彼が眠る棺の前で、

八巻 タカ

彼が眠る棺の前で、


「ねえ、お母さん」

 

 十二歳になった少女は、ある日、母に尋ねた。

 少女の頭を撫でながら、母は首をかしげて、彼女をみる。

 

「ん? なに?」


「お父さんって、どんな人だった?」


「ああ、お父さんはね、優しい人だったよ。可愛い顔もしてた」


「ふぅん」

 

 少女は頷いて、この間見た父親の写真を思い出す。あれは、可愛いのだろうか。よく分からない。

 すると、母は笑みを浮かべて、再び口を開く。


 

 ――でもね、あの人は……。


 

 そんな母の表情は、なんだか少女の名前に似合いそうだった。



     * * * * * * *



 俺は、偽善者でいいよ。

 放課後。教室の片隅。オレンジの日差しと揺れるカーテン。君は優しいね、という私の言葉に対して、彼はいつも通りの口癖で答えた。


 またか、と呆れる意として私は溜め息を吐いて、それから眉を潜めて、でもやっぱり微笑む。

 

「君は、変わらないんだね」

 

 私がそう口にすると、彼――師尾は、これまたいつものように、自身の名前に似合わないどこか怠そうな顔をした。

 

「人なんて、そんな簡単に変わりやしないよ。右京」

 

 確かに、と頷いた私は続けて問いた。

 

「それで、どうして君は偽善者なの?」

 

 すると彼は、自身の髪に隠れた耳のピアスに触れながら私と目を合わせ、口を開く。

 

「人ってのはどうしようもなく、いつだって誰だって偽善者だから」


「どういうこと?」


「何か良いことをしようとした時、大概の人は結局、その後の報いを求めたり自己満足したりする。そうじゃない人もいるかもしれないけど、そもそも『情けは人の為ならず』なんて言葉があるくらいなんだから、いつかの自分への得を欲しているものだろうよ」

 

 だから、俺は偽善者なんだよ。

 

「理由があまりに強引だね」

 

 無理矢理というか屁理屈らしくて、それはどうだろうかと私は首を傾げる。

 

「なんだか偽善の意味がわからなくなってきたところなんだけど……。でも、もし仮に君の理論なら、偽善者は君に限ったことじゃないでしょ? 私含めて皆が偽善者じゃない?」


 私の疑問に対して、彼は難しそうな顔を浮かべる。


「だとしても、その人が認めないうちに偽善だと決めつけるのはちょっと可哀想だからさ」


「君は自分を偽善だと認めているってこと?」


「そういうことかな」


 彼の言っていることが半分も理解できなかったけれど、しかたないので無理にでも納得することにした。


     *


 ある週末。散髪をした後に、私こと椿つばき右京うきょうは、師尾の家である商店街の花屋によることにした。ここには彼と彼のお姉さんが暮らしている。しかし、その日彼は出掛けていたみたいで、代わりに姉のひかりさんが私を見つけて微笑んだ。

 

「あら、右京ちゃん、いらっしゃい。今日あいつどっか行っちゃっててさ、今家にいないのよ」


「そうなんですか。それじゃあ帰ります」

 

 では、と踵を返す私を「あ、右京ちゃん右京ちゃん」と光さんは呼び止める。

 

「ちょっとお喋りしていかない?」

 

 そう提案され、私は少し考える。色んな花の香りが私の鼻腔を刺激する。花の匂いはあまり得意ではない私。それでも光さんと話をするのは好きなので、少しだけここに居ることにした。

 

「今日はお客さんがあまり来ないの」

 

 店の前の看板を「営業中」から「準備中」にひっくり返すと、光さんはカウンターの横に椅子を出した。私はそこに座り、カウンターに寄り掛かるようにしている光さんは、煙草を取り出して一本くわえると、ライターでそれに火をつける。私がここに来たせいで店を閉めてしまったみたいで、なんだか少し申し訳ない。


 まあでも、呼び止めたのは光さんだし、と考え改めてから私は自分のまわりを見回してみる。


 あの花は知ってる。あれは知らない。あ、綺麗、かわいくない、何かおもろい。目に映った花たちに、頭の中で色々感想を述べてみて、終えてから少しの間暇になる。


 光さんが煙を吐き出したのを見て、ここで煙草は吸っていいのだろうかと疑問に思ったが、きっと大したことではないのだろうと判断した私は、そんなことを口にはしなかった。私にとっては、花の香りより煙草の匂いの方がましかもしれない。


 閉口した私の代わりに、一服した光さんが口を開く。

 

「最近、あの子どう? 相変わらず変?」


「まだ、『俺は偽善者』らしいです」


「あららー。変な具合に中二病こじらせちゃったかな」


「まったくです」


「もう、高二だっていうのにね」

 

 冗談らしく言う彼女は、どこか悲しそうだった。


 そこから数秒の沈黙が続いて、やっぱり私は気まずかった。そこに残るのは私の苦手な花たちの香りと嗅ぎ慣れた煙たい空気だけで、はやくこの静寂を終わらせたかったけれど、私から口を開くのはどうしてか失礼な気がして、そのまま口を結んだ。そんな私に気付いたのかどうかは知らないけれど、先に口を開けたのは光さんだった。

 

「右京ちゃんは、弟のこと好き?」

 

 そんな質問をされて、私も口を開く。

 

「好きです」


「それは、人として? 男として?」


「もちろん、どちらもです」


「ふーん。……そっかー」

 

 へぇ、と呟く彼女は、再び煙草を口にして視線を明後日の方に向ける。それからはまた、お互いの無言が続いてしまう。商店街は僅かながらにも喧しいはずなのに、この店の中だけは閑静とした空気が漂っている。それと花の匂い。


 今度は私から口を開こうとしたけれど、やっぱり光さんが先だった。

 

「わたしたちの母親のこと、あいつから聞いた?」

 

 師尾家は前は母子家庭だったらしいのだが、今は二人暮しである。尋ねられ、私は首を横に振る。

 

「いえ、聞いてないです」


「そっか。……いろいろ聞きたい?」


「まあ、話していただけるなら」


「素直だねぇ、右京ちゃんは」

 

 乾いたように笑った光さんは、まだ残っている煙草を灰皿に押し付けた。

 

「わたしらのお母さんね、四年前に死んじゃったのよ。首吊り自殺。丁度、ここの上の部屋でね」

 

 光さんは人差し指を上へ向けて言った。


 はあ、そうなんですか、とひとまず頷いてみる私。なんとも重たい話を切り出されて、私はこの場合に適した言葉を見つけられない。


 家を出て蒸発しただとか、事故や病気で亡くなっただとかを想定していたが、事実はもっと悲しかった。その証拠に、私はついに黙り混んでしまう。そんな私をさておき、光さんは続ける。

 

「私の就職が決まって、弟も中学に上がって、もう自分の役割を終えたとでも思ったのかなぁ。本当に、いい迷惑だったよ。お母さん頑張ってたの知ってるけどさ、私だってやりたいことあったのにこの様よ。売れない花屋のカウンターでお喋りするだけ」

 

 あーあ、彼氏ほしいなー、と彼女は誰に言うわけでもなくそう呟いていた。でも光さんは美人なので、きっといい男性が見つかると私は思っている。

 

「それから………?」

 

 と私は続きを催促する。話は一度終わったようにも思えたけれど、肝心の本題を私は聞いてはいない。光さんもその意を摘み取ったのか、ふっと笑って目を伏せた。

 

「この後のは、わたしが話すことじゃないかもね」

 

 彼女はそう口にすると、私に――ではなく、私の後ろの方に目を向けて言った。

 

「おかえり」

 

 と光さんが声を掛けた方に、私は振り替える。


 やっぱり、彼だった。

 

「ただいま」

 

 そう声にした師尾はどこか不機嫌そうで、それもやはり名前には似合わない表情だった。

 

     *


 日はもう暮れていた。乾いた防波堤がなんだか落ち着く。でも波の音がややうるさい。何か話をするのにはもう少し静かな場所が良かったかもしれない。そんな風に私が思っていると、隣にいた彼は小さく声を漏らした。

 

「さっき、ここに来てたんだ」

 

 そうなんだ、と私は頷く。


 それから彼は私に向けて、

 

「髪、切ったんだね」


「うん、だいぶばっさりと。……前の方が良かった?」


「いや? セミロング似合ってる。可愛い」

 

 そんなシンプルな感想が、とても嬉しかった。なんだか照れる。

 

「ありがとう」

 

 私が礼を告げた後の数分間は、他愛もない話が続いた。彼が昨日見たアニメの話をして、私がネットで見つけた都市伝説の話をして、彼が下ネタを言って、私があの子は嫌いだと愚痴をこぼした。


 コロコロと変わる話題の後に、彼が言った。

 

「姉ちゃんから聞いた?」

 

 その問いに私は首を振る。

 

「君のお母さんが自殺したことしか聞いてないよ」


「それだけ聞いたら十分だと思うんだけどな。正直、そこからはあんまり話したくない」


「だめ。ちゃんと話してほしい。そうじゃないと君とはやってられない」

 

 ずっと海の水面に目を向けていた彼も、私に視線をずらして目を丸くした。いつもより強気しいな私に驚いたのかもしれない。その後、前髪をいじりながら彼は溜め息を吐いた。

 

「……わかったよ。それじゃあ。話してもいいけど、二つだけ俺のお願い聞いて」


「いいよ、何?」


「話した後、俺のこと引かないでね」


「多分、大丈夫だと思う」

 

 いまさら何を言われたところで彼を非難するつもりはない。一度大切にしたものを簡単には手離せないのは、当然のことなのだから。それから私は首を傾ける。

 

「それで、二つ目は?」


「うん」


「うん?」


「……うん」


「なに? はやく言って」

 

 いまいち歯切れの悪そうな彼に私が急かすようにすると、彼は膝に肘をつけて頬杖をつく。そして困ったような、照れたような、前に初めて手を繋いだときに見せたのに似た表情を浮かべて、彼はゆっくり口を開いた。

 

「今日さ、右京、うちに泊まってよ」

 

 と、彼は言った。私はその意味をちょっと考えて、


 ――ああ、なるほどそういうことか。


 私は頷く。

 

「いいよ。……するの?」


「……やりたい」


「わかった。じゃあ帰りに薬局寄ろう」


「いや、家にあるから……」


「ああ、そうなの」


 あっさりと承諾してしまったが、やはり恥ずかしさが心を撫でる。なるべく平然を装うことに集中することにした。


「ていうか右京、やっぱ無しとか無しね。……約束」


 そう言って師尾は、小指だけを立てた右手をこちらに向ける。その行動も少し可愛いげがあって、私も若干ながら口元が笑みの形に緩んだ。


「はい、約束。これでいい」

 

 と私は彼の手の小指に、自分の小指を、二秒くらい絡ませてみた。こんな気休め程度で、ポーズだけの行為がどこまで効果があるのかはわからないけれど、彼に対してならしっかりとした契約みたいにもなってくれそうだった。証拠として、「うん」と師尾も素直に頷く。


 話している間、彼はずっと瞳を隠すように前髪を撫でていた。暗くて良くは確認出来ないけど、恥ずかしがっているのだろう彼は、きっと頬を赤く染めていそうだ。そんな様子がなんだか可笑しく、私はつい吹き出して笑みをこぼしてしまう。


 それにしても、これから重たい話をするには私たちの周りの空気は軽すぎやしないだろうか、と少し考える。原因としては、先ほど挟んだ今夜の話。

 

「帰ってから話す?」

 

 と私は言ってコンクリートに手を着くと、彼は私の腕を掴み押さえて、そこにとどまらせた。

 

「いや、ここで話すよ」

 

 彼は答えて、波の方に目をやる。やっぱり今日の海はどこか荒れているようで音も騒がしい。私は家で話が聞きたいと思ったが彼がここで話すというのだから、それなら私もここで彼の言葉に耳を傾けてみることにした。


 うん、と私は頷いて、彼の肩に頭をのせる。師尾はゆっくりと話し始めた。

 

「俺さ、昔、ここで自殺しようとしたんだ」

 

 冷えた声で紡がれたその言葉は、私の中にひんやりと入り込んできた。


 いきなりの彼の台詞に、つい動揺してしまう。


 それと共に、耳障りだった波の音が嘘みたいに聴こえなくなって、だんだんとどうしようもなく私は悲しくなった。


 彼はひとつ、息を吐く。

 

「……母さんが死んだ次の日にさ、ここで……ここから、飛び降りてみた」

 

 いつもと大して変わらない声音で彼は言うが、話の内容とこの場の空気によって、彼の話が大分重たく感じられた。いや、実際そうなのだ。だから私の心は沈んでいくのだ。私が俯いて黙っているので、彼は私の頭を優しく撫でてくる。


 ほら、優しい。師尾は全く偽善者ではない。

 

「そうなんだ」

 

 ようやく口がいた私は言った。

 

「でも、君は死ねなかったんだね」


「まあ運良く……いや、運悪くかな。死ねなかったし」

 

 そうだね。私は彼の言葉に答えながらも、自殺現場になることを拒否したここらの海と、彼を見つけてくれた人に対して心の中で感謝をする。もし生きていなければ、私の人生初の彼氏は師尾ではなかったのだから。

 彼は続ける。

 

「すぐに浜辺に打ち上げられてたらみたいで、そこから三日間寝込んだらしいよ。その内で、二回くらいは母さんに会った気がする。それで毎回、追い返されたんだな、きっと」

 

 私は彼の顔を見てみた。なんとも割り切り良く彼は話していたが、当然だろうか彼は笑ってはいなかった。髪が伸びているから上手く表情を見れないけれど、口もとは出ているので笑顔じゃないことは分かる。


 また、波の音が聴こえる。


 なんだろう。やっぱ、うるさいな。


 うるさいのが嫌で、私は彼の肩に身体をより寄せる。今は、私達の――二人だけの声が、存在が、それだけがあればそれでいいのに。どうして、こんなにも溶け込んでしまうのだろう。このままだと、彼が苦しい。


 私だって、苦しい。


 我慢しきれずに、私はついに口を開いた。

 

「なんで、君は死のうとしたの」

 

 ああ、うるさい……。叩きつけられるような、奇妙な存在感のあるその音が、ひどく耳に障る。いや、もっと別な場所で波が打っている感じもする。


 ――消えてしまいそうだ。


 不意に隣の彼の姿を確認してみる。ちゃんと目に映ったその存在を確認して、私はほっとした。その安心からか瞳に涙が浮かんできたので、彼にばれないようにそっと涙を拭った。


 次に数秒の沈黙を彼が破る。

 

「あんまり、面白い話じゃないんだけど………聞く?」

 

 彼は私の頭を撫でてくれながら私に問う。私はこくり、と声もなく頷く。

 

「………俺さ、多分、母さんに無理させてたんだよ」

 

 彼はそう話し出した。

 

 ずっと、俺は子供だったからさ。ただ学校行って、ただ遊んで、ただ寝て、それでまた起きる。そんなんでも、思い至ったみたいに、たまに店の手伝いしたり、たまに買い物行ったり、たまに晩ご飯の仕度手伝ったり、風呂の掃除したり。


 それが、何になったっていうんだろうね。

 そんなことで母さんが楽になるなんて、無かったよ。毎日やるならまだしも、ふと気付いた時にちょっとやって、それで終わり。きっと、それだけで俺は満足したように笑ってたのかもしれない。母さんも、その度にほめてくれたし。


 でも、そんなのは恥だったんだ。


 勝手な自己満足だった。


 母さんが死んだ時に、そう思わされたよ。

 多分、姉ちゃんは辛いところ知ってたんだろうけど、俺は知らん顔で普通に過ごしてた。家族なのに、何にも分からなかった。

 

「そんな感じで、多分……自己嫌悪みたいなやつ。取り敢えず、自分で自分のことめちゃくちゃ責めまくって。それで、それも辛くなってきたから……」

 

 ――ここから、飛び降りてみた。


 そういうことだろうか。馬鹿馬鹿しいなと僅かに思った。が、私は彼の立場に立ったことがないから、本当に馬鹿なのかどうなのかは微妙だとも思った。

 

「ねえ右京」


 私を撫でる彼の手が止まる。


「自覚のある罪と、無自覚の罪って、どっちが重いんだろう」

 

 その問いを、私は答えたくなかった。どうせ、答えも出ないだろうし。


 私は素直に首を振ってみせた。

 

「知らない」

 

 優しく答えたかったはずなのに、私の言葉は、ちょっと音が荒かった。

 

 

     *

 

 

 朝起きてから間も無く、私は師尾家を後にして自分の家に帰宅した。


 昨日の夜、私は泣いた。


 それは、彼の話が悲しかったからでもあるし、初めてが痛かったからでもあって、彼の命を感じたことが嬉しくなくもなかったからだろう。だから多分、泣いた。


 たくさんの感情に囲まれながら、私は涙を流したのだろう。その選択は間違いなのか、よく分からない。


 でも昨日、師尾が私の新しい髪型をほめてくれた。だから少しだけ私は機嫌が良い。髪の長い彼は私がショートカットにすると嫌がるだろうから、セミロングにしてみたのは正解だった。


 その次の日、学校に行くと師尾もいた。すごく当然なのだけど、やっぱり嬉しい。同じクラスの私たちは軽く挨拶を済ませて、それぞれの席についた。その際に彼は恥ずかしがるように頬を染めていた。有力な原因としては、多分一昨日の夜。私はそれほどでもない。


 自席から、少し離れて斜め前の方の彼を、後ろから眺めながら自分の髪の毛を弄ぶ。どうやら私はこのヘアスタイルが気に入ったらしい。彼にほめられたからだろうか。


 そういえば、師尾と初めて出会った時もこのくらいの長さだったか。


 そう思い出して、私はひとつずつ、彼の優しさを思い出す。


 彼はいつも、優しかった。


 入学式の日、私たちは同じ電車に乗っていた。まだお互いに面識もない頃だ。その日は珍しく混んでいて、座席は全部埋まっている。丁度、一人のお年寄りが乗り込んできた。


 そして師尾は、当然のように席を譲っていた。


 ある日の放課後、私以外の掃除当番が先に帰ってしまった。一人で教室を掃除していると、師尾はやってきた。一人でどうしたのかと尋ねられ、私は事情を説明した。


 すると師尾は、当然のように掃除を手伝ってくれたのだ。


 文化祭の買い出しを二人で行ったときには、友達とはしゃいでいた子供が商品棚にぶつかって、品を落としてしまった。その子はやってしまったと思ったのか、慌てた様子で友達と一緒にその場から去っていった。


 それから師尾の方は、当たり前のように散らかった商品たちを、もとの場所に直していった。


 捨てられた猫がいれば、抱き上げる。


 具合の悪い人がいれば、介抱をする。


 筆箱を忘れた人がいれば、筆記用具を貸してあげる。


 雨に濡れている子がいれば、傘を渡してあげる。


 寒そうにしていれば、自分の上着を羽織らせてくれるし、自販機で十円が足りないときは、黙って硬貨を差し出してくる。


 困っている人には、不器用に手を差し伸べる。


 そんな小さな優しさを、当たり前を、善良を、必死になって作り上げている。


「君は優しいね」


 初めて私がそう尋ねたとき、彼はゆっくりと首を振った。


「多分、優しい、ていうのとは違うと思う。俺はさ、多分そんなことしなくても幸せは貰えると思うんだ」


「うん」


「でも、納得がいかないんだよ。自分が楽をしている分、誰かが辛い目にあうことを考えると、すげー怖い」


「うん」


「だから……」


「うん」


 何秒か沈黙して、師尾は言った。


「だから、俺は偽善者なんだよ」


 私は疑問符を浮かべる。


「着地点がおかしい」


 私の指摘に、彼は答える。


「俺、説明が下手なんだよ。勘弁してね」


 名前に似合いそうな、そんな表情で。



     * * *



 高校を卒業してから一週間がたったある日。






 

 

 

 





 師尾もろお笑太しょうたは死んだ。


 車と衝突した交通事故だった。


 道路に飛び出した、四歳の女の子の命と引き換えに、彼は死んだ。


 その唐突に起きた出来事に、私はもちろん、光さんも泣いていた。彼女の泣き顔を見るのは初めてで、その姿が余計に悲しくさせる。


 彼は最後の最後まで、善人ぶった行動をとっていたけれど、それは本当に善良だろうか。


 いつもそうだ。


 年寄りに席を譲ったときも、彼は松葉杖をついていた。


 掃除を手伝ってくれたときも、彼は風邪を引いていた。


 子供を叱ることもしない。


 猫を抱えてもくしゃみをするし目を擦る。


 シャープペンだって、傘だって、彼は一つしか持っていない。


 十円が足りなくてジュースも買えなかった。


 四歳の少女を救った日は、私の誕生日だった。


 いつも、彼は勝手だ。


 自己満足だらけで、他人のことを考えない。彼が辛い思いをすることが、他人の不幸であることを知らない。


 いくら良い行いをしたところで、自身が幸せでなければ意味がない。善いことをして、それでも幸せになれていないのなら、彼はきっと偽善者だ。


 自分が悲しみ、私を悲しませた。


 私の腹に宿った命は、この先ずっと、生きた父親の顔をみることも無くなってしまった。


 そんな罪を犯した彼は、善人なんかではないだろう。


 葬式の日。


 彼が眠る棺の前で、私は言う。



 ――君は、偽善者だよ。




 



     * * * * * * * * *



 

 

 

 

 


 ――ねえ、お母さん。

 

 

 ん? なに?

 

 ――お父さんって、どんな人だった?

 

 ああ、お父さんはね優しい人だったよ。可愛い顔もしてた。

 

 ――ふぅん。

 

 

 でもね、あの人は……。





 

 

 

 

 

 

 

 笑顔が苦手な人だったよ。


 

 

 

 

 

 

 

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彼が眠る棺の前で、 八巻 タカ @yamakitaka5

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