どんと るっく あっとみー!

夜鳥つぐみ

第1話

――だから、こっち見るなって!



「……先生」


生徒もまばらな教室。

それはそうだ。

今回の英語の試験は補習者が少なかった。


教卓の前に陣取る少女から、死にそうな声が聞こえた。


「何でしょう」


目を向ければ、優等生で秀才と名高い委員長が死んだような目をしてこちらを見ていた。

補習の常連の他の奴らとは違い、彼女は初参加だった。

むしろなぜ補習を受けているのか、疑問に思うほど、彼女は成績が良かったはずだ。

確かに、英語は少々苦手のようではあったが。

冷静、クール。そんな言葉が似合う涼やかな顔をする委員長の姿は、今はない。


「さっぱりです」

「……何処が」


諦めたような溜息とともに、そんな言葉が吐かれる。

彼女の手元を見れば、ほぼ白紙のテスト用紙。


「……be動詞くらいはわかるだろう」


ならば1問目と2問目は解けるはずだ。


「…アイ アム ア ペン」

「………お前はいつから筆記用具になったんだ」

「…あ」


彼女の答えに、今度は俺が溜息を吐いた。


「冗談きついよ、イインチョー」

「流石にそれはわかる」


彼女と同じようにテストに挑んでいた補習の常連、おバカ二人が声を上げた。

見た限り、二人の手は答案を書きだしているようだ。

合っているかどうかは、別だが。


「お前の実力はよくわかった」


俺の目に含まれた同情を、誰も責めないでほしい。


「まぁ、だからこその、補習ですからね」

「開き直るな、まったく」


一学期期末テスト。彼女――遠坂日和は356名中、32位。ただし、英文法に限って言えば、356名中、340位。

全体でなぜ30位台になれたのか不思議なほどの結果だ。

しかも、いざ赤点補習をしてみれば、be動詞すらあやしい。


「今までどう回避してきたのかを聞きたいくらいだ」

「丸暗記ですよ。和訳の」

「……なるほどね」

「今回は、一文ずつずれて覚えてしまって…」


遠坂は肩をすくめて苦笑した。


「俺は、和訳だけで赤点を回避してきたお前を褒めればいいのか貶せばいいのかわからんな」

「褒めてくださいよ」


それは確かに、相当な努力の結果だったろう。


「とりあえず、この小テストに合格したらな」

「……ガンバリマス」



蝉の鳴き声が暑さを際立たせる。

グラウンドに目を向ければ、野球部が守備練習をしていた。

校舎からは吹奏楽部の合奏が聞こえてくる。


「遠坂、お前全然できないな」


夏休み、半ば。

補習を受けていたおバカどもも小テストに合格し、残りは「秀才」の遠坂のみ。


「…なんで毎回和訳の配点が少ないんですか」

「…英文法だからな。もともと少ないんだよ」

「じゃあ4択は」

「お前、異常に勘が働くからやめた」


一回目、2回目の小テストで、4択問題4問をそれぞれ全問正解した遠坂。

けれどそれは理解しているわけではなく、「なんとなく」で選んだ結果だった。

聞けば、一つも理解ができていないという遠坂。

確率を考えれば、少々背筋が寒くなる。

成人したらスクラッチでもやればいい。


「まぁ、着実に点数とれるようになってきたじゃないか」

「先生のパターンが掴めてきたんですよ」

「…俺じゃなくて英語のパターンを掴んでくれないか」


彼女は確かに、頭が良かった。

夏休みの課題は早々に終わらせたらしい。

数学の証明も、化学式の問題も、古典の訳も全部、見ただけで諦めそうなそれらをきっちりこなしてしまっている。

話をしていても、こちらの言いたいことを先回りして理解している節もある。

問題は本当に、英語だけ。


「惜しいよな。英語さえできれば、補習も受けずに済んだし、もっとレベルの高い高校だって行けたはずなのに」


思わずこぼした言葉に、遠坂がこちらを見る。

失言だったかもしれない。

英語ができないことを一番気にしているのは遠坂だろう。


「さ、楽しい夏休みが俺といるだけで終わりになるような悲しいことにならないように頑張れよ」


慌てて取り繕うように言った言葉に、遠坂は僅かに笑みを見せた。


「別に、それでもいいと思ってますけど」

「え?」

「私、先生好きですもん」


遠坂は、笑顔で言った。

気負いなく。さらりと。


「それは、うれしいな」


だから、それは教師としての俺を慕ってくれているという…


「願わくば、生徒としてでなく、私を見てほしいと思う程度には」

「……は…」


そう言ってまた笑う遠坂は、いたずらに成功した子どものような顔をした。

あぁ、そんな顔もできるのだとぼんやり思った俺は、現実逃避をしているのだろう。


不意に、紙を差し出された。


「先生、小テスト出来ました」


見れば、自分で作った小テストだ。

はじめのころと違って、ちゃんと埋まっている。


「あ、あぁ。昼食べてきていいぞ」


受け取って、採点を始める。

遠坂がいつも通り、どこかに昼飯を食べに立ちあがる。


「先生」


教室の出入り口で、遠坂が振り返る。


「冗談じゃ、ないですからね」

「……」


そんな爆弾を落として、遠坂は出て行った。

遠坂はその日の小テストで満点を取り、補習は終わった。



何事もなく、二学期が始まった。

遠坂は何も言わない。

けれど、視線を感じることがあった。

振り向く先には遠坂がいた。

目が合えば、笑顔を向けられる。

近づいては来ない。

距離があった。


夏に過ごした毎日よりも、ずっとずっと遠い距離。



手元にある単語テストの丸付けをする。

機械的に進めたその作業の手を、止める。

秀才らしい整った字。

秀才らしからぬ正答率。

けれどこれだけの点数を取るのに、彼女がどれだけ苦労しているのか、俺は知っている。


「松村先生?」

「っはい!」

「大丈夫ですか。何だかぼーっとして」

「あぁ、ちょっと…夏バテですかね」


同僚の言葉に慌てて言葉を返す。

まだ暑いですからね、という同僚に相槌を打ちながら、丸付けを終わらせた遠坂の答案を裏返して束の上にのせた。



「……駄目だろう、生徒意識しちゃあ」


一人暮らしのアパートの部屋で、ビールのプルトックを空ける。

飲みたい気分だった。

最近ぼんやりすることが多くなった。

同僚に言ったような、夏バテが原因ではない。


原因なんて、分かり切ってる。


「新婚さん、おいでませー!」


なんとなく付けたテレビから、芸人の明るい声が漏れてくる。


「今週の新婚さん、テーマは…『禁断の恋』!略奪愛、そして、禁断の教師と生徒!いつもより濃いお話をお送りします!」


「……」


タイムリー過ぎて、笑えなかった。

チャンネルを変えようかとも思ったが、身体は正直だ。

リモコンに手は伸びなかった。


「なんていうかね、もう気づけばずーっとこの子の事を考えていて」


ひげ面のおじさんが照れながら話している。

物理の教師らしい。


「でも立場とかあるじゃないですか。それで色々考えたんですけど…好きになったら、しょうがないかな、なんて」

「それで、突っ走っちゃったんですかー」

「一応、卒業までは待ちましたよ」

「一応って…」


会場が笑いに包まれる。

対照的に、俺は沈んでいる。

そんなに簡単に、踏ん切りがつくわけがない。


「それに、生徒としてじゃなく、私を見てほしいんだって言われて、考えたんですよ。生徒としてじゃなければ、どうなんだろうって」


生徒としてじゃなければ。


――願わくば、生徒としてでなく、私を見てほしいと思う程度には――


遠坂も確か、そんな事を言っていた。

あぁ、俺は生徒としての遠坂には向き合っていたけれど、そうじゃない彼女の事は、何も知らない。

見ようと、していなかったんだ。

その先が、怖かった。


「あぁ、答えなんて、出てた」


面白いほど、明快に。


「遠坂」


廊下を走っている遠坂に声をかける。


「廊下を走るな、なんて言わないでくださいよ、先生。ミーティングに遅れちゃうんですから」


なんちゃら委員である遠坂は、放課後の廊下で足踏みをする。

時間に厳しい委員会何だろう。どこかは知らないが。


「コケない。ぶつからない。これさえ守れればなんも言わん」


何せ、俺は悪い教師だ。

人の事はあまり注意できない。


「それより、話があってな。ちょっとで終わる」

「なんです?」


足踏みを止めないまま、彼女が聞いてきた。


「俺はな、朝が弱いんだ。寝起きが酷くて、実家の壁をへこませたこともある」

「はあ。確かに弱そうですね」

「実は辛い物が苦手で、甘い物には目がない」


突然何の話をし始めたのか、と俺の顔を見つめる遠坂。

足踏みは、止まっている。


「結構ずぼらで、休みの日はパジャマで過ごすし、昔犬に噛まれて以来、犬は苦手だ」

「……」

「酒は弱い。ホラーも嫌いだ。後は…結構我儘だな。あと」

「話が見えません」


指折り数えて話す俺に、戸惑った表情を浮かべる遠坂。

初めて見る表情だ。


「まあ聞け。あと、猪突猛進でな。決めるまでには時間がかかるが、決めたら一直線だ」


改めて、遠坂を見る。

彼女は黙って、俺を見ていた。


「これが、俺だ。教師の松村先生じゃなくて、ただの松村浩介の姿だ」

「……」

「遠坂。お前にちゃんと、知ってほしいと思った。先生じゃない俺を、見てほしい。幻滅を、させてしまうかもしれないが」

「……それ、は」

「まんまとお前の罠に嵌った気分だぞ。あれだけ見られて、意識しない方が無理だった」


見つめてくる遠坂から、逃れるように横を向いた。

窓に映った俺は、情けない顔をしている。


「…生徒じゃない、お前を教えてほしい」


精一杯がこれとは、我ながら情けない。

あぁ、遠坂の視線が痛い。


「…先生」

「ん?」

「卒業式、ちゃんと、告白させてください」


もう一度見た遠坂は、泣き出しそうな、けれど嬉しそうな顔をしている。


「なんで」

「惚れ直しました」

「……お前は、ストレートだな、何もかも」


心臓に、響く。

言葉も、視線も、何もかも。


「どうしても、卒業式までは教師と生徒。周りにだって、そう思われてしまう。私、先生の迷惑になりたいわけではないんです」


秀才は秀才らしい気の使い方をする。

互いの立場を考えて。

きっと、あの時の告白に、遠坂は答えを求めてはいなかった。


「だから、卒業して生徒じゃ無くなったときに、改めて好きって言わせてほしいんです。はじめから、そのつもりでしたし」

「……駄目だ」

「何でですか」


不満げな声を出す遠坂。

彼女に向けた笑顔は、大人の余裕って言うものを出せているだろうか。


「そんときは俺が告白する番」





学年が変わっても、遠坂の英文法の授業は俺が受け持っていた。

あともう少しで、彼女は卒業を迎える。


「って、なに赤点取ってるんだ、お前は」

「……理由は前回と同じです」


たった一人、補習を受けるのは、「秀才」の遠坂。


「それでも大学受かったし、今まで赤点取ってないんですよ。褒めてくださいよ」

「…その小テスト、合格したらな」


前にも同じセリフを吐いた気がする。


「前回は、褒めてもらえませんでしたね」


同じことを思い出したらしい遠坂が笑う。


一年と数カ月たった今。

変わらずに視線を感じる日々。

けれどあのころと違うのは、


「あぁ、もう。そんなに見ないでくださいよ」


同じくらい、俺も彼女を見ているってこと。


「それはこっちの台詞だ」

苦笑する俺を、真直ぐな目で見つめる遠坂。

あぁ、もうだから。


だから、こっち見るなって!


――後数カ月が、待ちきれなくなってしまう。

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