第15話 序章1の2 書痴

「どうしましたか、先生?」


 夜遅くに、少年の師が声を掛けるというのは、一体いつ以来だったか。

 かつて彼の妻がまだ生きていた頃は、こういったことも珍しくはなかった。


 よく夜通しの談議に花を咲かせて、次の日の朝にそれを悔やむが、数日後にはまた同じことを繰り返す、というのが二人の日常のサイクルだった。

 彼の妻が、一番早く起きて朝食を用意し、ベットの中で悶える二人を叩き起こし、重い瞼を擦る二人とテーブルを囲んで三人で朝食を取る。

 そうした他愛も無い日常が、ここで良く見られた光景であり、彼ら三人にとっての満ち足りた日々であることの証だった。

 しかし、彼女が亡くなってから、それは次第に無くなって行った。


 次の日の業務に支障が出るから、という理由もあるのだろうが、やはり彼女がいなくなってしまったという事実を突きつけられるのが、二人には耐え難かったのかもしれない。

 故に、今こうして扉の向こう側に少年の師が立っているというのは大変に珍しく、そして少年にとって遙か懐かしいものだった。


「少々手伝ってもらいたいことがあってね。」


 そう言ってドアを開き、姿を見せた師を少年は訝しんだ

 今の彼の格好は毎晩の寝間着の姿ではなく、普段の仕事場で着ている背広の姿だった。

 これから何処かに出かけるのだろうか、と少年は考えた。


「今から外出なさるのですか? でしたら僕もすぐに着替えますので・・・、」


 言いかけたところで彼に、ああいや、と慌てて先を制され、


「いや、別に何処かに出かける訳では無いよ。」


 と、彼は告げた。

 そして、ふむ、と少し彼は思案して、


「でもやはり、着替えておいた方が良いのかもしれないね。」


 少年の言葉を肯定した。


    ※


 今から誰かが、ここを訪ねてくるのだろうか。

 でも、今夜は特にそんな予定はないはずだ・・・。飛び入りの連絡でも入ったのだろうか。


 少年は、思いを巡らせながら、自室のクローゼットの中から普段着である詰襟の学生服を取り出した。

 少年の師は、先に仕事場で待っているから、と言って部屋を出て行った。

 心なしか彼は嬉しそうな感じだった。

 そんな彼に、少年も少しばかり心が沸くような気がした。

 纏った学生服のボタンを上まで閉め、靴を履き直して少年は部屋を後にした。

 少年は廊下を歩き、少年の師が待つ部屋へと向かう。

 月明かりが窓から差し込み、廊下を照らす。

 廊下の電灯を付ける必要も無い程、その光は明るく輝いていた。

 そして少年は一つのドアの前に立ち、


「お待たせしました先生。

 少し着替えに時間を取られてしまいました。」


 ドアの向こうの人物へ語り掛けた。


「気にすることはないよ、入っておいで。」


 その声に従い、少年は部屋の中へ入って行った。


    ※


 数台の背の高い本棚が、壁を埋め尽くしていた。

 本来であれば、そこには清潔感のある壁紙や、モダンな意匠が施された装飾などがあったのだろう。

 しかし、それを窺い見ることは出来ない。

 さらに無情なことに、僅かにその顔を見せる壁面も、その隙間を縫うように掛けられた時計や絵画によって、塞がれていた。

 もはや、それを見ているのは、本棚の味気ない背面と壁に掛けられたインテリアだけだった。


 その中には推理小説や怪奇小説、時代小説、随筆など、作者、種類、言語を問わず少年の師がこれまで集めてきた膨大な量の多種多様な本が、隙間無く陳列されていた。

 しかし日に日に数を増していく本が全てその中に収まるはずも無く、そこからあぶれ出た本は、少しでも利用できるスペースを見つけてはそこに無造作に高く積み重ねられる有り様だった。

 さすがに窓を塞ぐような位置に本棚が置かれていることはなかったが、その恰好の空間が見逃される筈も無い。

 窓枠ギリギリの高さにまで積まれた本の山が、幾つも乱立している。

 そして事務机の上も例外では無い。

 ラジオ、電気スタンドが置かれてる箇所以外は、殆ど本がその机上を占領しており、どうにも仕事が出来るような机には見えなかった。

 申し訳程度に来客用のテーブルと椅子とが用意されてはいたが、それがいつ本に埋もれるのか、少年の気懸かりとなっていた。

 このおよそ仕事場らしからぬ雑多に散らかった書斎。

 この部屋が、少年の師の事務室であり、二人の仕事場だった。


 彼は、事務机に腰を掛けて本の山に背を預け、手元の本に目を落としていた。


(あまり行儀が良くないな。)


 そう少年は思いつつ、


「それで先生、用というのは・・・。もしかして、これから来客があるのでしょうか?」

 

 疑問を口にした。


(なら、もう無意味だろうけど、一応は部屋を片付けなければ。)


 と少年は考えた。しかし、


「来客ではないよ。」


 アッサリと彼は否定した。

 少年は首をかしげる。そして更に彼は言う。


「来客ではないが、人が現れることには違いない。」


 まるで謎掛けのような言葉に、一瞬訳が分からなくなった。

 そして少年は思考を回していく。


(来客ではないが、人が来る?

 それならば、先生の知人が訪ねてくるのだろうか?

 いやそれも殆ど来客と変わりない。であれば親類でも訪ねてくるのか?)


 少年は師の親族を見たことがなかったが、すぐにその考えを否定した。


(ならばそれこそ事前に手紙や電報が届くはずだし、それらを僕は先生と一緒に毎朝確認している。そして最近は、そのようなものはまるで無かった。)


 或いは、それらを師が隠した可能性を考慮したが、それもすぐに捨てた。


(いいや、今までそんなことは一度も無かった。

 そもそも先生はそのようなことをする性格でもない。

 もしかしたら、これは本当に何かの謎掛けなのだろうか?)


 そのような考えに少年が至ったところで、少年の師がそれに気付き、


「ああ、済まなかった。紛らわしいことを言ってしまったね。

 別に謎掛けって訳じゃないよ。」


 少年の思考を先読みした。


「どう説明したものかな。」


 彼がそう呟いた後、直ぐに独りで納得したように頷く。


「百聞は一見に如かず・・・、か。小林君、先ずはコレを見てほしい。」


 そう言って彼は、持っていた本を少年に方へ優しく放り投げた。

 それを見て、あわてて少年は手を差し出した。

 華麗な放物線を描いたそれは、ズレることなくピタリと少年の手の中に収まった。

 どうやらかなり古い本のようだった。

 全体的にボロボロで、かなり茶色く変色していた。表紙の文字は剥げ落ちて読むことが出来ない。紙の質感もパリパリに硬く、脆く変化していた。

 

(投げたりなんかして良かったのかな。)


 少年は不安に思いつつ、その本を開いた。

 

 瞬間、ヒヤリとするものを感じた。

 この本の周りの空気が急激に冷却されていくような錯覚に陥った。

 それでも、ページを進めていく。

 日本で作られた書物ではない。パラパラ・・・と、この本をめくっていくうちに懐いた印象が、それだった。

 内容は全て漢字で書かれていることから、大陸の本だろうと少年はあたりを付けた。

 ところどころに挿絵が描かれており、中には奇怪な生物と思しきものの絵もあった。

 不思議なことに、表紙がかなり痛んでいるにも関わらず、中身は文字や絵は掠れたりすること無く、奇妙な程ハッキリと残っており、文字が欠ける虫食いなども存在しなかった。


 最後まで流し見た少年は本を閉じ、再び彼を見た。


「これが、今日先生が買われた書物なのですね。」


「ああ、そうだよ。中々にすごいものだろう。

 タイトルこそ読めなくなってはいるが、これだけ古いにもかかわらず、中身に欠損が一切無いものなど、そうそうお目に出来るものではない。」


「そうですね。」


 それについては少年も同感だった。

 だがそれでも、この本の題名が分からないと、これがどういった類の書物なのか判断が付かない。

 

(どうにか題名を知ることは出来ないだろうか。

 もしや、その為に僕を呼んだのか。)


「いや、それの題名は分かっている。」


 そう考える少年の思考を、再び先回りするかのように、師は言う。


「本当ですか。」


 彼の言葉に少年は驚嘆した。


(一体どのような手段を使ったのだろうか・・・。)


「断定ではないよ。ただそれでも、九割方そうだろうと確信はしている。

 方法も大したことではない。ただ単に中身を読んで、それから判断しただけさ。」


 単に中身を読んだだけ、と彼は言ってのけたが、その作業がどれだけ大変なことか、少年には想像も付かなかった。

 彼が肘を掛けている本の山が、全てソレの続巻だったのだ。だが、

 

「それに・・・、」


 と、彼は前置きを入れて、静かな声で囁く。


「小林君も感じただろう、その本から寒気のような感覚を。」


 その言葉に少年はハッと思い出し、彼の顔を見詰めた。

 その顔はいつものように得意げな笑いを浮かべていた。

 そして今、彼の師が少年を呼んだ理由も、何となく分かり始めていた。


「それで・・・、この本は一体何なのでしょうか?」


 少年の問いに、


道法会元どうほうかいげん。」


 端的に彼はその題名を告げる。


雷法らいほう金丹道きんたんどう霊宝法れいほうほう洞淵神呪どうえんしんじゅなどをはじめとした、道教に伝わるあらゆる秘術、仙術を記した道教呪術の奥義書だよ。」

 

 その中身を彼は簡単に説明した。

 少年にとって、師が口にした言葉のほとんどが、初めて耳にする単語ばかりだった。そして、


「まあ・・・、東洋版の魔導書グリモワールと言った方が、ピンとくるかな。」


 彼はそう言い添えた。

 その瞬間、少年に電流が走った。


 ”魔導書”。


 この言葉だけで、この本が一体何を目的に作成されたものなのか、即座にピンと来たのだ。

 そして今この場に呼ばれた理由も、少年は何となく察しが付いた。

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