第14話 序章3の9 猟獣

 数人の男達が路地裏へと入って行く。

 表通りの人々の楽し気な喧騒や煌びやかなネオンや街灯の光は、彼等にとって忌むべきものだった。

 路地裏の闇と静けさこそが、何よりも男達が愛すべき家であり、庭であった。

 今日も彼らはそこに住む者、或いは表の世界から迷い込んでくる哀れな者を甚振いたぶっては遊んでいた。

 そんなロクでなし共の中に、痛々しく腕に包帯を巻く男の姿があった。


「まだあいつら二人は、見つかんねえんだって?」


「うるせえ。俺の前で、あのクソガキ共の話はすんじゃねえッ!」


 包帯の男は、苛ついたように吠えた。

 その腕の怪我は五日前に、その子供達に負わされたものだった。


「バカだなあ、テメエも。あいつ等を独り占めしようとなんかすっから、そんな目に合うんだよ。」


「つーか、女のガキ相手に普通、そんな怪我させられっかよ。」


「油断し過ぎだっての。」


 周りの男達は、ドッと笑い声を上げた。


「クソがッ!」


 包帯の男は手当たり次第に、周りのものに八つ当たりをした。

 あの日以降、この男は荒れていた。

 少女らを取り逃がしただけでなく、怪我まで負わされた。

 そのことがひどく男の自尊心を傷つけ、屈辱を与えた。

 また男の仲間も事あるごとに、この男の失態をこのように笑いものにしていることが、より一層ささくれ立たせた。


    ※


「あのじじい、ケッサクだったよなあ。」


「ああ、身ぐるみ剥いでやったら、テメエの粗末なモン必死で隠そうとしてよぉ。

 女かよってぐれえ小せえくせになあ。」


「そんで俺がソレを思いッ切り蹴り上げたら、泡吹いて倒れやがった。」


「あんだけ小さくても、痛えモンは痛えんだな。

 ああ、やっぱ女じゃなかったわ。」


 ギャハハ、と下品な笑いが炸裂した。

 今夜も彼等は狩りを楽しんでおり、その所業をまるで武勇伝のように語り合っていた。

 それでも包帯の男は、終始、不機嫌そうな顔を浮かべており、一人だけその和に加わっていなかった。


「おーい。いい加減キゲンなおせって。」


「ムリムリ、ああなると相当長引くから・・・。」


「そういや、そーだったな。」


 アハハ、とまた笑い声が飛んだ。


(ああクソが、ぜんっぜん腹の虫が収まらねえ!次に会ったら、もう遊ばねえ。

 サクッと殺して、犯して、ばら撒いてやる。)


 包帯の男がぶつぶつと独り言を呟いていると、不意に後ろから、


「今晩は、おにいさん。」


 と、声が聞こえた。


    ※

 

 彼が背後を振り返ると、そこに真っ白い少女が立っていた。

 白い髪、白い肌、白い洋物の服。

 そしてその側頭部には、鬼の面が携えてあった。

 少女の異様な風体に男はギョッとしたが、すぐにこの少女の顔に見覚えがあることに気付く。


「テメエ、千春だな。」


 男は己の中で、怒気が瞬く間に膨れ上がっていくのを感じた。

 後ろでたむろしていた他の男達も、包帯の男の異変に気付きそちらを見ると、


「うわ、スゲエ。真っ白だ!」


「なんだそのガキ。」


「でも、顔はイイ感じだな。」


 など、各々感想を漏らした。


「ええ、千春です。」


 少女が微笑みながら答えると、包帯の男は確信したように獰猛どうもうな笑みを貼り付けた。


「会いたかったぜえ。テメエにやられた傷が、うずいてうずいて仕様がなかったんだよ。

 ああ、やっとこれでスッキリ出来そうだなあ。」


「なに? このガキがお前に怪我させた子?」


「うへぇ、ものスッゲエかわい子ちゃんじゃん!」


「オイお前、こんなかわいい子を独り占めしようとしてやがったのか。」


「いいねえ、俺らにもヤらせろよ。」


 と男達が少女のもとに集まってきた。


「慌てなくても大丈夫ですよ。ちゃんと皆さんの相手をして差し上げますから。」


 少女が服の裾をたくし上げながら妖艶ようえんに微笑む姿に、男達は唾を飲み、歓声を上げた。

 周りの男達が我先に彼女へ群がろうとしたが、


「ワリイな、先にヤんのは俺だよ。」


 包帯の男はそれらを無理やり押し退け、少女の前に立った。


「ハッ、澄ましてられんのも今のうちだけだぜ。」


 男は、懐から短刀を取り出すと、


「その小奇麗なツラ、穴だらけにしてやるよ。」


 嗤いながら鞘から抜き放った。


「くたばれや、クソガキがァッ!」


 そして男は得物を握り締め、駆け出した。


「もったいねえ、殺すのかよ!」


「せめて顔だけは残しとけよ。」


 外野からは、そんな声が上がる。

 だが彼には関係無かった。

 怒りをたぎらせる男の耳には最早、外野の声など一切入って来なかった。

 苦しませて殺す。男の頭の中にあるのは、この言葉だけだった。

 その顔に風穴を開けんと、短刀を突き出す。


 そして、


「がああああああああああああああああああああああああああああああああ。」


 腕に激痛が走った。


 男は焼けるような痛みに絶叫を上げ、地べたを転げ回る。

 何が起こったのか分からなかった。

 否、何が起こったのかは、かすかに見えていた。しかし理解が追いつかなかった。

 短刀が少女の顔に刺さるその刹那。

 彼女はまるでダンスのステップを踏むかのような可憐な動きで、クルリと回転してそれを躱した。

 その直後、目の前に無防備に伸び切った男の腕を、少女は裾の下から取り出したナイフで一刀の下に、前腕の根本から切断した。

 切断された腕は、ゆっくりとクルクル回転しながら宙へと舞い上がった。


    ※


 落ちて来た男の腕を、少女は掴み取る。

 それは本人の支配下から離れても猶、健気に短刀を握り続けていた。

 少しの間、彼女はソレをしげしげと眺めたが、すぐに興味を失くしたかのように目を逸らす。

 そして・・・。

 グシャリ、とソレを握り潰した。

 ブチブチと肉が押し裂かれ、ゴリゴリと骨が押し削られる。

 少女の小さく可愛らしい手が、耳を覆いたくなるような汚らわしく、湿った鈍い音を奏でた。

 少女の手の中で完全に千切られたソレは二つに分かれ、落下する。

 ビチャ、という血肉の不快な音と、カランという短刀の甲高い音が鳴る。


「うふ、うふふ・・・、うふふふぁふぁ、ははハハハ、アーッハハハハハハハハハハハハ・・・。」


 少女の狂笑が、路地に響き渡った。


「うぐぐぐぐ、こんのクソガキがッ!おいテメエ等、やっちまえ!」


 切断された腕を抑え、苦痛に顔を歪ませながら男は叫んだ。

 その号令と共に、男達が千春へと殺到していく。


「調子乗んなア、ガキがッ!」


「よくもやりやがったなあ!」


「死に曝せや、こんのダボがあッ!」


 男達は口々に啖呵を切ったが、少女の前に立ちはだかった瞬間に、


「ぐあ!」


「ぐげえ!ぎあああああああ!」


 腕を、足を、胴を、首を・・・、瞬く間に切り裂かれ、分解らされていった。

 ナイフを振るう腕が全く見えなかった。

 気付いた時には身体が分離していた。

 まるで自ら部位を切り離し、分裂しているかのようにすら感じられた。

 それ故か、少女が握るナイフには殆ど血が付いていない。

 

「ひ、ひいいいいいッ!」


 最後尾にいた男は、恐慌し、脱兎の如く逃走しだした。

 人間の身体がパズルのように、容易く分散していく様を間近で見せつけられ、ようやく彼は事の異常性を理解したのだった。

 足下に広がる今の今までは仲間だった者達の血の海と無数の細かい肉片に、足を滑らせ、転びながらも路地の奥へ消えて行こうとした。

 しかし・・・。

 少女は彼を見逃すことはしなかった。


 地を蹴り、側壁を蹴り、反対側の側壁を蹴り、宙を駆け抜けた。


 常軌を逸した跳躍力と速度で、瞬く間に逃亡者にせまり、頭上を飛び越え、そして退路を塞ぐ様に彼の前へと着地した。


「ひいいいい、助け、助けてください。お願いしますッ!」


 腰を抜かし、後ろ手を付いて座り込んだ彼は、号泣して必死に懇願した。


「お願いします。お願いしバッ・・・、」


 命乞いも虚しく、下から上に正中線を抜かれた。

 その身体は、バックリと左右に咲いた。


「随分と汚い双葉ね。」


 少女は元来た道を戻る。

 最後の一匹を捕まえる為に。


    ※


 「はあッ、はあッ。クッソ・・・、一体ありゃ何だってんだ。」


 包帯の男は、路地をひた走っていた。

 残った方の手で、切断された腕を力いっぱい締め付けるが、流れ出す血は止まらなかった。

 そして、


「ぐああッ!」


 足下のゴミに身体の平衡を奪われ、盛大に転んだ。


「クソ、クソ、クソ、クッソオオッ!」


 すぐさま立とうとするが、なかなか上手くいかない。

 それもその筈だ。

 肘から先を失ったことにより身体の重心が移動し、それが男の平時の動作を困難にしていた。


 どうして、どうして俺がこんな目に・・・。

 俺が、一体何をしたってんだ。ただ玩具で遊ぼうとしただけだ。

 たかが、それだけのことだろうがよッ!

 別にあんな奴ら、掃いて捨てる程いるゴミ見てエなもんだろうが。ソレの一つや二つ壊したところで、誰が文句を言うってんだ。

 いや、寧ろゴミ掃除を手伝っているようなもんだから、感謝すらしてほしいくれえだ。

 そうだよ、あのメスガキもおんなじようなもんだ。

 捨てられたゴミを玩具にして遊ぼうが、壊そうが、捨てようが俺の勝手だろ。

 それを、あのガキ・・・、玩具くせに持ちオレに手を出しやがってッ!

 ぜってえ許さねえ。

 ぜってえ殺してやる。


 男が自身の怒りを再燃させるも、コツッ、という乾いた足音が、一瞬で炎を沈下する。


「まさか・・・。」


 ゾクッと、ひりつく様な寒気を感じ取った男は身体を転がし、這う姿勢から仰向けになって首を起こし、爪先のさらに先にある暗闇に目を向けた。

 コツ、コツ、闇の中でその音は次第に大きくなっていき、男の中の恐怖心もそれに比例するように増していった。

 そしてその恐怖心に応えるかのように、漆黒の闇はその開いた大口から、純白の鬼を吐き出した。

 その人喰鬼しょうじょは、身体を震わせる男にゆったりと近付いた。

 その足元まで来ると、淑やかにしゃがみ込んだ。

 その顔には、三日月のような亀裂が走っていた。


「お、落ち着けよ。俺も少し機嫌が悪かったんだ。だからさっきのことは謝るよ。

 そうだッ!これからいいとこに連れてってやるよ。そこでうまいモンでも食おうや。何なら好きなモンも買ってやる。

 心配すんなって、金ならこう見えてもたんまりと持ってんだ。お嬢ちゃんが望むモンなら、何でもくれてやるよ。だからさ、な、お互いさっきのことは水に流そうや。」


 ハハ、と男は笑った。

 少女は、終始無言でその男の言うことを聞いていた。

 そして、ゆっくりと腰を上げて中腰になり、片手を男へと差し伸べた。

 その顔は優し気な笑みが浮かんでいた。


「おう、わかってくれたかい。おお、すまんね。手まで貸してもらって・・・。」


 男はまるで疑いもせず包帯に覆われた手を伸ばし、差し出された手を掴み、立ち上がろうとした。

 その瞬間・・・。

 グシャリ、と先に一度聞いたことのある音が鳴り、男の手が弾け、指が飛び散った。


「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああッ!」


 絶叫が響き渡る。

 男は、無い腕で握り潰された手を押さえて転げ回った。


「テメエ、こんなことしてタダで済むと思うなよ。

 俺がちょいと声を掛けりゃ、直ぐに俺の仲間が集まって、テメエなんぞ軽くスナにできんだぞ。

 それがわかってんのかッ!」


「だったら呼んでみろよ。」


 少女の静かな声の後、ガンッ、と稲妻のような轟音と衝撃が路地に走った。


「ぐああああああああああああああああああああああッ!」


 男は足を踏み千切られた。

 少女はただ、男の足を踏み付けただけだった。

 だが少女の下した足が、男の肉を引き裂き、骨を擂り潰し、さらにその下の地面にまで達し、穴を開けていたのだ。

 踏み抜かれた足から伸びた赤黒い筋が、空いた地面の穴に絡み付いて糸を引いていた。


「や、やめで・・・、やめでぐれッ!」


 男はボロボロと涙を流し、顔をグシャグシャにして懇願する。


「俺が、悪がっだ。ぎょうのごども、前にこごでしだごども、あのみぜでしだごども、全部全部あやまる。 あやまるがら、だのむッ!ゆるじでぐれ。

 もうひどりの子にも、あやまるがら、ゆるじ、ぐぎゃあああああああああ、ああああ、あああ、ああ・・・、」


 少女は何度も踏み潰した。足を、太腿を、腕を、肩を、腹を・・・。

 男の身体の大半が原型を留めておらず、その血肉は地面の穴や亀裂、泥や石塊と溶け合い、絡み合い、混ざり合って一体化していた。

 そんな状態になっても猶、微かにではあるが、男には息があった。


    ※


「がふ・・・、げふ・・・、」


 男の呼吸には血や泥が混じっていた。


「でめえは・・・、鬼だ。人喰い鬼だ。」


 息も絶え絶えに溢す。


「悪魔だ、もう一生抜けらんねえよ、ずっと肥溜ん中だ、このクサレ淫売。」


 最後の力を振り絞って、己を見下ろす人喰鬼しょうじょを罵る。


「人間を辞めちまったんだなあ、ハッ!

 結局テメエは俺達と同類だ、ぐげッ!」


 かろうじで形を留めたところ、踏み抜かれた。


「どうせ、もう一匹のガキも、テメエが喰っちまたんだろうがッ!

 あんだけ必死で庇ってたってのになあ。

 クハハ、やっぱ犬畜生同士、共食いがお似合いだって訳だ、ぶげエッ!」


 そして、終に男は、首だけが残されるに至った。

 しかし、それでも未だにその首は笑っていた。


「俺は一足先に、逝くけどなあ、テメエもあのガキもいずれ地獄行きだあ。俺には分かんだよ。

 なんたって俺達は同類だからなあ。

 ああ、安心しろよ、堕ちてきたら真っ先に俺が二人纏めてを犯して、喘がせて、よがらせてやるよ。

 今度は文字通り、無間地獄だあ。クカカ、俺はせいぜい、期待して楽しく待またせてもらうぜッ!

 アーッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ・・・。」


 少女はソレを粉の如くに踏み砕いた。

 その不愉快な哄笑を上げる歯が、舌が、口が一片たりともこの世に残らないように・・・。


    ※


”殺せ、殺せ、殺し尽せ。贄の血を、肉を、魂を喰わせろ。”


 千春の頭の中に呪詛が響き渡る。

 これが千春の与えられた力であり、掛けられた呪いでもあった。


「少し待ってろ、すぐに喰わせてやる。」


 千春は、足下で染みとなった男の、先に切り刻んだ男達の血肉を喰らい、その魂を啜った。


”嗚呼、美味なるかな、美味なるかな。然れど足りぬ、微塵も足りぬ。もっと我に喰わせよ。”


 これで、まず一歩を踏み出した。

 しかし先はまだまだ長い。

 千春が改めて決心を固めると、不意に前方に大きい影と小さい影が現れた。


「千春・・・。」


「おねえちゃん・・・。」


 二つの影は千春へ囁き掛ける。それは亡き祖父と茜だった。

 それも呪いよるモノなのか、ただの幻覚なのか、千春には判らない。


「おじいちゃん・・・、茜・・・。」


 それでも再びその姿を見ることが出来た千春は、胸が熱くなった。


「私やったよ、出来たんだよ。

 初めてだったけど、ちゃんと出来た。出来たんだよ。」


 涙を溢し、己の所業を誇っていた。


「・・・・、」


 しかし、二つ影の表情は曇っていた。


「二人とも、そんな顔をしないで。

 確かにこれはほんの始まりで、先はまだまだ長いけど・・・。

 でも大丈夫、私ならきちんと出来るから。」


「おじいちゃん・・・、私、ちゃんと舞える様になったでしょう? だから、安心して見てて。」


「茜・・・、私、あなたの敵を取ることが出来たよ。だから、そんな心配そうな顔をしないで。」


 だが二つの影は決して微笑むことなかった。

 そして次第にその存在感を希薄にしていった。


「それじゃあまたね。私はもっともっと頑張らないといけないから。」


 その影は霧散してしまうと、文字通り、後には影も形も残らなかった。


「大丈夫、今もこうして私の中に、二人の魂を感じるから。」


 千春はそっと胸の前で手を重ねる。そして、


「あは、あははは・・・、アーッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ。」


 上を仰ぎ、高らかに笑った。


 アア、なんて清々しいんだろう。なんて楽しいんだろう・・・。


 心があらわれていくような気持ちだった。

 初めて成した復讐の味は、非常に甘美だった。

 麻薬のように脳を犯し、身体中の神経の末端まで、魅惑的な蜜の味が浸透していくような感覚だった。

 闇夜を仰ぐ千春の頬を、雫が伝う。

 初めは、何故、それが流れるのかが理解出来わからなかった。

 しかしやがて思い当たる・・・。


 ああそうか・・・、私は今喜んでいるんでいるんだもの。感動しているんだもの。

 ならば流れて当然よね。

 だって私は今、すっごく嬉しい気持ちなんだから・・。

 だからこれは、


「これは歓喜の涙なのねッ!

 だって私は、感動に満ち溢れているんだから。

 私は上手く出来た。おじいちゃんも茜も、私の事を褒めてくれた。

 だから涙が零れているの。」


 千春は、そう理解出来おもいこんだのだった。


    ※


 かの夜から数日後。

 浅草吉原の一角の、場末ばすえ妓楼屋ぎろうやで事件が起こった。

 営業が終わった後の夜更けに、店の主人と住み込みの従業員、遊女を含めた十人以上が一人残さず鏖殺おうさつされ、その死体がむさぼられる事件が起こった。

 この事件に吉原はおろか、東京中に衝撃が走った。

 警察はその威信を賭けて大々的に捜査を行ったが、目撃情報は皆無であり、その足取りを負うことが全く出来なかった。

 日が経つにつれて市井の一角では、吉原に食人鬼が現れただの、東京にあやかしが住み着いただのといった風説がささやかれるようになった。

 そして、そんな帝都の民の不安を嘲笑あざわらうかのように、未だ犯人の逮捕には至らない。


    ※


「ああ、やはり君はいい子だね。」


 男は、己の部屋の中で、目を閉じて椅子に深く腰を掛けていた。

 その瞼の裏には、一人の少女と哀れな子兎達の姿が鮮明に映っていた。

 男は立ち上がり、


「さあ、狩りの始まりだ。白々開けの朝、野花は馨しく香り、森は碧々と濃い。ここで猟犬を解き放ち、声高く吠えさせよう。」


 まるで楽団の指揮者さながらに、両手タクトを振るい、歌を口ずさんだ。


「緑の野に身を横たえ、藪を抜け、池を越え、鹿を追う。」


 男性テノール独特の美しく、荘厳な声色が響き渡る。


「青い麦を貪り喰い、血塗られた狼や怒り狂った猪を切り刻む。」


 瞳の中の、今まさに行われんとする惨劇の舞台。


「帝を、后を、そして皇子をも叩き起こして、角笛を都中へ反響するほどに鳴り渡らせよう。」


 狂騒を上げて、死に物狂いで逃げ惑う獲物達。

 しかし無情にも凶刃の下に、一匹、また一匹と血煙の中へ消えて行った。


「もっと得物は、もっと得物はないかと、緑の狩場を駆け回る。」


 後に残ったのは耳の痛くなる静寂と、血の海の中に佇む少女だけだった。

 男の顔には、心の底からソレを祝福し、歓迎する狂笑が湛えられていた。


「この世に狩りに勝る楽しみなど無いのだから。」 


    ◆


序章3 終わり

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