エターナル・トライアングル

  1


 両足に思いっきり力を込めて腰を浮かせると、あたしはハンドルを強く握って前傾姿勢になりながら、高校の正門までまっすぐに伸びた急な坂道を一気に駆け上るための助走をつける。ペダルを漕ぐ足に合わせてリズミカルに体を左右に振りながら、坂道の真ん中辺りまで駆け上がってあともう一息ってところで、力尽きた。もう、無理。

 諦めたように大きくため息をついて残り百メートルもない坂道をハンドルを押して歩き始める。無駄に体力を使ったあたしを、夏休み中にも関わらず部活で登校してきた他の生徒たちが次々と追い越していった。

 熱気を溜め込んだ目に見えない水風船を上空から何千発もお見舞いしてくる凶暴な真夏の太陽をひと睨みして、首筋に伝った汗を左手で乱暴に拭ったところで、後ろから肩をぽんと叩かれて、びっくりしたあたしは「うひゃい」なんて奇声を発してしまった。もう、なんなのよ。うひゃいって。


「おはよー、チャコ」


 そういってあたしの腕を掴んで笑うのは同じクラスの百合香ゆりか。少し明るめに染めたゆるい縦巻きが軽やかに弾んでる。こんな髪型が似合うのは多分この学校ではユリカしかいないし、ちょっと着崩した制服の着こなしだって普通の子はやらないし、真夏の太陽の下であんな透き通るような肌を保ってるのだってユリカ以外には存在しない。つまり、ユリカは何においてもこの学校で唯一無二、絶対的カリスマ、あとなんだっけ、とにかく誰もの憧れの的っていうの。そんな感じ。

 背が高くて足も長くてスレンダーなモデル体型。おまけに、女子バスケ部のキャプテンで成績だって常に校内のベストテンに入ってるっていう才色兼備。チートってやつ? で、なぜかこの平凡すぎるあたしと仲良し。


「おはよ、ユリカ。坂道登るのに必死で気付いてなかったよ。もうホント、この坂だけはなんとかならないのかな? 毎朝自転車で漕ぐほうの身にもなれってのよ」

「ホントよね」


 ユリカは芸術家が数年かけて見つけ出したラインのような美しいアーチ形の眉毛をハの字にして笑う。けれど、ユリカの肌はまるで暑さを感じさせなくて、彼女の周りだけ完璧に空調管理が行き届いているんじゃないの? て疑いたくなるほどに透き通るような白さ。あたしはハンドルを握る日焼けした手に視線を落として気分がずんと重くなった。なんなの、この差。

 あたしとユリカが仲良くなったのは高校に入ってすぐだった。一学年にふたクラス(しかも片方は商工情報科というほとんど男子の逆ハーレム)しかないこの離島の高校に、テレビの画面から出てきたような目を見張るほどの容姿をした生徒が入学してきたときは、もうクラス中が浮足立っていたくらい。ユリカは高校になってから転入したらしく、彼女の母親はライフスタイルなんとかってよくわからない横文字の仕事で全国を飛び回ってるらしい。

 そんな存在感ありまくりのユリカの方から友達になろう、といってきたときは正直ちょっと驚いた。ただ、その理由をユリカにたずねても、彼女はいつも女優さんみたいな意味ありげな微笑みを浮かべるだけで、「なんとなく」としか教えてくれないんだけれど。


「明日から合宿かあ。勘弁してほしいな」


 あたしの左腕に絡まるユリカの腕に視線を送りながらあたしがいうと、ユリカはクスリと肩を揺らして笑い、それがあたしの左腕に伝わる。


「出発は今夜だけどね。でもじょバスもチャコたちだんバスと一緒に合宿だから、私は結構嬉しいんだけどな」


 夏の大会直前に本土の高校と合同強化合宿をして、そのまま新人戦の試合というのがバスケ部の恒例行事。ユリカが今夜からといったのは、夜出航する船で本土に渡るからで、到着は明日の早朝というなかなかのハードスケジュール。

 で、なぜあたしが「男バス」なのかというと、あたしは男子バスケットボール部のマネージャーだから。男バスも同じ大会に出場するため、全体スケジュールも合宿所も女バスと同じというわけ。


「あたしはまた、あの大量の洗濯物の山と格闘すると思うとねえ」

「男子は人数多いもんね」


 男子バスケットボール部は高校の中では野球部に次いで人数の多い部活だし、合宿ともなるとみんなのユニフォームやタオルの洗濯やら、ドリンクの用意、他にも体調を崩した部員の面倒見たりとやる事は山のようにある。アルバイトなんかよりよっぽどよく働いてるって自分でも思うけど、それだって、理由がないわけじゃなかった。

 そんな事を思いながら歩いていると、ユリカが「あっ」と短い声をあげて前方に視線をむけた。そのユリカの視線の先には周囲より頭一つぶん抜けた背の高い後ろ姿があった。


「カナタだ。ちょっとちょっかい出してくる」


 そういうと、ユリカはあたしに絡めていた腕をほどき、カバンのポケットから手鏡を取り出して自分の前髪を左斜め方向から確認すると、小走りでカナタ君の横へ並ぶ。あたしは今日もどこを切りとっても完璧すぎるよ、と嫌味の一つもいいたくなった。

 ここからだとちょっと離れていて会話の内容までは聞こえないけど、ユリカの横顔はどこか嬉しそうに見えた。一方のカナタ君はあっさりというか、愛想ないというか、いわゆる塩対応。ユリカに相槌を打っている様子もなくて、さっきまでと全く同じで、まっすぐ前をむいて学校を目指して歩いているだけ。それでも、なんだかあの二人を見ているだけであたしの心は波立ってざわついて、急に息苦しい気分になる。それはこの真夏の太陽のせいなんかじゃないってのは、あたしが一番よくわかってる。


 カナタ君は男子バスケットボール部のキャプテンで、塩顔イケメンって言葉がぴったりな切れ長の目が印象的なあたしたちの同級生。商工情報科だからクラスは違うんだけど、彼もまた目立つ存在だった。この島のDNAは「色黒」「剛毛天パ」「無駄に大きい顔のパーツ」という強烈なコンボを容赦なく与えるのに、彼に関しては、本当にこの島の出身なの、てくらいあっさり顔でおまけに色白。全体的に醸し出す雰囲気がすでにイケメンだし、身長だってあたしより30センチも高い183センチで、彼の横に並んだらあたしの目線は彼の胸あたりだ。当然女子たちからも人気があって、バスケ部の練習をのぞきに来る子がいたり、バレンタインデーに列をなして押しかけたり、彼の周りはちょっとしたお祭り騒ぎ。でも、彼は全然嬉しそうな顔をしないし、超絶無愛想で中にはそんな態度に「幻滅したー」なんていう子もいるんだけど、それでもあたしはカナタ君のそばにいたいという想いで男バスのマネージャーをやってるわけ。

 でも――

 やっぱりユリカと付き合ってるのかな。

 自分の中のもうひとりのあたしが諦観したようなセリフをぽろっと吐き出す。あたしの心が次第にざわざわと大きく波立っていく。だってユリカがいったんだもん。「だんバスと一緒で嬉しい」って。

 あたしは無意識に歩くペースを遅くして二人との距離をあけていた。急がなくても部活の時間には十分間に合うんだから。そう独り言ちながら駐輪場まで自転車を押したまま歩いてむかった。



  2


 午前中の練習を終えると、早々に練習を切り上げ、キャプテンのカナタ君の招集で全員が輪になって集まる。蒸し風呂のような体育館での練習に、全員ぐっしょりとTシャツを濡らしていた。


「じゃあ、今夜二十時に新港のフェリーターミナルへ集合するように」


 カナタ君の声に全員が「うっす」と野太い返事をすると、続けて「お疲れ様っしたぁ」と今日いち元気な挨拶をしてこの日の練習が終わった。もっとも、また今夜から合宿に行くわけだけど。

 体育館を後にしようとしたところで、後ろから「チャーコ」という華やかな声とともに、あたしの両肩が掴まれた。


「ユリカ、お疲れ。今終わり?」

「うん一応。ところでチャコ、前に行きたいっていってたユニバの事だけど、合宿終わった次の週末に一緒に行かない?」

「って事は、八月最初の週末?」

「うん、お母さんが仕事で大阪に行くから、友達も一緒に来ていいって」


 ほんとに!? ってあたしがユリカに振りむくと、ユリカは満面の笑みを湛えていた。ちょっと予定みてみる、と鞄から手帳を取り出し来週末の予定を確認しようとして、その手をはたととめた。その微妙な間にユリカの表情が曇った。


「何か予定あった?」

「え? ううん。予定は、まだ何も」


 たしかに、予定はなかったけれど、あたしが目に留めたのは土曜日の枠の右隅に何のコメントも書かないで貼ってある、小さな青いハートのシール。それは、あたしにとってちょっとした気持ちの表れというか、決意というか。まあ、決意なんていっても、前のページをめくれば何箇所もその青いハートが飛んでるんだけど、要するにこれはあたしがカナタ君を誘おうと思っているイベントがあるってしるし。はっきり結論からいえば、今のところ連戦連敗。これまで一度だってカナタ君を誘う事なんてできなくて、結局次のイベントのところに青いハートのシールを貼るっていう作業が繰り返されるだけなんだけど、でも……


「お祭りの花火の日だなって……」


 歯切れの悪いあたしの声にユリカは一瞬目を丸くして驚いたようだったけれど、すぐに、あはっ、と溜まった空気の塊を吐き出すような短い笑い声をあげた。


「ユニバのナイトショーでも花火やるし、マッピングもあってすごい豪華だから、この島の花火大会よりも絶対楽しいと思うよ」

「うん……」


 そうじゃないの、とはいえなかった。別に花火が見たいんじゃなくて、カナタ君を誘う口実が花火大会なの。そのためには、ユリカの誘いを断ることともうひとつ、ユリカとカナタ君とが付き合ってるのか確認するという難題が横たわった。

 あたしは気持ちを落ち着かせようと大きく息を吸う。これはあたしの一方的な思い込みなのかもしれないじゃない?

 そして意を決する。


「ねえ。ユリカって、もしかしてだけど付き合っている彼氏っている?」

「え? いないけど、なんで?」


 不思議そうに小首をかしげるユリカを見て、あたしは彼女以上にびっくりした顔をしてたんだと思う。ユリカはかすかに眉尻をさげて呆れて笑うようにいう。


「どうしたの急にそんな事」

「ううん、なんとなく……ほら、彼氏いたら悪いでしょ?」


 ちょっと歯切れの悪いあたしのいい方にユリカはまたも「どうしたのよ?」とあっけらかんとして笑う。それじゃあユリカとカナタ君ってどんな関係なの? あたしの心はまだ平穏にはならず、あたしが「ユリカってさ、カナ……」っていったところで体育館の中から「ユリカー!」と彼女を大声で呼ぶ声が響いた。


「あ、ごめん。実はまだ準備が少し残ってるの。詳しい事はまた後でね」


 そういうとユリカは左手をしなやかに動かしてほんの一瞬あたしのゆるいウエーブがかった髪を撫で上げる。落ちた髪が頬をくすぐるのと同時くらいに、ため息が出るほどの可愛いウィンクをして、軽やかにターンをして駆けていった。結局、あたしの口をついた半端な言葉のカケラはグラウンドから響く金属バットの打球音とともに磨き抜かれた青空に打ち上げられて戻ってくる事はなく、そのかわりにもうひとつの別の不安が、真夏の空に浮かぶ入道雲のようにむくむくと大きくなった。それは、もう引退した三年生の先輩マネージャーが去年の合宿が終わっあとにあたしにいったジンクスめいた言葉で、今になってその言葉がずしんとあたしの心の上にのしかかってくる。


ね、合宿の後でキャプテン同士がくっついちゃったのよ』


  3


 夜、フェリーターミナルに集合したバスケットボール部員は待合室の一角で出発の時間まで思いおもいに過ごしていた。学校行事で本土に移動するときは夜出航して翌朝に到着する便を使うのが通例だった。

 窓の外の真っ暗な海面に港のオレンジ色の明かりが映りこんで輝いてる様子をぼんやりと眺めていると、待合室に乗船開始を告げるアナウンスが流れてにわかに周囲が賑やかになった。

 ふと背中に重さを感じて振り返るとユリカがあたしを後ろから抱きしめるようにして立っていた。


「もう乗船だよ。行こう、チャコ!」


 ユリカは柔らかに目を細めてあたしの手首を掴んで駆け出す。ユリカのゆるい縦巻きの髪が揺れる後ろ姿を見つめるあたしの心の中では、幾重にも絡まる複雑な感情が、蛇のようにとぐろを巻いて居座っていた。

 あたしはユリカの事が好き。でも、もしユリカもカナタ君の事を好きだとするなら、あたしはたとえ相手がユリカであっても負けたくない。ジンクスだってはねのけてしまいたい。なら、あたしは多少ずるくたって一歩でも先を行かなきゃいけない。フェアじゃない事はわかってる。けど、あたしがあのユリカと真っ向勝負して勝てるはずないじゃない。

 あたしはとっさにユリカが握っていた手を振りほどいてその場に立ち止まった。


「あの、あたし。荷物置きっぱなしだから……」


 違う、そんな事をいいたいんじゃない。でも、ユリカにあたしの本当の今の気持ちを打ち明けるほどの勇気は湧き上がっては来なかった。


「そっか、ゴメン。それじゃあ私、先行ってるね」

「うん」


 あたしは小さくうなずいて、バスケ部の名前が入ったエナメルバッグを拾い上げた。なんだか急に重たくなった気がして、きっと自分の陰鬱な瘴気が溜まったせいなんだと思いながら、乗船する人の流れに乗って巨大な客船へと続く階段を登っていった。

 女子バスケ部の七名にあたしを加えた八名が通路を挟んで二段ベッドが四台むかい合った二等客室に入る事になった。

 部員達はきゃあきゃあと騒ぎながら真剣に場所を取り合っていたけど、さすがにあたしはその輪の中に加わる気分じゃなくて、一番人気のなさそうな入り口側のベッドの下側に妙に重くなった気のする鞄を放り込んだ。

 すると、ほとんど間を空けずにあたしのむかいで荷物が置かれる重い音がして、顔を上げるとそこに無垢なユリカの笑顔があった。


「キャプテンって何かにつけて呼ばれるから、入り口側のほうが都合いいかなって」


 そういってユリカはベッドのへりに上品に座った。きっと入り口側のほうが都合がいいなんていうのはただの口実で、ユリカは一人だけでいたあたしに気遣ったんだと思う。ただ、いつもなら嬉しいはずのユリカのその気遣いも、今はあたしとユリカの力の差を見せつけられているみたいで、あたしの心の中はコンクリートブロックを抱いたように重くなる。ユリカはいつもと何も変わらずにこうしてそばにいてくれるのに、そんな彼女がなんだかいとわしく思えてくる。

 ユリカとの距離を測りかねていると、先生がユリカに貴重品を預けるようにと指示をする。ユリカは部員たちの貴重品を回収するとそれを貴重品ボックスに預けるために部屋を出ていった。ユリカのいなくなった大部屋の片隅であたしは一人、頭から毛布を被って横になり体を丸めた。何してるんだろ……そんな気持ちに潰されそうになりながら。


 4


 物音に身体が反応して目を覚ました。重たいまぶたをこすりながら目線だけを動かすと、部屋の電気は暗くなっていて消灯時間を過ぎているんだとすぐに理解したけれど、物音の正体が気になって首をもたげると、ユリカがさっきみたいにベッドの端に腰を掛けてスニーカーの靴ひもを結んでいるところだった。


「ユリカ……?」


 あたしが声をあげると、ユリカは顔をあげて「ごめん、起こしちゃった?」と内緒話みたいに小さな声でいって、そのままあたしに近寄ってきて枕元に肘をついた。ほのかなソープの香りがあたしの鼻孔をつく。


「ちょっと外出てみない?」

「外? デッキって事?」

「うん」


 寝ている部員たちを起こさないように、内緒話の声のままユリカは笑う。あたしもトイレに行きたかったから、そのついでにと思い「いいよ」といって、もぞもぞと毛布から抜け出すと靴を履きユリカの後について遊歩甲板へとむかった。

 甲板の階段をのぼった先のオープンデッキには照明が煌々と灯り、思っていたよりも明るかった。その中央に嫌というほどの存在感をはなっている煙突から薄く吐き出された煙が船の後方へと流れていく。この船を取り囲んでいる空間のほんの少し外には、境界線のない真っ黒な世界が広がっていて、吹きつける潮風の音と、船が切り裂いていく轟々とした波の音が闇の中に生まれては溶けていった。


「何も見えないね」

「まあ、海の上だもんね」


 あたしがそういうと、ユリカはデッキの柵にもたれるようにして立ち、この暗い中でもはっきりとわかる白い歯を口元にこぼしてはにかんだ。「ねえ」という声が夜風に乗って耳に届いた。


「なに?」

「チャコの声、風の音で聞こえにくいの。こっちおいでよ」


 あたしはふらふらとユリカの元に歩み寄り、ユリカと肩がふれあうほどの距離に並んだ。あたしの左手の指先にユリカの夜風にさらされて、温もりを奪われた彫刻のような指がふれ、その氷のような冷たさと滑らかさにはっとした次の瞬間、ユリカの指があたしの指の間を割って滑り込んできて、きゅっと手を握った。

 突然の事にあたしが驚いてユリカの顔を見上げると、まるでいたずらがばれてしまった子供みたいに気まずそうに、けどれどこか満足げな笑みをした口元が静かに動いた。


 ――。

 

 ユリカの口から発せられた言葉は煙突から吐き出される薄い船の煙とともに夜の闇の境界線のむこうに流れて、あっという間に色のない世界の中に消えていった。それなのにあたしの耳の中にはユリカの声が消えずに残っていて、あたしの鼓動がドクンと一度、強く脈打った。

 呆然としていたあたしの右腕に、半身分の距離を詰めるように左足に体重を預けながらユリカが身体を寄せる。作り物みたいに滑らかなユリカの胸の感触が突然吹いた夜風みたいに右腕を伝って背筋にぞくりとした感覚を植え付けた。

 唇がくっつきそうな距離でユリカが囁いた呪文のような言葉は、今度こそ闇に溶ける事なくあたしの耳から入り込んで全身を稲妻のように通り抜けた。


「私、チャコの事が好き」


 ユリカの吐息の温度を耳に感じながら、それ以上にあたしの耳が熱くなっていく。ユリカはさらにもう一つ言葉を継いだ。


「大好きなの」


 あたしの視界いっぱいにユリカの美しい顔があった。芸術的なアーチの眉が柔らかな曲線を描き、とろけそうな視線をあたしにむける。あたしの指先に絡まる指に力がこもった。

 ユリカの声は頭の中を真っ白に染める魔法だった。心の中では違うってわかってるのに、指令する事をやめた脳のせいで身体はぴくりとも動かず、むしろ彼女に魅入ってしまったように夜風になびく髪のむこうに見え隠れするその笑顔を見つめたまま、気づいた時にはあたしはユリカのキスを受け入れていた。


  6


「おい、はやし。きいてるか?」


 よく通る深みのある声にはっとして顔をあげると、険しい表情で腕組みをしているカナタ君がいた。


「ごめん。きいてなかった……」


 体育館にくすくすと小さな笑い声があがるのを、あたしは肩をすぼめてやり過ごした。恥ずかしいというよりも、カナタ君に頼りないと思われたんじゃないかと情けない気持ちで胸が詰まりそうになる。

 昨日からあたしはずっとこんな感じだ。何をするにも気持ちが入らなないし集中できてない。それもこれも、ユリカのせいだ。あたしはそっと自分の唇を人差し指でなでてみる。柔らかな指先も唇にふれると途端に硬いもののように思える。それほどまでに、ユリカの唇はみずみずしくて、薄い被膜につつまれたゼリーのような柔らかさで、その感触がいつまでも消えずにまとわりついている。練習が始まってからも、心がふわふわとしてまだ船の上いるみたいに不安定なままだった。


「林」


 あたしの苗字を呼ばれて顔をあげると、そこにはタオルで顔を拭きながら近づいてくるカナタ君がいた。午前中の練習を終えて他の部員達はみな食堂にむかうところだった。カナタ君に呼ばれて内心では少しドキドキしながらも、平静を装ったふうに返事をした。


「どうしたの?」

「ちょっとついて来い」


 強めの命令口調でそういって、カナタ君はあたしの横を通り過ぎてそのまま歩き去っていく。あたしが、きょとんとしてその後ろ姿を見つめていると、足を止めて振り返り「早く来い」と、ぶっきらぼうにいい放って体育館を出る。あたしは慌てて靴を鳴らしてカナタ君を追いかけた。


「どこにいくの?」

「ついてくればわかる」


 カナタ君は渡り廊下を抜けてその先の校舎内にはいると、並んだドアのひとつの前で立ち止まってノックをする。


「失礼します」


 そういって入った扉の上にかかったプレートに目をやると、そこには『保健室』と書いてある。中では白衣を羽織った女性の養護教諭がデスクにむかって事務仕事をしていた。


「先生。彼女、少し熱っぽいんでみてもらえませんか?」


 カナタ君がそういうと、先生は「じゃあ、こっちにきて座りなさい」といって、机から体温計を取り出して差し出す。


「林、お前少し休め」

「え、でも」


 戸惑うあたしに、カナタ君は強引に肩を押して椅子に座らせる。体温計を脇に挟んで数秒すると、ピピッと電子音が鳴り、取り出してみるとそこには37.1と表示されていた。


「あら、ちょっと熱があるわね。彼のいう通り休んだほうがいいわ」そういうと先生はカーテンのむこうのベッドを整えに行った。


「昨日からずっと調子悪そうにしてるだろ。いつものお前らしくない」

「え?」


 座っているせいでいつもよりも高いカナタ君の顔を見上げる。真顔で口を一文字に結んでいる。


「試合に出るからには絶対に勝ちたい。そのためにはみんなの力を合わせないとダメだ。部の誰一人欠けちゃダメなんだ」

「でも、あたしは試合に出るわけじゃ……」


 カナタ君は眉間に力を込めるように険しい顔を作って、いつもの愛想のない声でいう。


「部員が誰一人欠けてもダメだっていったろ? みんなお前の事頼りにしてるのに、試合当日ダウンされたら困るんだよ。わかったか」


 勢いに負けこくりとうなずいた次の瞬間、あたしは自分の目を疑った。あの超絶無愛想で有名なカナタ君の目元がふっと緩んでかすかに笑っていた。


「体調が良くなったら戻ってこい。それまではしっかりと休め。これは部長命令だ、いいな」


 カナタ君はあたしの肩をぽんと叩く。ユリカと違って大きくてごつごつとしたその手の温かな感触がTシャツの上から伝わる。

 カナタ君が部屋を出るのを確認してから、のろのろとベッドに横になり窓の外を流れる雲をぼんやりと追いかけていた。


 あたしはあの後、ユリカから逃げるようにしてベッドに一目散に駆け戻り、朝まで毛布をかぶって、どうしてユリカはあたしに告白して、キスまでしたんだろうとそんな事を延々と考えていた。

 でも、今はなんとなくわかる。あたしがユリカに対して焦っていたように、ユリカも何かに焦っていたんだ。

 でも、今は余計な事を考えていちゃだめだ。カナタ君に心配かけてる場合じゃない。もう大丈夫。気持ちを落ち着けて、少し休んだら戻ろう……

 ――そう思っていたはずだった。


  7


 ふと目覚めて窓の外に目をむける。まだ明るいけれど、どことなく空の青が淡く滲んでいる。何時だろうと思って時計を見たあたしは、布団を蹴り飛ばしながら跳ね起きるようにしてベッドの上に座り込んだ。

 時計は午後五時三十分を指していて、練習の終了時刻を三十分も過ぎていた。なんで誰も呼びに来なかったの? と寝過ごした自分を棚に上げて勝手な事を口にしながらカーテンを引き開け、とりあえずは体育館に戻らなきゃと渡り廊下を体育館を目指して走り抜けた。

 そっと忍び込むように扉を開けると、中では一人で黙々とシュート練習をしている背の高い後ろ姿があった。顔を見なくてもカナタ君だとわかった。


「ごめん。すっかり寝入っちゃったみたいで、練習に全然参加できなかった」


 カナタ君は無言のまま、カゴのなかからボールをひとつ取り出して、その場で二度ボールをつくと、しなやかにジャンプして長く伸びた右手からシュートを放つ。美しい放物線を描きながら飛んでいったボールはガンと重い音とともにゴールリングにはじかれて、バックボードで一度弾んだ後、体育館の床にバウンドしてコートの隅へと転がっていった。


「スリーポイントの練習? 手伝うよ」と、ボールカゴの中からボールを取り出して渡す。カナタ君はゴールリングを見据えながら、顔の真正面にボールを構えた。

 なぜ彼がスリーポイントシュートの特訓しているのか不思議だった。彼のポジションはスモールフォワード、どちらかといえばゴール下からのシュートの方が必須スキルだった。スリーポイントが得意なシューティングガードは良一君という後輩で、彼は次の試合でもスタメンだったはず。

 ふたたびカナタ君が放ったシュートは今度はリングの右側で大きくバウンドして体育館の端へはじき飛んだ。あたしは心底惜しいといわんばかりに、ああ、とため息をついた。


「さっきのは距離はバッチリだったけど、ちょっとずれたね」

「腕の力に頼るとどうもブレる。けど、力を抜くと微妙に距離が足りない」

「ねえ、どうしてスリーの練習なの? もしかしてリョウ君ケガでもした?」


 カナタ君は「いや」と一言だけ呟き、その後も黙々とシュートを打ち続けたけど、決まるのは五本に一本くらい。それも、リングにバウンドしたのが、偶然リングに落ちたようなラッキーゴールだった。


「くそ、あと15センチ身長が高かったらなあ」


 口惜しそうに呟きカナタ君はコートに散らばったボールを集めにいく。あと15センチって、いくらなんでも高すぎ。ほとんど2メートルだしと心の中でツッコミを入れながら、反対側のボールを集めにコートの左端まで来てふと足を止めた。


「どうした、林。そんなところでボーっとして。まだ、体調悪いか?」

「ううん、そうじゃなくて」


 そういいながらあたしは自分の頭上よりもはるか上のゴールリングを見上げ、再び足元のラインに視線を戻した。


  8


 体育館の中に靴底がキュッと鳴る音やボールをドリブルする重量感のある音、ベンチや客席からの応援。様々の音が入り混じって飛び交っている。あたしの座るベンチの頭上から「カナタぁ! 頑張れぇ!」とひときわ大きな声援が飛んだ。顔をあげるまでもなく、それがユリカの声だとあたしの思考が瞬時に判断する。

 県立体育館で午前中に行われたユリカたち女子バスケットボール部の試合の結果は、48対52で惜敗。それでも、ユリカは試合が終わった後、悲しみに沈む部員たちを激して、男バスの試合会場まで駆けつけてくれた。

 一番悔しいのはユリカ自身だろうに、そんなそぶりは一切見せないで、必死に大声を張り上げている。たった七人、女子の応援が増えたところで他校の二軍の数にも足りないけれど、それでもユリカたちが必死に応援してくれているのは心強かったし、その甲斐もあってなんとか相手チームに引き離されずに食らいついていた。

 第四ピリオド、残り一分。点数は61対63であたしたちのチームは二点を追いかける展開。もうコートにたつ全員が肩で大きく息をしていて体力も限界にきていた。

 監督がタイムアウトを告げると、ちょうどボールがサイドラインを割って、タイムアウトを知らせるブザーが鳴り、選手がベンチに戻ってくるのをあたしはタオルを差し出して迎える。


「残り一分。点差は二点。勝つためには二点とるんじゃだめだ。良一」


 そういって監督はシューティングガードのリョウ君を呼ぶ。


「なるべく良一にボールを集めて、外からスリーポイントを狙え。周りは良一がシュートを打ちやすいようにスペースを作れ。いいな」


 監督の指示に、重く荒い返事が響く。スポーツドリンクで少し喉を潤したら、タイムアウトも残り十秒を切った。何かをいわなきゃと思って、カナタ君たちメンバーに近づいたところで、カナタ君があたしの肩に腕を回した。えっ、と思ったときには、あたしも選手のみんなの円陣の輪に加わっていた。


「ぜってえ勝つぞぉっ!」


 カナタ君の雄たけびに似た声とともに、タイムアウト終了を告げるブザーが鳴り響いた。

 あたしは背中に残る熱を感じながらコートにむかう五人の後ろ姿に祈るように両手を組んでいた。

 この想いは届くかな。

 「勝って」というこの想いは――


 チャンスはすぐに巡ってきた。リョウ君がフリーでパスを受け、すぐさま美しい軌道ループを描くスリーポイントシュートを放つ。まるで吸い込まれるようにゴールリングを通過したボールに、ベンチも観客席のユリカ達もわっと湧いた。

 けれど、そんな歓喜も次の瞬間にかき消された。相手チームのカウンターはそのほんの一瞬の油断のスキをついてディフェンスの間をかいくぐり、同じように芸術的なスリーポイントシュートを放ち、当然のようにゴールリングのネットを揺らした。残り15秒。点差は再び2点に開いた。

 さっきのスリーポイントでリョウ君のマークも厳しくなってシュートが打てずにいたところに、「良一、こっちだ!」とカナタ君が大きく手を挙げた。

 相手のディフェンスの脇の下をバウンドさせたパスがカナタ君に通る。ゴールの正面、スリーポイントラインの外。残り10秒。


「いけぇ! カナタぁ!」


 ユリカの声が体育館に響く。カナタくんが顔の真正面にボールを構えると、すぐさま相手の選手がそれに反応してシュートコースを塞ぐようにジャンプした。

 次の瞬間、カナタ君はシュートのモーションをフェイントにして、ドリブルで相手のすぐ左を風のようにすり抜けていた。


「打たせるな! ゴール下だ!」


 相手ベンチから監督の怒号が飛び、ゴール下のポジションがディフェンスに守られる。残り5秒。

 しかしカナタ君は、ゴール下を固めていたディフェンスには目もくれず、コートの左隅へドリブルで走り抜けると、左足を軸にしてくるりと振り向いた。そこはゴールリングから丁度9時の方向のスリーポイントラインの外。

 流れるように美しいモーションでジャンプをしたカナタ君のすらりと伸びた右腕からボールが離れた瞬間、目の覚めるようなブザーが体育館に鳴り響いた。


 10


 まだ明るい夕空に煙突から吐き出された煙が薄く伸びていく。あたしとカナタ君は船のデッキから遠ざかる港を眺めていた。


「最後、惜しかったね」


 あたしの言葉に「ああ」と不愛想な返事をするカナタ君。でもその声には悔しさは滲んでいなかった。

 残り0秒のシュートは虹のように美しい放物線を描いた後、ゴールリングでダンスを踊るようにくるくるとターンしてから体育館の床にダンダンと大きな音を立ててバウンドをした。それはリングの外に落ちていて、ブザービーターとはならず、結局チームは64対66で負けた。


「おれがスリーポイントにこだわらなければ、延長になっていたかもしれないのにな」


 ちょっと自虐的な言葉だったけれど、口元は少しだけ笑っていた。

 合宿の居残り練習のとき、あたしはゴールの真横のスリーポイントラインを見て、カナタ君に「ここだけ線がまっすぐなの?」とたずねると、カナタ君は「サイドラインからは90センチが必要だから、この場所だけスリーポイントラインは15センチ短い6.6メートルだ」と教えてくれた。あたしが冗談交じりに「試合までに身長を15センチ伸ばすのは無理だけど、15センチ短い場所からなら打てるじゃん」というと、カナタ君はリングを見上げて一瞬考えてから「林、まだ時間あるか?」といって、今度はコートの左隅からのスリーポイントシュートの特訓を始めた。

 真横からのシュートはバックボードがないため、狙いにくく難しいシュートなんだとカナタ君はいっていたけれど、そのときの成功率は50%。カナタ君はあの時、勝利の確率が最も高くなるその一本に賭けたんだ。


「まあ、試合は負けたけど、林のおかげで俺にも武器ができた」

「そっか。それじゃあ、あの特訓も無駄じゃなかったね」


 ああ、とうなずくカナタ君の目線がすっと前をむく。その視線の先にはデッキへの階段を登ってくるユリカの姿があった。この場所がユリカから告白を受けてキスまでされた場所だった事を思い出し、急に気恥ずかしくなって「じゃ、またね」とこの場を立ち去ろうとすると、カナタ君が「ちょっと待て」と引き留めた。そうしている間にもユリカはあたしたちに近づいてきて、身体二つ分離れた場所に立った彼女にカナタ君がいった。


「ユリカ。お前、行きの船で林に何かいっただろ?」

「うん。好きって告った」


 あけすけにユリカがそういうと、カナタ君がため息をつく。なんなの、この状況。


「で、返事はもらったのか?」

「ううん。それをもらおうと思って来たんだけど」


 あたしが口をはさむ余地なんてないくらい、二人で勝手に会話が進行していく。まるで置いてけぼりを食らったような顔をしてると、ユリカがあたしに唐突にいった。


「チャコ。この前もいった通り、私はチャコの事が好き」

「……でも、あたし女だよ?」

「それでもチャコが好きなの。初めて会った時から」


 ユリカは表情を引き締め、真剣な眼差しをむけて見つめてくるから、あたしはその視線から逃げ出したくなった。

 ユリカは好き。ユリカとはずっと一緒にいたい。でも女の子同士で付き合いたいって思うのとはちょっと違う。それに、もしユリカと付き合ったりしたらきっとあたしは自分の事を嫌いになってしまいそうだ。自分にもユリカにも嘘をついたりしたくない。あたしは決意を込めてユリカの宝石のように美しい瞳をまっすぐ見つめた。


「ユリカ。あたしがもし、いつか結婚して、子供ができたとしても、ユリカとはいつまでも仲良しで一緒におばあちゃんになれるような、そんな関係でいたい。でもね……」


 あたしはユリカから隣のカナタ君に視線をむけた。30センチも背が高いとやっぱり見上げる格好になる。


「あたしはカナタ君の事が好き」


 ほんの数秒の船体が切り裂く波の音だけがこの甲板の上に響いた。やがてユリカがふっと頬の緊張を解いたように「あーあ」とため息のような声をあげた。


「まったくジンクスの通りかあ。嫌になっちゃう」

「ジンクス?」


 あたしが首を捻ると、ユリカは苦笑いを浮かべた。


「男バスのキャプテンとマネージャーが卒業するまでに必ず付き合うっていうやつ。知らない?」

「え、あたしが聞いたのは、男バスと女バスのキャプテンが付き合うって……」


 ああ、と意を得たようにユリカはぽんと手を打つと「それ、続きがあるの」と笑った。


「続き?」

「そう、合宿で付き合ったカップルは花火大会に行くと別れるんだって」

「ええッ!?」


 思わず大声が出た。ユリカは可笑しそうにケラケラと笑っている。


「だから、チャコ。花火大会はパスして、あたしとユニバ行こうか? なんならカナタも一緒でいいよ」

「え、いや。でも……」


 あたしが言葉を探していると、カナタ君がいつも通りの声でいった。


「エリカおばさんが旅費の面倒見てくれるなら」

「え? おばさん?」


 あたしはユリカとカナタ君の間で何度も視線を往復させる。ユリカは「あれ、知らなかった?」といって言葉を継いだ。


「私とカナタ、従姉弟いとこ同士なんだよ」


 あたしは驚愕で目を白黒させながら、もう一度ユリカとカナタ君を交互に見た。真っ白な肌、すらっと背が高くて長い手足、くっきりと整った美しい顔立ち。これって……同じDNAだ!

 あたしのそばに来たユリカは、ぽんとあたしの肩を叩いていつかみたいにウィンクをしてから耳元で囁いた。


「チャコと私。おばあちゃんになるまでずっと一緒にいられるかもね」


 くるりと背をむけてデッキをもと来た階段のほうへ歩き去っていくユリカの後ろ姿を見送って、あたしとカナタ君は目を見合わせた。なんだかちょっとだけ気恥ずかしくて、カナタ君もあたしの方を見ながらほんの少し顔を赤くした。夕日の時間にはまだちょっと早いよ。


「俺もさ。ち、チャコの事……好きだから……」


 照れながらいうカナタ君の腕につかまって、あたしは目一杯の背伸びをしてみた。それでも30センチの身長差があるカナタ君とあたしの唇はまだ15センチほど離れていた。いつかこの15センチも縮まるかな。

 あたしはまたもや雲の上で踊るようなふわふわとした足どりでデッキから降りる階段へむかい、そこで振りむいた。あたしの口から飛び出した声は、波と風の音にかき消されて彼の耳には届いてないと思う。でも今はそれでもいい。幸せの距離は少しずつ近づけていけばいいんだから。

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