第七章

1 女神

 上着の内ポケットから、いつものミントキャンディのケースを取り出すと、上下に少し振ってみた。からからと乾いた音が車内に響く。もうあまり残っていないなと徳島は思った。


 禁煙を始めてからおよそ三ヶ月になるが、いまだに猛烈に吸いたくなるときがたまにある。徳島はケースから三粒手の平に落とすと、口のなかに無造作に放り込んだ。

 車の運転席から窓の外に目を向けると、遠くに海が見えた。ここの駐車場は少し高台になっているので、今日のように天気が良い日は、一望とまではいかないまでも東京湾の景色が臨めるようだ。


 徳島は窓を少しだけ開けた。車内に外の空気が流れ込んできて、わずかに潮の香りが鼻腔をくすぐる。徳島は、木更津から見える海の景色を楽しんだ。海上に、優雅に飛行しているかもめの姿も見える。


 駐車場の奥に、もう一段高台になっているところへの細い階段が見えた。そこから一人の女性が降りてきている。


 彼女は、髪を後ろに束ねていて、飾り気のない白いシャツにグレイのスカートを履いていた。手には柄杓を入れた手桶を持っている。お参りを済ませてきたところだろう。徳島は、ゆっくりとドアを開けて、車から降りた。

 川田美恵はすぐに徳島の姿に気づいたようだった。彼を見つけても、表情はそれほど驚いていない。


「こんにちは、川田さん」徳島は手を挙げて川田に呼びかけた。

「徳島さん、何故こちらに?」

「川田さんに訊きたいことがありましてね。千葉のお姉さんのところに電話したら、ちょうど来ているということだったんで」

「そうですか。今日はお一人なんですね」

「ええ、非番ですから。そうそう、児相にも連絡したんですが、お辞めになったんですね。剣崎所長から訊きました」


 徳島の言葉に、川田は何も返さなかった。ただ、ほんの少し笑みを見せただけだった。


「乗りませんか? 送って差し上げますよ」


 川田は、真意を測るような目で徳島を見ていた。やがて彼女は、手桶をちょっと持ち上げて云った。


「では、お言葉に甘えさせていただきます。これを返してくるので、少しお待ちください」


 彼女は小さくお辞儀をして、駐車場の横に建っている寺の管理所に向かって歩いていった。徳島は、彼女の後ろ姿を見て、少し痩せただろうかと思った。無理もないだろう。彼女にとってこの夏は、とても長い夏だったろうから。


 相馬由多加が自らの命を絶ってから、一ヶ月が経った。あの夜、記者会見場から脱出した相馬は、町田児童相談所にいた高遠守のところを訪れ、そこで自殺した。追い詰められ、悲観した上での死。捜査本部での見解ではそうなっているが、相馬の死を間近で見た徳島の考えは違った。少なくとも、相馬は悲観してはいなかったと思うのだ。


 高遠守も相馬の死を見た一人だが、直後に彼と話をした印象では、ショックは受けていたが、深く傷ついている様子にも見えなかった。それどころか、相馬の遺体を見ていた守の表情には、憐れみさえ浮かんでいたと思う。


 あの事件のあとで度々感じたことだが、まだ十歳でしかない高遠守の言動や表情からは、子供らしくない落ち着いた感じを受けることがしばしばあった。普通の子とは違う毎日を過ごし、さらにあれほどの経験をした子供だけに、誰よりも早く大人のようになってしまったのかもしれない。しかしそれは同時に、子供らしさの喪失でもあるのだと徳島は思う。


 川田を待ちながら、徳島は、相馬が最後に見せた火傷の痕を思い出していた。その後の調査で、相馬は十五歳のときに父親を事故で亡くしていることがわかっているが、彼の母親である理栄子の証言によれば、相当過酷な虐待を幼少時から受けていたようだった。おそらくあの傷は、父親から加えられた虐待の名残だろうと思われる。


 大きな翼を広げた鳥のような白い痕。それは、以前に上條から訊かされた守の言葉を思い出させた。守が上條に最初に会ったときに呟いた「鳩」というのは、おそらくあの火傷の痕だったのだろうと思う。白い鳩のイメージこそが、守の記憶を封印する鍵のようになっていたのかもしれない。


 川田が管理所の方から戻って来た。徳島は、潮の香りを一度だけ吸ってから、ドアを開けて車内に躰を滑り込ませた。エンジンをかけたところで、川田が助手席のドアを開けた。


「失礼します」そう徳島に声をかけて、川田が車内に乗り込んでくる。彼女がドアを閉め、安全ベルトを締めたのを確認してから、徳島は車を発進させた。

 徳島の車は、駐車場の砂利道を、砂埃を舞い上がらせながら進んだ。寺の駐車場から一般道までは、この砂利道を我慢しなければならないのだ。


「すいません、突然来てしまって」

「驚きましたが、徳島さんならかまいません」

「そう云っていただけると助かります。お姉さんのお宅まででいいですよね。車で三十分ほどですから」

「ありがとうございます」川田は徳島に頭を下げて、わずかに笑みを見せた。

「失礼ですが、今日はどなたのお参りだったんですか」


 徳島は前を見ていたので、川田を見ることはできない。しかし雰囲気で笑みが消えたことはわかる。


「ああ、いや、詮索する気はないんですが」

「いえ」一度だけ深いため息が聞こえた。しばし考える間を作ってから、川田は答えた。「あそこには、私の子供のお墓があるんです」

「お子さんの……男の子と女の子のお二人だったと訊いています」

「ええ。五年前に事故で亡くなりました」川田は声の調子を変えた。この話題から離れたいのだろう。「それより、訊きたいことって何ですか? もう児相は辞めてしまいましたから、たいしてお役にも立てないと思いますが」


 徳島は、信号が赤になったので車を停車させた。川田を見て、話を続ける。


「実は、以前に川田さんのアリバイを確認させてもらったことがあったんですが、知ってらっしゃいました?」

「もちろん。剣崎所長から訊きましたし、うちの姉からもすぐに連絡が来ました。刑事さんから電話がかかってきたんだけど――って、ずいぶん興奮してましたから」

「そうですか。あのときは、確か宇木田高雄が殺害された日のアリバイを確認させてもらったんですが、あなたはお姉さんの家に泊まりで遊びに行っていた」

「ええ、間違いないですね。姉夫婦と一緒にいましたから」

「証言も取れてますから、確かに千葉にいたんだろうと思います。しかし、何故その日にお姉さんの家に行ったんです?」

「何故、とは?」

「宇木田高雄が殺された日は七月二十八日の水曜日でした。平日で休みの前日でもないのに、あなたはわざわざ早退して、翌日もお休みを取っていますよね」

「そうでしたかしら」

「ええ、これはあとでお姉さんにも訊いたんですが、あなたの方から連絡があって、その日に行きたいと云ったらしい。お姉さんも突然のことだったので、少し不思議に思ったようです。これは何故ですか?」


 川田は黙っていた。信号が青になったので、徳島は車を発進させた。車が少なく道も空いているので、これなら三十分もかからずに、川田の姉の家に着いてしまうかもしれない。車は木更津の海岸線に沿って走っている。

 徳島はしばらく川田の答えを待ったが、彼女は押し黙ったまま言葉を出そうとはしなかった。


「川田さん、もう知ってらっしゃると思いますが、事件は一応終結しています。まだ事後捜査は行われていますけど、一連の殺人は、木崎義人と相馬由多加の犯行だったというのが、捜査本部の公式見解です」


 徳島は、自分の云い方が少し感情的になっているのを感じた。川田は依然として黙ったままである。徳島には、その表情がわからない。


「しかし、僕には納得できない。いや、疑問が残ったままというのが正解かもしれない」

「疑問、ですか」

「ええ。まず一つは宇木田高雄の死の理由です。何故、彼は死ななければならなかったのか。相馬由多加が残した手記のなかには、田辺克之を殺したのは妹の優美を守るためだったが、保坂武彦と宇木田高雄は、子供を虐待している親だから見せしめに殺したと書いてあった。しかし、それではどうにも納得がいかないことがあるんです。宇木田は、殺されなければならなかったのではないか、僕にはどうしてもそう思えてしまう。川田さん、僕はね、宇木田の前歴をもう一度調べ直して、一つ気になることを見つけたんですよ」

「気になること」

「ええ、宇木田は、以前に相模原市に住んでいたことがあった。そのときに勤めていたのが、八王子にあった食品加工メーカーでした」


 川田は黙って徳島の話を訊いていた。何を考えているのか、気配からはまったくわからない。


「彼は高校を出てからすぐに入社して、五年ほど勤めている。宇木田は高校生のときから札付きのワルだったようで、この会社に正社員で入れたのも、どうやら父親が役員を務めていたからみたいです」

「それで?」

「問題は、宇木田が何故この会社を辞めたかなんですよ。本当なら辞める必要なんてないですよね。父親が役員なんだから、きっと無理して働くこともなかったでしょう。彼のような男なら楽して暮らせるんだから万々歳だ。ところが、入社して五年目に突然辞めている。宇木田の身辺調査時に正式に問い合わせたときの答えは、本人都合による依願退職とのことでしたが、僕はどうにもこれが気になって仕方がなかったんです。あんまり気になったんで、実際にこの会社に行って調べてきましたよ」


 徳島は、川田の視線を感じた。彼女は何も答えず、彼をじっと見つめているようだ。


「会社に行くと、役員である宇木田の父親が直接対応してくれました。そこで彼は、息子が会社を辞めた、いや辞めざるを得なかった本当の理由を教えてくれました。すいません、ちょっと停めます」徳島はウィンカーを出して車を路肩に停めた。上着のポケットから手帳を出して、途中のページを開いた。手帳に書かれている内容を確認しながら話を続ける。「宇木田が勤めていた食品加工メーカー、UCフード株式会社は、八王子に社屋があります。宇木田はここの倉庫管理課に勤めていたんです。会社の敷地には、本社建物と冷凍食品の加工工場、あと冷凍食品用の倉庫が三つ建っていた」


 川田は、車の前方を見ていた。口を真一文字にきっと結び、徳島の話に相づちを打つ気配もない。


「UCフード株式会社の敷地の隣には、廃ビルが一つあった。この廃ビルは、近くに住んでいる子供たちの、いわば秘密基地のようなものだったみたいですね。いまはもう取り壊されてしまったらしいですが、とにかく五年前までは、子供たちがよく遊び場にして楽しんでいた。しかしある日、二人の子供が隣の敷地に入れる抜け道を発見した。どうやら金網の一部が壊れていたらしく、彼らはここからUCフードの敷地内に入ってしまった」


 徳島は実際にこのUCフードに行き、その敷地を歩いてみた。古い会社のようで、敷地のあちこちにプラスチック製のケージなどが散乱していて、かなり乱雑な印象を受けた。子供があそこに迷い込んだら、すぐに迷子になってしまうだろう。


「子供たちが敷地に迷い込んだのは、もう夕方を少し過ぎた頃だったらしいですね。当時の記録を見ましたが、いつも五時までには帰ってくる子供たちが、八時を回っても帰ってこないと、母親から通報が入っています。結局、夜の九時前には捜索願いを出している。十一月でしたから、日が短くて、暗くなるのも早かったでしょう。捜索は夜から翌朝まで続けられましたが、結局子供たちは帰って来なかった」


 八王子署に行ったとき、徳島はこの事件を覚えていた巡査に、偶然会って話を訊くことができた。いなくなった八歳と六歳の兄妹を探して、母親は半狂乱になっていたという。


「翌日の午前十時に、UCフードの敷地内にある冷凍倉庫内で、二人の遺体が発見されたそうですね。川田さん、僕は、当時の新聞記事でこの事件の被害者たちの名前を見たとき、まさに目を疑いましたよ。彼らはあなたのお子さんたち、川田徹君と翔子ちゃんだったんですね」


 徳島の言葉に、川田はまったく反応しなかった。ただ前をまっすぐ見ているだけだった。


「このときUCフードの倉庫管理課に所属していて、しかも子供たちが迷い込んでしまった冷凍倉庫を担当していたのが、宇木田高雄だった。彼はその夜に遅番で勤務していて、帰宅したのは深夜零時近くだったらしいですね」


 徳島は、一度言葉を切って、川田の様子を窺った。表情は変わらなかったが、両手を膝の上に置いて、固く握りしめていた。


「父親に訊いたんですが、宇木田はどうやら警察に嘘を云っていたみたいです。彼は事故が起きた日、帰る前に倉庫内をすべて見回ったと証言したが、しかし実際はまったく見ていなかった。会社はこの事実が発覚するのを恐れたようで、すぐに宇木田を依願退職の形で辞めさせた」


 持っていた手帳を閉じて、徳島は上着のポケットにしまった。


「ねえ、川田さん。確かに宇木田は、あなたのお子さんたちの死に責任があるようだ。しかもその五年後、彼はあなたのすぐ近くで殺された。もし川田さんが、自分の子供の死に宇木田が関係していることを知っていたなら、これは強力な動機になり得ます。もちろんアリバイがありますから、あなたが犯行を行うのは不可能だ。しかし、僕には、どうしてもあなたが宇木田のことを知っていたように思えて仕方がない」


 川田は、握りしめていた両手にさらにぎゅっと力を入れた。いつの間にか目も閉じている。思い出すことを拒絶しているかのようだと、徳島は思った。やがて川田はゆっくりと目を開け、しゃべり始めた。


「ほんの……偶然でした。あの子たちが死んで、しばらく経ってからだったと思います」


 彼女はふっと顔を上げて、徳島を見た。笑っているような、それでいて泣いているような、不思議な表情のように徳島には思えた。


「私がふさぎ込んでいたのを心配した友達が、気晴らしに呑みに行こうって、お酒が飲めるお店に連れて行ってくれたんです。そこで、たまたま宇木田が隣のテーブルで酒を飲んでいた。大勢の柄の悪い友達を引き連れて、自慢話をしていました。彼は、そのときに云ったんです。お前ら、人間の子供が冷凍されるとどうなるか知ってるかって」

「そんな……まさか」

「いえ、確かに云ったんです。子供だって、牛や豚の肉と同じでカチカチになっちまうんだぜ。ちゃんと実験してみたから間違いない。UCフードの倉庫係は俺だったんだからって、私の後ろで大声で云って笑いました。あいつは、知ってたんです。徹と翔子が倉庫のなかにいることを知ってて放置した。いや、実験したんです。あいつは、私の子供たちを面白半分で殺したんだ」


 川田の目から、涙が溢れ出た。彼女はその涙を拭おうともせず、話を続けた。


「八歳の徹は、サッカーが大好きで、悪戯ばかりするやんちゃな子でした。六歳の翔子は、そんな徹兄ちゃんが大好きで、いつもお兄ちゃんの後ろばかりついて回っていた。あんなに……いい子たちだったのに、宇木田は牛や豚の肉と同じようにして殺してしまった」


 徳島は、八王子署で会った巡査から訊いた話を思い出した。冷凍倉庫のなかで発見された男の子の遺体は、シャツ一枚しか着ていなかったそうだ。彼がもともと着ていたジャンパーは、男の子の腕のなかで息絶えていた妹に着せられていた。男の子は、最後まで何とか妹だけでも助けてやりたいと頑張ったのだろう。冷凍倉庫内で兄妹の遺体を見た警察の人間は、誰もがやるせない思いを抱いたそうだ。


「子供たちが亡くなってから、私は何もやる気が起きなくなってしまいました。当時は八王子の児相に勤めていましたが、あれからすぐに休職してしまった。子供たちのこともあって、夫ともうまくいかずにそのまま別れてしまったし」

「相馬由多加と会ったのも、その頃ですか?」


 徳島は、話の核心に触れていると判断して、遂に相馬のことを切り出した。この事件は、相馬と川田が知り合いであったことが重要な意味を持っている。

 川田は、驚いた顔で徳島を見た。


「なぜ……ですか?」

「相馬は、何度か町田児相に来ていたみたいですね。剣崎所長に訊いたんですが、相馬はあなたと話をしているときだけ、とても嬉しそうにしていたそうだ。それでわかったんです。相馬が町田児相に逃げ込んだとき、職員の通用口から侵入していますが、あそこのセキュリティロックを解除するには四桁の暗証番号が必要だったはずだ」


 川田は、ほんちょっとだけ逡巡したようだが、やがて少しだけ首を振って答えた。


「由多加と最初に会ったのは八年ほど前。彼が十五歳の時です。由多加は、小さい頃からずっと父親に虐待を受けていました。私が児相での担当だったんですよ。彼は父親に殺されかけて、母親も夫が怖くて由多加をかばってやれなかった。徳島さん、彼の胸に、鳥のような形をした痣がありませんでしたか」


 徳島は頷いた。


「あれは、由多加の父親がつけたものです。由多加が泣くのが気にいらなくて、ハンダごてでお仕置きをした痕なんですよ。私は、父親とも面談したりして、ときにはずいぶん脅したりもしました。だからでしょうか。由多加は私にはすごく懐いていたんです」

「なるほど、そういうことだったのか。父親は、事故で亡くなったそうですが」

「ええ。おそらく」

「おそらく? それはどういうことです?」

「もしかしたら、事故じゃなかったのかもしれません。母親が優美ちゃんを宿したばかりの頃でした。由多加は、父親を毛嫌いしていましたから、母親をできるだけ父親から遠ざけようとしていました。由多加のお父さんは、マンションの八階から転落死したんですが、警察には事件性無しと判断されました。しかし」

「気になることがあるんですね」

「彼が、私にだけよく云ってましたから。あいつは死んで当然だった。あいつの死で自分は生まれ変わったって。父親が死んだあと、彼は母親と数年暮らしてから、自立して天使の盾に入りましたけど、その間もずっと私との連絡は絶やさなかった」

「では、相馬のお母さんと再婚した田辺克之のことも、相馬から訊いていたんですね」


 徳島の言葉に、川田は頷いた。


「川田さんは、その後に町田の児相で復帰しますよね。そこからのことを訊かせてください」

「以前から面識のあった剣崎所長に誘われたんです。町田に児童相談所が新設されるから、ぜひ来てくれと。子供たちが亡くなってずいぶん経っていましたから、私がずっと落ち込んでいては、彼らにも申し訳ないかもしれないと思って復帰しました。しかし、まさか、あそこで」


 徳島は、川田の心情を思ってやるせなくなった。すべては、宇木田という男が問題だったのだ。


「町田のマンションで男の子が虐待されているという通報が何件かあったので、早速訪問調査を行いました。私が行ったんです。最初に、あのマンションに。そして、ブザーを押して、扉を開けたらあいつがいた。絶対に忘れられないあいつが、いきなり目の前に現れて、笑っていた」


 川田は、そのときのことをまざまざと思い出していたのだろう。胸の前に出していた両手が、ぶるぶると震えていた。


「あの家で、宇木田と一緒に住んでいた守君は、明らかに虐待を受けていました。あの足の骨折も、確実に宇木田の仕業だった。でも守君は、嘘をついてまであの家に残ろうとしていた。きっと、出て行った母親を待ち続ける気だったんでしょう。でも……でも私にはわかっていた。あの男と一緒に暮らしていれば、やがてもっと悲惨なことが必ず起こるって」彼女は、徳島に懇願するような目を向けた。「だって、あいつは私の子供たちをあんなむごいやり方で殺した男なんです! あいつはこれからだって子供を殺す。だから、だから私は」


 徳島は、彼女の目を見据えて云った。


「宇木田高雄を殺したいと、相馬に云った。違いますか?」


 川田は、まるで時間が止まったかのように見えた。徳島は構わず話を続けた。


「相馬にも、同じように殺したい男がいた。母親の再婚相手であり、実の妹である優美を虐待していた男、田辺克之。相馬は、かつて自分の面倒を見てくれたあなたから宇木田高雄への殺意を訊いて、何とかこの二人を殺す方法を考えていたはずだ。そんなときに、相馬の上司である木崎義人が、衝動的に保坂香織を殺してしまうという事件を起こした」


 徳島は、川田の方に躰を向けた。彼女は相変わらずまったく動かなかったが、徳島の言葉は聞こえているようだった。


「木崎の事件を発端に、相馬は計画を思い付いた。そして実行に移した。相馬は、まず保坂武彦を殺し、そのあとで宇木田を殺した。最後に、彼が一番殺したかった田辺克之だが、手記には相馬の指示で木崎が犯行を行ったと書かれている。しかしこれは違う。絶対に間違っている」


 田辺の殺害現場の近くで目撃された木崎の車の映像を、徳島は思い出した。その後、栗橋と他の防犯カメラの映像をあたってみたが、乗っている人間を確認できる映像は発見できなかった。このため、捜査本部は田辺の殺害を木崎の犯行と断定している。


 しかし、徳島は田辺殺害犯は他にいると考えた。相馬には、家族との会食をウェイターが目撃しているという、崩しようのないアリバイがある。そして練馬で目撃されたアルファロメオには、木崎が乗っていたようにはどうにも思えない。だとすると、第三の人間が共犯者として存在するはずなのだ。


「僕はね、川田さん。こう思うんです。子供を虐待していた親が、その虐待と同じ手口で殺される。我々警察も、これは完全に同一犯によるものだと考えていた。だからあなたは、宇木田殺害時のアリバイが証明された時点で、この事件の捜査線上から消えた」


 川田の横顔を見つめて、徳島は話を続けた。


「田辺克之が練馬で殺されたときは、その直後に相馬が現場に現れています。これも、自分のアリバイを強調して一連の犯行が自分ではないことを印象づけるためだった」


 川田はゆっくりと振り返って、徳島を見た。泣いてはいない。しかしどこまでも深い憂いを湛えた、哀しそうな目だと思った。


「川田さんと宇木田、相馬と田辺。両方とも動機があるのにアリバイは完璧だ。いや、驚くほど完璧すぎる。そう、最初の質問ですが、何故あの日だったのかは、ちょっと考えればすぐにわかりましたよ。宇木田の休日が水曜日だったからです。児相で宇木田の担当だったあなたは、当然そのことを知っていた。水曜の夜でないと、宇木田は家にいなかったわけだ。だからあなたはわざわざ水曜の夜に、お姉さんの家に行った。そこで確かなアリバイを作って捜査線上から消え、次の田辺殺害に備えるために」


 川田はゆっくりと両手に顔をうずめた。小さな肩がかすかに震えている。徳島は、小さく、しかし決然と彼女に云った。


「川田さん、相馬の共犯者は、あなたですね?」


 彼女は、ゆっくりと徳島を見た。まるでスローモーションで映画を観ているような、そんな錯覚を徳島は覚えた。川田は、一度だけ大きなため息をついた。それは、不思議と安堵のため息のようにも思えた。


 徳島は、田辺の殺害現場で初老の監察医の云った言葉に、ずっと引っかかっていたのだ。彼は、傷が浅いと云っていた。それは、ためらい傷であったかもしれないが、そもそも女が犯人だったから、深く刺さらなかったというわけである。


「相馬が宇木田を殺し、田辺はあなたが殺す。手口と手順はまったく同じにして同一犯を装い、互いのアリバイを強調する。相馬は、非常に巧妙な交換殺人を計画したわけですね」

「確かに……互いの殺したい相手を交換しようと云ってきたのは、由多加からでした。しかし……私が、宇木田への殺意を彼に見せてしまったのが良くなかったのかもしれません」

「どういうことです?」

「私は、こう云ったんです。子供を殺すやつは、同じ方法で殺されればいい。そうすれば、他の虐待をしている親も自分が殺されると思って怖がるかもしれないって。由多加は、その言葉を自分の殺意に利用してしまったのかもしれない。私が田辺克之を殺したとき」


 川田はそのときのことを思い出したようだった。また、少しだけ肩を震わせている。


「直後に由多加が云ったんです。これで僕たちの目的は果たしたけれど、苦しんでいる子供はまだまだたくさんいる。誰かが、同じことを続けなければならないって」


 川田は窓の外に目をやった。車は、木更津の海岸線に面した道に停車している。遠くで海が光っていた。


「由多加は、本当に我慢ができなかったんだと思います。愛のない大人たちを、彼はどうしても許すことができなかった。自分のような目に、子供たちを遭わせたくなかった。由多加は、とても良い子でしたから」


 彼女は、静かに涙を流していた。それは、殺人を犯してしまった我が身のために流しているものではないと、徳島にはわかっていた。かつて亡くなってしまった二人の子供たち、そして彼女を慕い、遂には人殺しまで行って死んでいった一人の若者のために、いまこうして彼女は泣いているのだ。


 頬を涙で濡らした川田の横顔を見て、徳島は、町田児童相談所の中庭にある女神の像を思い出した。

 悩みを抱えて児童相談所を訪れる者すべてに、神のご加護と安らぎを与える白い女神像。あれが何の像か、徳島は知らない。しかし、川田美恵の涙には、あの女神から放出されているような、静謐で、柔らかな安らぎを徳島に感じさせた。


 徳島は、助手席の窓の向こうに広がる静かな海を眺めてから、シフトをドライブに入れ、ゆっくりと車を発進させた。

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