僕は苦しいです

第3話 異世界


「じゃあみんな、隣の人と手を繋いで輪になってくれ」

田中の指示で円をつくった。中央には小さな篝火、その上には薬品の入った白いケトルが置かれている。

「みんな、準備はいいか」

お互いに目を合わせる。もう覚悟は決まっている。


「いくぞ!」


田中はバルブを回し蒸気を噴出させた。部屋に蒸気が満ち溢れる。例の化学薬品だ。私は目をつぶった。息ができない。苦しい。世界がぐるぐる回って見える。とても具合が悪い。吐きそうだ。まるで憂鬱な日々から抜け出そうと書店で購入したハーバード流何とかとかいう自己啓発ビジネス本に触発されて何を勘違いしたのかやる気を出してしまった青年が、次の日の朝にどうにもならない職場環境と上司の稚拙さに気づいてしまって「ああ、俺はハーバードとは違うんだ・・・」と3000円もした本をゴミ同然扱いにする時のように、私はさっきまでの覚悟を忘れ、消えゆく意識の中で後悔する。ちきしょう。異世界漂流なんてやるんじゃなかった。田中とかいう頭のおかしい人間に、よくわからん怪しげな蒸気を飲まされ、しかもその挙句、ワクワクドキドキ!夢と冒険のネバーランドにいくんだって?嫌だ、もういやだ!私はゲホゲホ言いながら涙を流した。同時に肌の感触がなくなってきた。もうドラッグはいやだ、もうドラッグはいやだ。頼む。私をここから出してくれ。誰でもいい、おい鈴木、お前何か顔色悪いぞ。2人でここから出よう、そして二度と異世界漂流なんてやらないって誓おう。な、鈴木。


「は?この程度でなにいってんの?このまま異世界にきまってんじゃん?」


ああ、鈴木よ、お前はきっと頭がおかしいのだね。それともおかしいのはその顔だろうか?わからない。わからない。なにもわからない。回転速度がどんどん加速している。コマの上にいるみたいだ。ああ、具合悪い、具合悪いぞ。ここはどこだ?うんこ道の中か?うんこ道はきっとおいしいに違いない。ああ、お母さん。


意識が完全に消滅しかけたとき、私は浮遊するのを感じた。



***


そういえばずっと前にも同じことがあったぞ。確かあれは私の母親がスマートドラッグとかいう外国から輸入した精神安定剤を無理やり飲ませようとしたときだった。スマートになるのよ、スマートになるのよ、母親はいつもそういっていた。スマートだって?私は思った。スマートになって良いことなんてあるのか?誰かがスマートになったところでバカが増えるだけだろう。なぜならスマートがやらなきゃいけないのはバカな人間がバカのままで生きていられるようにすることだから。そのためにわざわざ好きでもないスマートドラッグを飲んで、アホ共が遊んでいる間に学校の図書館で退屈な記憶処理に耐え続けなけりゃいけないんだ。アホらしい。結局アホな奴が一番得しているじゃないか。


私はスマートドラッグが嫌いだ。理知の覚醒はダムの瓦解ではないのだ。感情に身を任せ一時の理知の暴走を獲得したとしても、その先にあるものはスマートではなくウンコだ。私の頭が良いだって?とんでもない、私はスマートドラッグで暴走しているだけだ。いいとこの坊ちゃんを特権階級にねじ込めようとする教育エセインテリ中年ババアが、質より量の低能思考で朝食、昼食、3時のデザート、夕食、夜食、その他、なんでもかんでもスマートドラッグを潜ませててめえのあからさまな作り笑顔で幼子の良心を無碍に狂わせただけだ。だってそうだろう。誰がすき好んでこんな精神状態になると思う?


そうだ、すべてはこのスマートドラッグのせいなのだ。


こいつが私を、雲一つない蒼天の海を悠々自適に駆け巡るあの黄金のヒバリから、檻の中で呆けたご主人様の名前を壊れた録音機みたいにぴーちくぱーちくにゃんにゃんほざく哀れなインコに変えてしまったのだ。檻の中から張り上げられるありとあらゆる感情の叫びも、外には心地よいポップソングくらいにしか聞こえまい。音楽とはそういうものだ。私は思った。しかしそれでも檻の中のニワトリは、暁天の空が明けると共に、己が身まさにここにあり、我、九天に輝くヘリオースの一つ子なり、とでも言わんばかりに、バカな連中がいまだに信じてる「考えるな、感じろ」を、毎朝毎朝よく意味も考えずのうのうとほざいているのだった。


そのニワトリは、きっとこんなことを考えていたんだろう。「自由という名の地図を片手に、運命という磁石で作られたコンパスを従え、世のしがらみなどどこ吹く風と受け流す、遠い世界の海賊船長にでもなれたらどんなにいいだろう。望遠鏡が見通す先はきっと理想の世界に違いない。進路の先には島が見えるぞ。あれこそまさにユートピアなんだ」ってね。


だけどそのニワトリがどうしても気づけなかったのは、自分が望遠鏡をのぞいてただけだってこと、自分がスマートドラッグを何百個と飲んでるのを忘れていたってことなんだ。彼が見ていたものは幻影?それは望遠鏡から目を離さないとわからない。わからないのに知るのが怖くて目を外さない。たとえそれが身を滅ぼすことになったとしても。


ところで同じドラッグでも、人を理性の檻から解放する薬もあるらしい。


1960年代、かつて世界はヒッピームーブメントに巻き込まれた。彼らはクスリの力を借りて大空を翔るヒバリの遊泳を夢想したのだ。彼らは自由だった。しかし檻の中の自由だった。科学が生んだ現代の奇跡。それは自分が「自由であると錯覚できる喜び」を享受できることだったのだ。なるほど奴らはとんだバカだ。しかしシェリーの一節にこう書かれている。


  Yet, if we could scorn

  Hate and pride and fear,

  If we were things born

  Not to shed a tear,

  I know not how thy joy we ever should come near.


  (我ら人を蔑み、

   憎悪、奢りと恐怖を与え

   生来、その涙の流るるにあらざれば

   汝の喜びに我は近づくを知らず) 

         

            "To a Skylark"  by Percy Bysshe Shelley



人間にとって自由であるほどこの上ない喜びはない。しかし自由なんてものは今じゃどこにも存在しない。人はサルではなく「人間」だからだ。この世の不幸を背負い込む宿命に自ら飛び込んでしまったからだ。その檻とは?もちろんてめえの頭にいっつもプカプカ浮かばせてるケツ毛みてえなシワの生えたカビ臭い脳みそに決まってんだろ。「知性」という名の刑務所の「倫理」という名の監獄に「原罪」とやらの罪で自首してきたバカが人間だ。そのまぬけがくせえ檻の中に入っててめえで鍵を閉めるってんだからもっとバカだ。そしてその救いようのないバカは涙ながらにこう叫ぶ。「ああ、私が自由の身だったら!あの鳥のように空を飛ぶことができたら!」


その時彼の手には1つのドロップ缶が握られていたらしい。手にとって開けてみるといくつかカプセルが入っていたそうだ。そのカプセルには「自由になれるクスリ」って書いてあるんだって。飲みたいかい?大丈夫、みんなそれを飲んでるからこんな異世界ファンタジー小説なんて見たがるんだろ。そうしてありもしない世界に自分を泳がせてるってわけだな。


だけどそうすることで、救われる人生もあるってことさ。現実を受け入れるには私たちはあまりにも若く、脆すぎる。誰も君を受け入れてくれないから、君を受け入れてくれる世界を夢想するのだろう?君はもう一人じゃないって言ってもらいたくて、居場所のなくなったきみは異世界に住処を探しにいくんだろう?


私は思った。私がヒバリになれないのは、私が人間だからなのだ。人間の宿命、それは理知に従い行動するということだ。理知を捨てたとき、人は認識の檻から解き放たれる。それがドラッグではなかったのか?実際ヒバリは自由ではない。我が国の鳥獣保護法によれば、ヒバリの森は役所が管轄する鳥獣保護区において管理される。人間が動物を支配するためだ。ヒバリが自由だと?あの鳥に自由なんてものはない。人間の檻の中で飛んでいるだけだ。だがワーズワースが認めるように「地上を避ける(despise the earth )」ヒバリは少なくとも人の意の埒外なのだ。なぜかって?あのポッポちゃんはドラッグでキメなくても頭が狂ってるみたいだから。


だが洞窟の中において、現実と空虚にいったいなんの相違があろうか?私は確かに影を見ていたのだ。プラトンのアレゴリー(洞窟の比喩)は現実主義者にとって安っぽい陳腐な夢想に終わるかもしれないが、私にとってはちがう。私は影を「見ている側」なのだ。「見ている側」においてそれが何かの感情を沸き起こさせるものであるならば、それが空虚であれ実であれ何の相違もない。精神狂気に身を置く7人のトラベラーにとって、異世界が本当にあるかどうかなんて関係ないだろう?なぜってともかく私たちは異世界を目を向けているのだから。


だが、ああ、私は今、ようやく人間の生きる意味が分かった。つまり、気狂いになることだったのだ。人間は狂うべきなのだ。自由とは、子供に戻ることだ。子供の頃に他人の評価が気になったか?他人が劣っているとか誰かに嫉妬するとか、そんなことがあったか?君のあらゆるものに対する讃美歌を君は恥ずかしいと思ったのか?いまだにそうでない連中に恰好の名前がある。マザコンの「クソ野郎」だ。しかし、クソ野郎で何が悪いのか?他人に囚われないから自由ではないのか?


「ヒバリよ!」私は叫んだ「あの羽音が聞こえるか!自由の鳥は夜明けの街のカテドラルを旋回するだろう!あの尖塔に跪くは、天を仰ぎ、わが身に錯誤をもたらさんがため!無意味だと?空虚だと?それがどうしたというのだ!人間の歴史は山よりも低く、海よりも浅い。然るに汝らは自分が生物の中で一番だと思っている傲慢なハエだ。ああ、スマートな小バエたちよ!檻の中で狭く細々と生きるがいい!愚かしくも勇敢な錯誤の内のドンキホーテを嗤うがいい!そしてゴミみたいな冴えない生活を賤しく正当化するがいい!私は異世界に飛ぶぞ。あの羽音が聞こえるか!」




***


私は真っ白な世界の中で何度も何度も自分を見つめなおした。だがそうした熱烈な自己独白に陶酔する渦中、自分がおかしくなっていたのに気がついたのはいつごろだろうか。肌に冷気を感じる。わずかに質量を伴いながら、それでいて肌に触れたその瞬間するりと身を離れていく。これは風だ。どこからの風だろう。まて、股間がうすら寒い。下だ。ケツから天井にかけてこの風は吹きかけているのだ。しかし、なぜ?ここは下水道のはずだ。田中の悪い冗談だろうか?股間扇風機とは洒落たジョークじゃないか。いや冗談では済まされないぞ。股間がどんどん寒くなってくる。風が強まった。股間がすごい剣幕で吹き荒れる。


耐え切れず私は天井を見た。なんてことだ、天井がないのだ。代わりに霧ばかりがある。霧が部屋に充満しているのか?だから天井が見えないのだろう。私は安心して股間を見た。だがこの時私は今世に生を受けて以来最も深刻な恐怖を覚えた。股間の間から空が見えるではないか!私はわずかばかり尿を漏らした。厳密には空と地平と草原が見える。私は下水道の中にいたのではない。落下していたのだ。その状況に即座に気がつけなかったのは、やはり生来の妄想癖が原因か、永遠にも及ぶと思われた私の独白は、股間から見えた新世界の曙光によって解放されたのだ。


「これが、異世界なのか・・・?!」



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