第25話

 網の目を掻い潜るように雪花はビルの間を移動していた。周囲には辺りを巡回している召喚術師とその守護獣がいる。

 颯人の元に帰らないまま数日が経った。連日被害が増している幻獣による襲撃事件の影響か見回りの召喚術師たちも増えており、もし今うっかり見つかってしまえば、即座に拘束されてしまうだろう。それだけ事態は切迫していた。

「まずいことになってきた……」

 気配を殺しながら独りごちる。

 人間が増えたことで動きにくくなるし、見つかるリスクも高くなるので迂闊には動けない。今この状況で見つかるのは非常にまずい。こんな状況で見つかれば、嫌疑をかけられるのは間違いし、その守護獣の主も疑われてしまう。

 雪花としてはこんなところで足止めを食らっている場合ではなかった。あの日の夜に取り逃がした影。結局最後までその姿を知ることはできなかったが、気配だけはショッピングモールで感じた気配と間違いなく同種のものだった。やっと一歩前進できたのだ。こんなところで引き下がるなんてことはしたくなかった。

 できるだけ早く、しかし周囲への警戒は怠らず進んでいった。

「おい、なんだあれは」

 そんなとき、ひとりの召喚術師が叫んだ。水しぶきの音からそれに反応して仲間の召喚術師たちも動いているのが分かる。

 不思議に思った雪花もこっそり顔を出し、召喚術師が指差す方向に目を向けて様子をうかがう。

 何者かが近づいてきていた。状況が状況だけに、かつてないほど警戒している召喚術師たちは仲間の守護獣を向かわせ確認を試みる。

 その守護獣が不審人物の近くまできた次の瞬間――。

 空を切るような音がした。その直後には守護獣は静かに、しかし力なく地に横たわる。

「な、なにが……」

 一瞬の出来事に理解が追いつかない守護獣の主である召喚術師の男。しかし、その男も数秒後には地にくずおれた。

「――逃げてッ!?」

 やばい予感がした。いや、予感などという優しいものではない。確信だ。逃げなければ守護獣も含め全員が殺される確信めいたものだ。

「こちら警備隊! 正体不明の幻獣と接触。これより迎撃態勢に入る。至急応援を――」

 言葉は途切れる。転がった無線機からは応答しろと聞こえてくるも、誰も応えない。応えられない。雨音にかき消されるだけだ。

「また会ったわね」

 あの夜に遭遇したときとは違い、全く見えないというほど暗くはない。風体の確認には十分な明るさだ。だが、今度は黒コートを羽織っており、やはり顔までうかがい知ることはできなかった。

「探してたんだから」

 どこかで経験したことのある状況だった。そのときは見事に逃げられてしまった。だが今度は――。

「今度は……絶対に逃さない」

 獲物を捉えた肉食動物のように雪花の目がギラついた。獰猛な獣を思わせるその目からは、一度食らいついたらなにがあっても放さないという強い意志が垣間見える。

 黒コートは雪花の双眸に臆したのか、それても初めからそうするつもりだったのか、またも距離を取り始める。このままでは前回と同じように逃げられてしまう。

「待ちなさい!」

 ワンテンポ遅れて雪花も駆け出す。初めて会ったときには感じなかったが、黒コートの移動速度はなかなかのものだった。機動力のある雪花でさえ、気を抜けばあっという間に差をつけられてしまうことをひしひしと感じていた。

(どこに行くつもりなの……)

 必死に食らいついて追いかけるものの、違和感を覚えていた。

 ただデタラメに逃げているとするには移動ルートが単純すぎる。それにときおり、こちらを振り向くときがある。まるで雪花がちゃんと追いかけてきているのかを確かめているようにも思える。

(嵌められている……?)

 そんな考えが頭をよぎるが、今は追いかける以外に選択肢はない。仮に罠だったとしても、ここで見失ってしまえばまた振り出しに戻ってしまう。前に進むためには選択肢などを選んでいる余裕はなかった。

 黒コートが止まったのはどこかの高架橋の下だった。中央区からは少し郊外に位置しており、幾分か静かだ。建造物の下に入ったことにより、雨がしのげて視界がより鮮明になる。

「どこに行った……?」

 少し遅れて雪花が追いつく頃にそこには誰もいなかった。どこかに隠れて機をうかがっているのか。姿が見えないゆえ、よりいっそう周囲に目を光らせる。

「……お嬢ちゃん」

 そんなときふと背後から声がした。それは黒コート――ではなく、召喚術師だった。

「お嬢ちゃん、幻獣だよね。こんな辺鄙な場所でなにをしているんだい? 今はみんな先の事件で殺気立ってるから、勘違いされると危ないよ」

 柔和そうな笑みでそっと去るよう促す。この辺にいたということは黒コートを目撃している可能性があった。手っ取り早く脅して聞き出す手もあったが、ここで騒ぎを起こせばより面倒なことになる。ここはあくまで冷静に尋ねることにした。

「ひとつ聞きたいんだけど、黒コートを着た不審な奴を見なかった?」

 言葉を発した雪花に召喚術師は少し目を見張って、

「これは驚いた。君は話ができるタイプの幻獣なんだね。君の求めているのかどうかは分からないけど、黒コートならあっちに走っていったよ」

 お礼を言うと、雪花は指差してくれた方向へと駆け出す。

 その刹那――。

 カキィィイン。

 不意に感じた真上からの殺気にとっさに小太刀で対応する。弾き返し攻撃者に一矢報いるため、着地した音から位置を割り出し、振り返ると同時に逆袈裟気味に斬りつけるが、あと一歩のところで回避されてしまった。

「全盛期から劣るとはいえ、やはりさすがの反応速度だな」

 いやに間隔の大きい拍手。賞賛と思しきものだが、そこには一切の尊敬はない。

 身構えつつ振り向くと、果たしてさきほどの召喚術師と攻撃者の――黒コートがいた。相変わらず黒コートの顔はうかがえず、召喚術師のほうは厭味な笑みを浮かべている。

「久しぶりだな、小娘」

「悪いけど、アンタみたいな気色悪い笑みを浮かべる奴と知り合った覚えはないわよ」

「ひどいことを言う。お互いしのぎを削る決戦をした仲ではないか」

「決戦? さっき会ったばかりのアンタと?」

 意味不明なことを言う人間だ。

「そうか。これでも気づかないか。ふむ、ならばこの単語なら嫌でも思い出すだろう。さすがにこの名は覚えているだろう。お前にとっては親みたいなものだからな。……秋月源一郎」

 雪花の瞳孔が大きく開く。そこで雪花はふとおかしなことに気づく。

 出で立ちは普通の召喚術師となんら変わらないのだが、気配がどことなく違っていた。人間の気配は颯人やその周りの人間と接してきたから覚えている。その覚えている人間の気配とはなにかが異なる。人間は容れ物でその中に入っている存在は異種なもの。そんな気がしてならなかった。

「あの男には辛酸を嘗めさせられたよ。おかげで復活するまでにこんなにも歳月が流れてしまった」

 そう言いながら召喚術師の男は笑う。まるでもう過去の出来事と、そんなふうに言いたげである。

 全身が震えるのが分かった。手が潰れてしまいそうなくらいに拳を強く握る。

「アンタまさか……」

「やっと気づいたか、小娘。オレはあの日から今日まで、片時も貴様への憎悪を忘れたことはないぞ」

 一世紀前にあの人と死力を尽くして戦ったかつての宿敵。その存在はすでに過去のものとなっていた。あの人が命とともに施した封印は解けるはずがなく、もう二度と未来永劫相まみえることはない、ずっとそう思っていた。今日までは。

 そんな雪花を男は愉快そうに笑いながら見下ろしている。

「いったいどうやって封印を……」

 今まで信じていたものが瓦解し、手から小太刀が滑り落ちる。力ないその様子はまさに茫然自失といった状態だ。

「あの男、自分も巻き込んでオレを封印したつもりだったようだが……考えが甘かったな」

「そんなはずない!」

 声を張り上げる。

「封印は成功したはず。それはアタシのこの目が覚えてる」

「確かに封印は成功した。だが完璧じゃなかった」

「そんなわけ――」

「現にオレはここにいるぜ? それはどう説明するつもりだ?」

 嫌みたらしい笑みだ。

「そ、それは……」

 言葉に詰まり口を噤む。反論のしようがなかった。

「まあ復活したといっても、まだ依り代がないとままならない状態だがな。とはいえ、幻獣を使役できるようになるまでには回復した」

「じゃあその黒コートは……」

「オレの配下だよ。ちなみにケルベロスとマンイーターもオレが用意した配下だ。このふたつの名、覚えがあるだろう?」

 言われるまでもなかった。覚えていないはずがない。今にして思えばあのときが奴とのファーストコンタクトだったということか。

「本当はあのままお前を消すつもりだったが、なかなかどうして、お前の今の主もやるようだな。名は確か……颯人とか言ったな」

「なにが目的なの」

 主の名を出されて雪花の目つきが変わる。

「そう熱くなるなよ」

 怒る子供を宥めるように言い、男は雪花に背を向けて、

「あの男に邪魔をされてしまったからな。オレは今度こそ――幻獣たちを下等な人間どもから解放する」

「まだそんなことを」

 かつて今のように対峙したときにも同じことを言っていた。一世紀経ってもその野望は消えることはなかったのだ。その執着心こそが長い年月をかけて復活することができた一番の要因だったのかもしれない。

「幻獣は本来、人間よりも上位の存在。支配される側ではなく、する側なのだ。それなのに人間どもは浅知恵から召喚術などという小賢しい術を生み出し、あまつさえ我々を支配し始めた。オレにとっては耐えがたい屈辱だったよ」

 今まで愉悦な笑みを湛えていた男の顔は憎悪を宿したものへと変わり、その思いに比例するように男のマナはどんどん高まっていく。

「だから人間を滅ぼすというの」

「人間は狡猾な生き物だ。結局のところ、オレたち幻獣は体(てい)のいい道具でしかない。支配者の強さを証明するためのな。お前だって裏切られたんじゃないのか、あの男に」

「アイツがアタシを……?」

 雪花の目がわずかに揺れる。

「あの男は独断で封印に踏み切った。守護獣であったお前の意見を無視してだ」

「それはアイツなりに考えがあって」

「そうだとしてもだ。結果、お前はひとりになってしまった。あの男に置いていかれたんだよ、お前は」

 言っていることはでたらめに決まっている。ただの憶測でしかない。

――なのに。この絡みつくような不安感はなんなのか。身体が妙に熱を帯びる。なぜだかとても怖い。男のさきほどの言葉がまとわりついて離れない。

 そんな感情を、男の言葉を払いのけるように、

「――勝手なことをばかり言わないで!」

 雨音は激しさを増すばかりだ。

「アタシがあのとき感じたことが正しいかどうかなんて分からない。アイツの考えてたことなんて分からない。けど、ひとつだけ言えることがある」

 落としていた小太刀を拾い上げる。

「アイツはアンタを倒そうとしていた。その事実は決して変わらない。だったらアタシは――その意志を継ぐ」

 その目に揺らぎはなかった。

「見上げた忠誠心だな」

「アンタには理解不能でしょうね。人間に仕えるのも案外楽しいものよ」

「それは今の主ことか?」

「どっちもよっ!」

 地を蹴って一気に間合いを詰める。水しぶきが上がる。力強く握り締めた小太刀を以て、討つべき宿敵――シヴァの依り代とする男の身体を貫いた。

「依り代が必要ってことは今のアンタに身体を保つまでの力はない。つまり、依り代となる容れ物さえ壊すことができればアンタは消滅するしかなくなる」

 返事はない。あれだけ饒舌に話していたのが嘘のように静かだ。内心で勝利を確信する。今の一突きにありったけの力を込めたのだ。むしろやられていてくれないと困る。

「アタシの勝ち……」

「見事な早業だ。不意打ちだったら避けられなかったかもしれん」

 背後から聞こえてくる賞賛の言葉。だがその言葉に込められている感情は賞賛からはほど遠いものだ。

 雪花は声が出せなかった。勝利を確信していただけにそのショックは大きかった。

「いつのまに依り代を」

 雪花は振り向きつつ声にする。その後ろで水しぶきの音を立ててさきほどまで依り代にしていた男が倒れた。

 背後には嘲笑するような笑みを浮かべる男がいた。見た目こそ差異はあれど、まとう気配はシヴァと同じだ。

「オレがいったいいつ、ひとりしか用意していないと言ったよ? こうなることは予想できていたからな。事前に準備させてもらったよ。むしろ、こっちの思惑どおりに動いてくれて拍子抜けしたくらいだぜ」

 全身の力が抜けた気がした。全て手のひらで踊らされていた。

「全部読まれて……」

「ついでにもうひとつ種明かしをすると、その召喚術師――まだ生きてるぜ」

 反射的にさきほどまでシヴァが依り代にしていた男を見た。地面を覆う雨水に鮮血が滲んでいた。それはつまりさきほどまで生きていた証明にほかならない。

「何人もの無関係な人間を殺した幻獣なんて、野放しにはできないよなぁ」

 シヴァのわざとらしい物言いに雪花の脳裏にある言葉がよぎった。


――事の次第によっては、そのまま消滅させられることもあり得る。


「まあ精々死に物狂いで逃げるんだな。オレはまだやることがある。失礼するよ」

「ま、待て――」

「お前たちは反対から回り込め。包囲するぞ」

 シヴァの声とは違う突然の第三者の声。それがどのような人間であることは容易に予想がついた。

 おそらく騒ぎを聞きつけてやってきた召喚術師たちだろう。シヴァがいなくなってしまった今、この場にいるのは雪花だけだ。なにも知らない第三者がこの状況を見たらどう思うだろうか。それがきっとシヴァの狙いだ。自分が直接手を下すのではなく、公式の組織によって消させるために。

 ぐずぐずしていては相手の思うつぼだ。雪花は素早い動作で小太刀を拾い上げ、一気に駆け出した。案の定、召喚術師たちに見つかるが、そんなことはお構いなしだ。手遅れになる前に一刻も早くシヴァを倒さなければならない。今の雪花の頭にあるのは、ただそれだけだった。

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