第36話 序章6の3 潮薫 "Scent of tides"

 桜雨さくらあめ十蔵じゅうぞう

 それが僕の祖父のかつての名だった。

 遠い異国の地よりアメリカへ渡った折に、アメリカらしい名前を名乗るようになった。

 そして往年は、半ば隠居じみた生活を送るようになっていた。


 そうして自室にこもりがちな祖父であったが、それでも何故か、彼には友人と呼べる者が数人いた。

 特にもその中で、度々祖父の元を訪ねて来る者が一人いた。


 彼は隣町の大学で、その大学で主に文学や哲学と言った分野で教鞭を振るう教授だった。

 彼は祖父と年齢が近かった為か。

 或いは彼らが研究する分野が似通っていた為か、互いに気が合い、まるで長年来の親友であったかのように接していた。

  教授は、祖父が渡米の折りに、様々な書物や遺物をアメリカに持ち込んだ珍しい文書や遺物に多大な興味を持ち、同じく祖父もまた、教授が所有する様々な古書へ興味を寄せていた。


 時には祖父の書斎で。

 時には大学の図書館で、二人は共に研究に勤しんだ。

 ボクはそんな二人に付き添い、手伝うことに楽しさを感じていた。

 そして教授も、そんな僕のことを随分と可愛がってくれた。


    ※


「ですが、ただ一つ・・・、気に喰わないモノがありました。」


 そこでアマネの言葉が沈んだ。光の中に一塊の影が覆ったような感覚だった。


「気に喰わないモノ・・・?」


 鈴木は、ソレを探るべく問いを投げたが、直ぐには答えが来なかった。

 アマネは深く思案する。


「”気に喰わない”・・・、と言うのは、少し違うのかもしれません。

 何と言うべきか・・・、気に懸かる、とでも言うのでしょうか。

 とにかく曖昧で、得体の知れないものが、じわじわと心の中に忍び寄ってくるような感じです。」


 自信も何と言い表せばよいか、つかみかねていた。


「そんな形の無い不安を僕は、あの町に感じていました。

 僕は今でこそ、ロサンゼルスにいますが、出身はここでは無くマサチューセッツです。」


「マサチューセッツ!?」


 鈴木と佐藤は驚愕の表情を浮かべた。

 それもそのはずで、ここロサンゼルスとマサチューセッツは、それぞれ西海岸と東海岸に位置する。

 この二つの地は広大なアメリカ大陸の対極に位置していており、その距離もおよそ2600マイルと、気の遠くなるような距離だった。


    ※


 ボストンより北東に進んだ先にある港町セイラム。

 そこが僕の生まれた町だった。

 海風に運ばれた潮の薫り。

 それが己の最も古い記憶。


 そこは静かで穏やかな小都市だった。

 近郊の大都市ボストンが、アメリカ産業革命の先駆者としてアメリカ大陸の生産のかなめを担っていた。都市の街並みも工業の効率化に伴い、古いものから新しいものへと急速に目まぐるしく変化していった。

 その一方で、旧英領ニューイングランドの保守的な土地柄を受けてセイラムには、古めかしくも歴史の味を感じさせる建物や街並みがいまだ数多く残されていた。


 そしてセイラムの隣町もまた古風な街並みが多く残る港町であり、特にも創立からおよそ120年を迎え、国内でも屈指の難易度と伝統を誇る大学が、町のシンボルだった。

 その歴史ある名門校を目当てに、多数の学生が合衆国の各地から集うその町は、大学を町の経済の中心に据えた学園都市としての一面も持っていた。

 積み重ねられた歴史の香りの漂う穏やかで静かな港町。

 だがその一方で、町の日常の影に潜む闇もまた、深く、深く、歴史の裏側で幾重にも積み重ねられていた。


「日の当たる所だけを歩け。日の当たらぬ闇へは近付くな。」


 それが僕が祖父に連れ添って大学の図書館へ行く時や、町中を歩く時には、常に言われ続けた忠告だった。


 路地の影から表の通りを覗くモノ。

 カーテンの掛かった窓の僅かの隙間から見え隠れする、妖しく光る目。

 朽ちた古民家の屋根裏から見下ろす不気味な視線。

 決して気のせいなどでは無かったはずだ。

 僕と同様に、祖父もこの町から何かを感じ取っていたのだろう。

 そしてソレが良いモノでないことも。


    ※


「町に満ちているこの得体の知れないモノを感じるようになったのは、一体いつ頃からなのだろうか?」


 ある日、僕らが教授の私室に招かれたときに、祖父は彼に尋ねた。

 そこは大学図書館の一室だった。

 彼は大学の教授であると同時に、その大学図書館の館長でもあった。


 普段彼は、大学図書館の私室にいることが多く、それ故彼を知る者達は、もっぱら彼のことを館長と呼んでいた。

 その問いに館長の顔色が、目に見えて変わるのが分かった。

 やはり彼も知っているようだった。

 その後しばらく館長は考え込んだ。いや、あれは悩んでいたのかもしれない。


「私もアレの存在には前々から気付いておった。

 だがどれぐらい前からアレが在るのかについては、正直私にも判り兼ねる。

 独立戦争時とも、かの魔女裁判の時とも、或いは先住民族との紛争の時とも色々と説はあるが、どれも根拠は無い。」


 そして、館長は少し躊躇ためらった後に言った。


「なあジュウゾウ・・・。

 悪いことは言わん、これに手を出すのは止めておけ。おぬしの古巣に”知らぬが仏”、という言葉があるそうだが、正にその通りだ。

 深淵なんぞ好き好んで覗き見るものではない。魅入られたが最後、己が存在の全てを取り込まれ、二度と戻って来れなくなるぞ。」


 その言葉の端々には僅かの恐れが含まれていた。


「何故ソレが深淵の悪魔だと思うのだ?」


 その真意を探るべく祖父は館長に猶も食い下がった。


「それはだ・・・、ジュウゾウ。

 おぬしの他にも、この得体の知れないモノの気配に気付き、その正体を探ろうとした者が何人もいたからだ。そして、その者達はどうなったと思う?」


 祖父は押し黙った。

 館長のこの言葉の意味を僕も、そして祖父も吟味していたのだろう。


「まあ、想像した通りだ。まともな精神状態で戻って来た者は居なかったよ。只の一人もだ。

 それでもまだマシな方ではある。ある者は、町の水路に見るも無残な姿で浮いていた。またある者は、その姿すらも見つからないまま何年も、何十年も経ってしまった。」


 すると館長はスッと立ち上がると、


「着いて来たまえ。」


 と言って僕と祖父を促して、私室から出た。

 そして促されるがままに館長の自動車に僕らは乗って図書館を後にした。


    ※


 道中、教授は哀れな末路を辿たどった者達の話をした。

 その者達は、かつての館長の友人だった。

 ある日、彼らは僕らと同じように、この町に潜むモノの気配を感じ取った。


 囚われたが最後、ソレは何人の心も捕らえて逃さない。

 ある者は、ソレに怯え、部屋の片隅にうずくった。

 ある者は、ソレから目を逸らし、気付かぬ振りをして、これまでと変わらぬ日常を送ろうと努めた。

 そしてある者は、ソレに立ち向かい、本当の平和を取り戻すべく闘った。


「彼らは孤独な闘いを強いられていたのだろう。」


 館長はそう呟いた。

 ソレに気付かぬ者達は、彼らの訴えを気狂いの妄言だと言って嘲嗤あざわらい、相手にしなかった。

 それもそうだ。

 僕自身ですら、今己が恐れを懐いているこの不気味な気配が、己の勘違いであったらと、願わずにはいられなかったのだから。

 たとえ常識が砂上の楼閣であったとしても、その真実に気付きさえしなければ、ソレはその者にとっては堅牢けんろうとりでで在り続けられるのだから・・・。


「そして、孤独に戦い抜いた果ての結果がアレなのだろう。」


 自動車は止まり、ボクらは降りた。

 どうやら教授の目的地へと着いたようだった。


    ※


 それは大きな煉瓦レンガ造りの建造物だった。

 中央の時計塔を軸として両側に幾つもの尖塔せんとうと切妻屋根を持つシンメトリーな形状をしていた。


 ”ダンバース精神病院”


 それがこの古めかしい建物の名前だった。

 そして院内の光景は、ボクがこれまで見て来たいずれ医療施設よりも、奇怪で不気味なものに溢れていた。


 薄暗い蛍光灯に照らされた、不自然に白い壁の色。

 焦点の合っていない虚ろな目をした患者と思われる者。

 分厚い鉄扉の向こう側から聞こえる唸り声。

 黒い鉄格子の向こう側で、手足を拘束され、目も耳も口も塞がれてベッドに固定された者。

 何もかもが外とは一線を画す光景の院内を、僕らは、無表情の看護婦の案内に従って付いて行く。


 そして目的地と思しき所へ到着した。

 黒い鉄格子の奥にはベットに腰掛ける老人と、その腕の中で大事そうに抱かえられた一体の女の子の人形がいた。

 人形の服はボロボロで、所々に赤黒い染みがある。髪も年月を経て色褪いろあせ、壊れた片目の眼窩がんかからは虚空が覗いていた。


「久しぶりだな、サルヴァーレ。元気にしていたか?」


 館長が檻の向こうに話しかけた。


「ああ、マリア。どうしたんだい?君から話しかけるなんて珍しいね。でも嬉しいよ、暫く君の声を聞いていなかったからね。」


 老人は、自らが抱えている人形へ、嬉しそうに声を掛けた。この老人は、檻の外にいるボク達の存在などまるで視界に入っていないようだった。

 それでも館長は、特に気にすることも無く会話を進めた。


「久しく君の顔を見ていなかったからか、不意に君と話したくなったんだ。だが、変わりない様で何よりだ。」


「ありがとう、マリア。でもおかしなことを言うんだね君は。僕らはいつもお互いこうして抱き合っているじゃないか。」


「そうだったな。私としたことが、どうも近頃疲れが溜まっていてね。」


「気にすることは無いさ。そのおかげでいつもは恥かしがりやの君が、こんなにも積極的に話しかけてくれているのだから。

 そうだ、久々に二人で何処かに素敵な場所へ出かけないか。最近、開店オープンしたワインの美味い店を知っているんだ。」


「悪いが遠慮しておくよサルヴァーレ。さっきも言ったが、私は今日は特にも死ぬほど疲れていてね。」


「ああ、ソレは残念だマリア。でも君がそう言うのなら仕方がない・・・。

 今夜は僕らの家でゆっくりしよう。ワインはまた今度にでも行こうじゃないか。」


 酷く歪な光景だった。

 一見、会話が成立しているように見えてその実、全くの意志の疎通が成立していない。

 老人は子供をあやすように人形を揺らし、一人芝居パントマイムふける。

 ついぞ、彼が人形マリアから目をらすことは無かった。


「なあ、サルヴァーレ。実は今日、私の友人を連れて来たんだ。」


「へえ・・・、珍しいね、君が友人を招き入れるなんて。いつも僕の本が散らかっているから恥ずかしくてお誘いできないって言っていたのに。」


「問題はないさ。今日来た友人は、君の書いたモノに興味があってここに来た。それで彼にそこに置いてある物を貸してはくれないだろうか?」


 ピタリと老人の動きが凍り付く。

 そして暫くの無言で何かを考えるような素振りを見せ、


「あー、ああ、あー・・・。何だったかな、見せる、見せる、見せる・・・、見せる?見せる・・・、いや、見せたいのかなぁ?見せるべき?見せねばならない?どれでもあって、どれどでもない・・・。それとも、見せてはいけないのか・・・なぁ?いやでも僕の最愛の人の友人たっての願いなら・・・。いや、僕の愛娘だったか、孫娘だったかな?アレ・・・、マリアってのは何だったかな・・・?」


 ブツブツとひたすらに独り言を呟いていた。


「なあ、頼む。もう家の前にまで来ているんだ。」


 館長のその言葉の直後、グルンッ、と、いきなり老人は首を捩じり、ボクらの方を振り向いた。

 全くの無表情で僕らを。

 いや僕を凝視していた。

 老人はベットから立ち上がり、一歩一歩ゆっくりとこっちへ歩いて来た。その間も彼の視線は微塵も揺らぐことは無かった。

 鉄格子一枚を隔てたボクの目の前で止まる。

 老人はボクの視線と同等の高さになるように腰を下ろした。もう互いの息が掛かる程の距離で、猶も相手は無表情のままだった。

 恐怖で頭が真っ白になる。

 恐怖が全ての動作を縫い止める。

 後ずさることも、しゃがむことも、声を上げることも、目を逸らすことすらも出来なかった。

 ボクの意識が、目の前の二つの奈落へ吸い込まれようとする直前、


「君が私の娘の親友だね・・・。名前は何といのかな?」


 突然、あの無表情が崩れ去った。二つの虚空が閉じて、優し気な笑顔が浮かんでいた。


「あ、あの・・・えっと・・・、アマネ・・・。僕の名前です。アマネと言います。」


 金縛りから解放され、やっとの思いで言葉を紡いだ。


「そうか、アマネと言うのか。娘マリアの親友の頼みとあっては断る訳にはいかないね。少し待っていなさい。」


 老人はスッと立ち上がり。奥の方へと歩いて行った。

 檻の中に備え付けられた棚をあさり、一冊の古びた本を持って再びこちらに戻って来た。


「さあ、受け取り給え。」


 老人はその古い一冊の切抜帳スクラップブックを、ボクに手渡した。


「ありがとう・・・ございます。」


「サルヴァーレ、ありがとう。」


「なに、君の喜ぶ顔が見たかったのでね。」


 老人は再び、己と人形マリアのだけの世界に沈んでいった。

 ボクは、受け取ったソレを開いた。

 中は英語と、見たことの無い文字で書かれていた。

 むしろられた資料や紙片をかんがみると、英語で書かれた部分の方が少なかった。


「もうそろそろ出ようか。」


 館長の言葉にボクと祖父は黙して従った。


    ※


「アレの正体を探ろうとした者の末路が、あの者だということか。」


 ダンバース精神病院からの帰りの車中、祖父は隣で運転している館長に言った。


「そうだ。彼はかつては、とても聡明で、勇敢で、情に深く、それ故に愚かな人間だった。

 それでも私は、今も彼のことを友人だと思っている。

 彼は、アレの脅威から町や周りの人間を守る為に、立ち向かって、戦って、自ら深淵へと潜り込んでで行った・・・。そんな愚か者の終わりは決まり切っていた。」


「・・・。」


「サルヴァーレが、何を見て、何を聞いて、何に触れてああなったのかは分からん。

 だが、私達では到底想像し得ないような恐ろしいモノと接触してしまったということは、ああなった彼を見れば判るだろう。」


 そして、館長はあの切抜帳スクラップブック一瞥いちべつして言った。


「ジュウゾウ・サクラアメ・・・、それを君に渡したのは、わばくさびだ。

 君がアレにこれ以上立ち入ることが無いように。アレに触れた者の末路がどうなるかを、君に想起させる為に。

 そして私が二度と親友を失うことが無いように・・・。」


 その言葉を最後に、ボク達は一言も言葉を交わすことなく大学へ戻った。

 

 しかし館長の祈りを嘲嗤あざわらうかのように、あの町を覆うあの不気味なモノの気配は、日を追うごとにその存在感を僅かに・・・、だが確実に増していくのだった。


 あの際限の無い闇は、あの町自身が生み出したモノか。

 はたまた、近郊の寒村ダンウィッチや漁村キングスポート、インスマスから流れ込み、集積したモノか・・・。


 それは誰にも分からない。

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