2 別離

「おまえ、少し大きくなったんじゃないのか」


 高遠守は、そうかなあという感じで自分の躰を見回した。最後に会ってからたかだか二ヵ月しか経っていないが、上條には守の背が伸びたように思えたのだ。


「健ちゃん、子供はちょっと見ないとすぐに成長するって思い込んでるでしょ。十歳ぐらいのときって、男の子より女の子の方が成長する時期なのよ」


 珠子はそう云うと、ちょうどベンチの端に腰を下ろした守に、そうだよねえという動作で同意を求めた。その仕草に、守はどうしていいかわからず、とりあえず、はにかんだ笑顔を返している。


「そんなもんか。しかしお前、出発は明日なんだろ。準備とか、大丈夫なのか?」

「はい。持って行くもの、少ないですから」


 守は、事件が終わってから一ヶ月以上も、この町田児童相談所に収容されていた。本来ならこことは別の一時保護施設に入れられるのが通例らしいが、事件の被害者であり参考人でもある守は、特別措置としてしばらくここにとどまるよう云われていたらしい。


 上條は、守が座ったベンチに自分も腰を降ろした。この町田児童相談所の中庭には、池の周りにいくつかベンチが置いてある。上條のように、行政の施設に入るのが億劫な人間には、便利な場所のように思えた。


「確か埼玉の方だよな」

「ええ、飯能市というところだそうです。どんなところかは、行ったことないんでわかんないですけど」

「そうか。まあ、そんなに遠くはないがな」

「そうなんですか?」

「ああ。バイクで行けばすぐさ。その内遊びに行ってやるよ」

「そのときは、タイチさんも一緒で」守は上條に笑顔を返して云った。

「はあ? 何故あいつが?」

「ついこないだ、タイチさんここに来たんですよ。ご実家で採れたリンゴをたくさん持ってきてくれました。食べきれないんで、ここの職員さんたちにずいぶんあげちゃったけど」

「ふうん、タイチがねえ」


 上條は、あれから何度かタイチと会う機会があった。結局、上條は大谷組の仕事を引き受けて、志賀と会うことが増えたからだ。専属は断り続けているが、志賀は依然として諦めていないらしい。


 タイチは、上條と会っても自分から口を利くことはなかったが、ただ一度、守のことを尋ねてきたのを覚えている。とはいっても「あいつ、元気か」の一言だけだったのだが。そのときに児童相談所にいると教えておいたが、まさかここにタイチが来ているとは思わなかった。


「しかも、リンゴ持って?」

「美味しかったですよ。タイチさん、青森出身なんですって」


 上條は、リンゴを両手で抱えているタイチを想像した。似合わないなと思うと、自然に笑いがこみ上げてくる。


「笑っちゃ失礼でしょ」珠子も、自分でそう云いつつ笑いを噛み殺すのに苦労している。

「タイチさん、今度僕にボクシングを教えてくれるって云ってました。覚えたら、絶対に虐められないって」

「ああ、あいつから習ったら、おまえはきっと強くなる。多分、俺だって勝てなくなるよ」

「本当ですか?」守は目を輝かせて喜んだ。

「あいつのボクシングは本物だ。保証するよ」


 珠子が自分の鞄のなかから、財布を取り出しながら云った。


「あたし、ちょっと飲み物買ってくるよ。みんな、何か飲みたいでしょ? 自販機、建物のなかだよね」

「ああ、頼むよ」


 上條がそう云うと、珠子は立ち上がって児童相談所のエントランスに向かって歩いて行った。珠子が建物のなかに入ってから、上條は守に話しかけた。


「守、養護施設ってどんなところか訊いてるか?」

「ええ、説明は受けました。僕のような境遇の子も、たくさんいるって」

「そうだな。確かにそうだと思う。徳島って刑事いただろ?」

「ええ、ずいぶんお世話になりました」

「あいつも、施設にいたんだ。最初会ったとき、お前と同じような感じだったな」


 守は、驚いたようだった。


「いや、お前よりひどかったと思う。何か訊いても、言葉なんて返って来なかったからな。満足に喋れるようになるまで、一年ぐらいかかった。あのとき、思った。本当にひどいのは躰の傷じゃなくて、心の傷だってな」


 上條は右手を伸ばして、守の膝に触れた。


「守、お前はこれからずっとこの足を引きずるだろう。躰の痣は、少しずつ消えていくだろうが、足はなかなか治らないはずだ。しかしだからといって心まで引きずるなよ。人間は、心がしっかりしていれば決して倒れないし、もし倒れてもまた立ち上がれる」


 守は、上條の目をしっかりと見つめていた。上條は、その彼の目の奥にある光を確認しようとして、深く覗き込んだ。


「ありがとうございます」守は、上條を視線を受け止めてから、ぺこりと頭を下げた。

「上條さんと珠子さんに会えたから、僕は助かったんです」

「ばか云え。子供が、そんな口調で礼を云うな」


 その言葉を訊いて、守はくすくすと笑いながら、すいませんと小さな声で謝った。


「そういえばお前、もし里親の話が出たら、どうするんだ」


 守は少しだけ動きを止めた。そのあと、ちょっとだけ首を左右に振ってから答えた。


「多分、断ると思います。養護施設には、十八歳までいられるんですよね」

「ああ。高校を出るまでだ」

「じゃあ、高校を出て、就職するまで施設にいます。そのあとは……」


 上條は、守の云いたいことがわかっていた。彼は、静江と会ったことを守に話してはいない。ただ、守に残されていた住所には、高遠静江は住んでいなかったと伝えただけだ。


 おそらく守は、静江以外の親を、もう必要とは思っていないはずだ。彼が大人の親に求めているのは、彼を扶養してくれることではなく、もっと精神的なものなんだと上條は思う。きっと守は、十八歳を過ぎて施設を出たら、改めて静江を探すはずだ。そのとき、彼と静江のあいだに何が起こるのかは、いま考えるべきことではないと上條は思っていた。


「守ちゃん、職員さんが呼んでるよ」珠子が、こちらに駆けてきて云った。「これから、なんか打ち合わせがあるって」

「そうでした。明日のことで呼ばれているんだった」


 守は立ち上がって、上條と珠子に改めて頭を下げた。


「本当にいろいろありがとうございました。向こうから、必ず手紙を書きます」

「おう。待ってるぞ」

「必ずね。いつでも遊びに来ていいからね」珠子は、目に大粒の涙を浮かべていた。

「はい。それでは」


 守は、最後に笑顔を見せて、建物の方に戻っていった。彼の姿が見えなくなるまで見送ったあと、上條と珠子は、すぐにそこを立ち去る気にもなれず、二人でベンチに腰掛けた。


「やっぱり、どうも子供ってのは苦手だな」


 上條は両腕を背もたれの上に置いて云った。


「あら。でもずいぶん肩入れしてたじゃない」

「そりゃあさ。お願いされたからな。筋を通されちゃ仕方ない」


 珠子は、ふふんと鼻で笑ったようだった。


「かっこつけて。子供嫌い?」

「嫌いだね。自分の子供ならわからんが」

「だからさ、はやく作ろうって。子供。きっとすっごく可愛いよ」


 珠子が、上條にぐっと近づいてきた。躰をすり寄せてくる。珠子のいつも使っている柑橘系の香水が、ふわっと上條を包んだ。


「いや、だって、おい、順番が違うだろ?」

「じゃあさ、はやく結婚しようよ」


 珠子は、自分の胸をどんと叩いて云った。


「たくさん生むよ」


 上條は、珠子の屈託のない笑顔を見て、そうだな、そろそろ考えてもいいかなと、まじめに思った。

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