして当時の彼女の服装をミリィに縫製させ、変装させた。後は幻覚剤を飲んだフェネンに、ミリィをリリットと思い込ませればいい。

「あれ、僕、そういえば、首……?」

メスを当てられていた部分をさするフェネン。そこには傷一つついていなかった。

「峰打ちです。ご安心を」

ミリィがメスをフェネンにかざす。彼はしばらく呆然とした後、わなわなと震え出した。

「お前ら、こんなことしてただで済むと……!」


「あれ、院長? 具合でも悪いんですか?」


フェネンを見下ろすサキの背後から、エイダの声が聞こえた。そして、エイダの後ろからぞろぞろと、エルミラを含め数十人の看護士がついて来ていた。あっという間にフェネンを取り囲む形となった。

「お、お前らなんでここに! 仕事はどうした!?」

驚くフェネン。

「なんでって、地下から悲鳴が聞こえたんで何事かと」

しれっと答えるエイダ。

「……お前ら全員グルか……!」

恨めしそうに看護士達を見回すフェネン。しかし床を濡らす液体が、迫力を激減させていた。

「お前ら、全員クビだクビっ!! 路頭に迷ってくたばれ!」

「全員、元よりそのつもりだよ」

エイダがポケットから封筒を取り出し、フェネンに放り投げる。封筒の表には「辞表」の文字。ミリィも他の看護士もそれに続く。

前日、サキは看護の合間に今回の計画を看護士全員に話した。説得に時間はかからなかった。それは、それだけこの病院が病んでいることを物語っていた。しかし辞表のことはサキは知らなかった。きっと、エイダがみんなに根回ししたのだろう。


「アタシらのクビはいいんだけどさ。今入院してる患者はどうするつもりなのさ?」

「知るかっ! そんなことどうでもいい!」


「バカモンがっ!」


地下に怒声が響く。声の主は人垣の外にいた。白髪オールバックの痩せた老人だ。年の頃は六十手前といったところだ。その老人を見た看護士達は、驚いたようにざわついた。

サキがエイダに問う。

「誰? あの人?」

「ブルータルさんだ。この病院の前の院長」

ブルータルが人垣を分け、フェネンの前に立つ。

「久しぶりに来てみれば、なんだこの有様は」

「ぱ、パパ……。こいつら、僕に逆らって」

「当たり前だバカモン!」

ブルータルの拳骨がフェネンの頭に落ちる。

「話はブンダから聞いた。わしが病院を去る前、ブンダの言うことを聞けと、口を酸っぱくして言ったろうが!」

「だってあいつ、こまごまとうるさいんだ。あれはダメ、これはダメって」

「お前がブンダに勝てるところが一つでもあるのか? あるなら言ってみろ」

フェネンは無言だった。

「オムツの取れないガキが生意気言ってるんじゃない。お前は一からやり直せ」

「……ご、ごめんよ。パパ」

それきりフェネンは黙ってしまった。フェネンを尻目に、ブルータルがエイダ達看護士に土下座した。

「ブルータルさん、何を!?」

うろたえるエイダ。

「息子の責任は親であるわしの責任だ。どんな償いでもするから、どうかこのバカを許してやって欲しい」

「そんな、ブルータルさん。顔を上げてよ。あんたが謝ることじゃないじゃないか」

「フェネン! お前も謝らねえか!」

フェネンはのろのろと土下座をし

「……ごめん」

と力なく言った。顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにし、あまつさえ失禁したフェネンのその姿に、本来なら胸のすく思いだったろう看護士達は何も言えなかった。

ブルータルが顔を上げ言う。

「このバカにもう一度鍛えなおすチャンスをやってくれ。どうかこの病院をみんなの力で立て直して欲しい。ここを頼りにしてる患者が大勢いるんだ……!」

再び床に額を付けるブルータル。

エイダが床に落ちている封筒を拾う。そしてブルータルの肩を抱き、身を起させる。

「ブルータルさんに頼まれたんじゃ、断れないよ」

他の看護士もエイダに続き、封筒を拾った。


◆◆◆


最終日。サキは普段通りに仕事をこなした。他の看護士はみな、忙しさに文句を言いながらも上機嫌だった。ずっと空を覆っていた雲が無くなったような、そんな雰囲気だ。

マウロはサキが今日で病院を去ると知って「また、来てくれよな」と酒場の店主のようなことを言っていた。また、他のごく一部の男性患者からは露骨に寂しがられた。サキにはその真意が全く分からなかったが「早く治して退院しなさいよ、ヘタレ」と言うと患者たちは歓喜の涙を流していた。

仕事中に看護士から漏れ聞こえた話だが、フェネンは看護士見習いに降格。文字通り一からやり直すことになった。今日はエルミラの元でミリィと一緒に看護をしていた。

ブルータルは無給の監視役として、病院に復帰した。

そして院長にはブンダが据えられた。技術と知識、そして看護士と患者からの人望もあるため、嫌がる者はいなかった。

当人は「経営を考えなきゃなんねえんだろ? 手術に集中したいってのに面倒な……」と文句を言っていたが、当分はブルータルが手伝うとのことでしぶしぶ了承した。


終業後、ナースステーションではサキの送別会が開かれていた。といっても、まだ仕事をしている看護士が大半なので、参加したのはエイダとミリィ、そしてエルミラの三人だった。

「募集、取りやめたんだって」

新しく看護士を募集するのをやめた、とエイダがサンドイッチを食べながら言った。

「じゃあ、この病院の人手不足は?」

サキが問う。

「ブルータルさんが先週辞めてった看護士たちに事情を説明して、呼び戻すことになった。アタシとしては新人教育しなくてよくなったから、万々歳だよ」

フェネンに責任を押し付けられて、辞めさせられてニークにも声を掛けているらしい。フェネンに煮え湯を飲まされたこの病院に戻るのは躊躇するだろうが、ブルータルとしては、実力のある看護士を呼び戻したいのは本心だった。

それはよかった、とサキ。オレンジジュースのグラスに口を付ける。

「うん。ほんとに良かったよ~。ありがとね、サキちん」

エルミラがサキに礼を言う。

「ミリちんもすごかったね。あれ、素?」

「いえ、わたしも夢中で。何があったかあんまり覚えてないんです」

フェネンを追い詰めたミリィの演技。あれは普段の彼女とは別人のようだった。

「いやあ、アタシが男だったらミリィみたいな女と付き合いたいもんだ。あの衣装、エロかったしなー。あれ、もっかい着てよ、ミリィ」

「や、やですよ。あんな恥ずかしい服は二度と着たくないです」

「なにい? アタシに逆らう気か?」

言って、エイダがミリィの胸を揉みしだく。苦悶の表情を浮かべるミリィ。

「え、エイダ先輩、あんっ。や、やめ……」

「うりゃうりゃ、これでもか、これでもか!」

看護服の上からでもわかる圧倒的ボリュームが、エイダの手の中で踊り回る。

「あ、あん……や、やめっ。やめてください!」

たまらずエイダの腕を掴むミリィ。

「いだだだだだだ! ギブ、ギブ!」

涙目になるエイダ。

「お前、力強いよなー。折れるかと思った」

「先輩がふざけるから……」

両腕で胸を隠すミリィ。

「きっとあれだよミリちん。リリットさんが力を貸してくれたんだよ」

手術のミスで命を落としたリリットはさぞ無念だったろう。だが、今回のことで少しでも無念が晴れてくれればいいと、サキは思っていた。

「サキ、本当にありがとう。わたし、あなたに勇気をもらったわ」

ううん、と首を振るサキ。

「ミリィがもともとすごいんだよ。ミリィの邪魔をするなんて許せないって言ったけど、本当はうっぷんを晴らしたかっただけかもしれないし」

それに、本来サキの立場でこんな大それたことをするべきではなかったのだ。サキは一週間だけいる人間なので、嵐が通り過ぎるのを待てばよかった。しかし、この病院の正規の看護士はどうだ。エイダが、ミリィが、エルミラが、ブンダが、はたまた他の看護士の立場が悪くなって、ずっと不遇の生活を送らなくてはならなくなる可能性だってあったのだ。その場合、サキは正規の看護士を煽っただけで、やり逃げする結果となっていた。

今考えたら、ぞっとするような見込みの甘さである。今回はたまたま成功しただけだ。

だけど、サキは動かずにはいられなかった。

一所懸命に働いている人が馬鹿を見るなんて、あってはならないと強く思った。

「それでも、ありがとう」

「うん」

ミリィがサキに、オレンジジュースの入ったグラスをかざす。自身のグラスをそれに軽くぶつけるサキ。かちん、と小気味よい音がなった。

「お、なんだなんだ。二人だけで盛り上がってんじゃねえぞ」

「そうだよミリちんサキちん。わたし達も入れてよ」

四人でグラスを合わせ「乾杯」の声がナースステーションに響いた。


◆◆◆


一時間ほどして送別会はお開きとなった。グラスや食器を片付け終わり、サキがナースステーションを出る時だった。

通路のむこうからばたばたと誰かが走る音。それがだんだんこちらに近付いてくる。

その足音の主が部屋に飛び込んで来た。それは薄い茶髪のオールバックで金縁眼鏡、というのは過去の話だった男。現在は七三分けの四角い黒縁眼鏡、見習い看護士のフェネンだった。ぜえぜえと肩で息をし、部屋の前で仁王立ちだった。

身構えるサキ。エイダ達もざわつく。

「……さ、……さ」

「……何?」

「……サキ・ベネット!」

そういえば、こいつに名前で呼ばれたの初めてじゃなかったっけ、とサキは思った。

「お前、よくも僕に恥をかかせてくれたな。このままで済むと思ってるのか?」

「……まだ何かやろうっていうんですか?」

フェネンはびしっ、とサキを指さし

「病気になったら、必ずうちに来いよ! 完璧に手術して治してやるからな!」

と叫んだ。サキはそのセリフに一瞬ぽかんとしたが、しばらくしてクスクスと笑った。

サキの態度にフェネンがわなわなと震える。

「お前、まだ僕を馬鹿にするつもりか!」


「いえ。メスの扱いには気を付けてくださいね」


―――ナースコールは地獄への入り口―――END

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