オ・ペ・ラ

那由多

オ・ペ・ラ

 今度の連休にはどこかに旅行しよう。恋人の郁美とそんな話を確かにした。

 そして、今年のGWは上手い具合に土日との連携を見せ、五連休となった。

「有休、たくさん残っているよね?」

 五連休あればどこへでも行ける。そんな事を考えていた僕に郁美が尋ねる。

「ま、まあ残っているけど……」

「例えばさ、一、二と休めば九連休になるよね?」

 おいおい待て待て。何考えているんだ? 確かに法律的には問題ない。けど、職場の空気感的にどうなのかな、それは。

「私ね、どうしても行きたいところがあるの」

 そう言って、郁美は俺に一歩寄る。そうする事で、必然的に上目遣いの郁美さんがすぐ近くに来るわけだ。これがとてつもなく可愛いのだから困ったものだ。

「……どこかな?」

「イタリア」

 ボンジョルノ!?

「なんで急にイタリア?」

「オペラが見たいの。イタリアで」

 いったいどこの局だ、郁美にイタリア行きを思い起こさせるような番組を作ったのは。絶対テレビ番組に感化されたに違いない。あれか、オペラ歌手目指す子が頑張る系の奴か? それとも歴史的オペラ劇場、スカラ座の舞台裏でも流していたか?

「ほら、私達が付き合い始めて三年の節目が今度のGWに来るでしょう。今まで、旅行らしい旅行ってした事ないよね? だから記念旅行としてね、豪華なのもいいかなって」

 確かに豪華だが、いきなりトップギアが過ぎるんじゃなかろうか。まあ、五月は繁忙期でもないし、今から調整すれば一日と二日は休めるだろう。それに記念にと言われてしまうと弱い。というか、そもそも僕は郁美のお願いに弱い。それは自覚している。だが、今回ばかりは彼女に反逆をしてしまうかもしれない。

 なぜなら……僕は、飛行機が大嫌いだからだ。

 あんな鉄の塊が空を飛ぶなんてファンタジーもいいところだ。航空力学? 揚力? 知った事か。鉄は重いの、落ちるの。落ちたら死んじゃうの。フリーフォールどころじゃないの。宝くじに当たるより、飛行機事故で死ぬ方が確立が低い? でも、現実に死んでいる人はいるじゃん。その一回を引き当てないってどうして言えるのさ。そもそも実は飛行機が無事に飛んでてみんな海外を気軽に行き来している、なんて話も航空業界がでっち上げた都市伝説かもしれないじゃないか。そう言うわけで、僕は海外はおろか沖縄にだって行ったことないし、北海道へ行くときは電車を使う所存。

 ほんとにこの旅行だけはお断りいたしたい。

「あのさ、日本でもオペラ見れるよ?」

 なーんて、試しに言っただけです。そんな、見る間に不機嫌になるのは止めて。

「分かった。考える。休みの調整とかしてみるから、ちょっと待って」

 てな感じでその日は逃げ出した。


 それから数日が過ぎた。あの日以来、僕は郁美に会っていない。それどころか、コンタクトも取っていない。ボロアパートの二階にある自分の部屋に閉じこもっている。寂しいと言えばそうだが、飛行機に乗るべきか乗らざるべきか、という選択は僕の中でそれほどに重たいものなのだ。


 休日。

 テレビを見ながらぼんやりと時を過ごす。画面の向こうではアイドルなのかアナウンサーなのか見分けのつかない若いネーちゃんがマイク片手にスイーツ的なものを紹介していた。

「見てください、この素敵な層。それに濃厚なチョコレートとコーヒーの香り。上に乗った金箔が、何ともお洒落ですよねぇ」

 画面に映し出されていたのは、直方体のケーキだった。何層にもなっていて、一番上にはてかてかしたチョコレートが塗られている。その真ん中に鎮座ましますのは金箔。黒っぽい茶色だらけのケーキの中で、金箔はひときわ輝いていた。

「綺麗ですよねぇ。食べるのが勿体ないなぁ」

 ネーちゃんは大袈裟な身振りでケーキの周りを顔だけでうろうろしている。何かこう、サル的なものを思い出してしまうのは僕だけだろうか。良いからさっさと食え。

 僕の願いが通じたのか、ネーちゃんは銀色の可愛らしいフォークでもってケーキの端っこを少しだけ切り取った。

「頂きまぁす」

 その小さな欠片を無駄に開けた大口でパクリ。サルではなく、彼女はオオサンショウウオか何かだろうか。

「うーん、美味しーい。すっごく濃厚です」

 そりゃまあ、その見た目でさっぱり柑橘系とか言われたら、そっちの方が食べてみたいわ。そう言えば、郁美はチョコレートケーキが好きだったなぁ。何とかこれでご機嫌とれないかしら。

 ……そんなんで済んだら、苦労しないって話だよな。

「チョコレートのこってりとした甘さと、ガナッシュの濃厚なコク、それにコーヒーのほろ苦さがいいアクセントになってます。何だろう、ちょっとセンチメンタルな感じ?」

 お気楽なセンチメンタルもあったもんだ。こいつ、もしや十六歳か?

「この、人気洋菓子店、まるむし亭で一番の人気ケーキ、オペラ。私的にもスッゴクお勧めだなっ!!」

 顔にくっつけるようなピースをしながら、彼女は下手くそなウインクを画面に向けて飛ばした。何かこう、店の評判を下げることが目的の番組なのだろうか。

 いや待て。あのケーキの名前、オペラって言ってたな。それはなかなかに有益な情報ではないか。あんな番組でも、何かしら役に立つものだ。


 まず、あのケーキを手に入れる。そして郁美に電話。

「やあ、郁美さん。僕だよ」

「ハロー、マイダーリン。突然どうしたの?」

「実は、君に最高のオペラをプレゼントしようと思ってね」

「まあ、どういう事? イタリアに行く決心をしてくれたのかしら?」

「ああ、そういう事じゃ無いんだよ。別にイタリアに行かなくたって、最高のオペラはあるって事を君に知って欲しいのさ」

「何を言っているの? そんな事、あり得ないわ」

「あるんだよ、今から君の家に行ってもいいかい?」

「良いわよ。その代わり、最高のオペラじゃなかったら、その時は覚悟して頂戴ね?」

「もちろんさ」

 俺はケーキの入ったケースと、それから花束か、あるいはアクセサリーのプレゼントなんかも一緒に持っていくべきだろうね。当然、自転車なんか使わない。タクシーだ。慎重に運転してくれよ、運転手君。僕たちの未来が、この手に握られているようなものなんだから。

「へへへ、旦那ロマンチストですな。あっしも若い頃は……」

 いやいや、タクシー内はシミュレートいらないか。

 とにかく、彼女のアパートに付きました。

「やあ、ハニー。来たよ」

「待ってたわ」

 玄関でハグと軽いキス……なんてやった事ないか。

「それで、最高のオペラってどれ?」

「これさ」

 俺はケーキのケースを開ける。中から出てくるのは例のオペラだ。

「何よこれ、ただのチョコレートケーキじゃない。美味しそうだけど、これが最高?」

「確かにチョコレートケーキだけれど、ただの、じゃない。見てごらん、この綺麗な層。そして、上にかかった滑らかなチョコレート。金箔がオシャレだろう?」

「ええ、確かにそうね。美しいわ。特にこの層が最高ね。見てて飽きないわ」

「そうだろう? 層だけに。飽きないオペラ。これこそ最高だと思わないか? しかも、このオペラは見るだけじゃない。食べる事だってできるんだからね」

「ああ素敵、最高だわ。私ってばなんて馬鹿だったのかしら。あなたがこんな素晴らしいオペラを知っているっていうのにイタリアに行きたいなんて言って」

「良いんだよ。誰にだって間違いはあるさ。そう言うときのために、僕がいるんだからね」

「ああ素敵。今夜は帰さないわ」

「おおっと、それもいいけどまずはこのオペラを食べようじゃないか」

「ええ、そうね」

 楽しい午後のティータイム。その後はめくるめくの……。


 無いな。妄想してみて改めてわかったわ。この展開はない。ケーキを見せた辺りでハードパンチを喰らいそのまま叩き出されるのがオチだろう。

 やはり、行くしかないのだろうか。行くしかないんだろうなぁ。

 飛行機かぁ。乗れるかなぁ。落ちないかなぁ。まあ、郁美と死ねるならそう言うのもありかなぁ。

 うじうじにうじうじを重ね、さらにうじうじと一週間ほど悩んだ結果、しびれを切らした郁美がうちに乗り込んできて、滾々と説教された挙句にイタリア行きに同意をさせられた。ご丁寧に同意書まで書かされて、拇印まで取られた。

 ここまで行きたがっているなら、それにこたえるのが男ってもんだ。

「今さら過ぎて笑えないんだけど」

 郁美さん怖いです。ほんと、すんません。

 そこからはとんとん拍子だった。というか、ベルトコンベアに乗せられて運ばれていく野菜の気分だった。いつの間にか旅行プランは決定しており、気が付けばパスポートの申請も終わっていた。何気に有休の申請も通っていたし、そう言えば月日も流れていた。

「明日は買い物に行くんだからね」

 旅行に必要な物の買いだしだ。主に僕のものばかりだが。

「遅刻しないでね。駅の改札で待ってるから」

「はい、了解しました」

 電話を切り、盛大な溜息を一つ。

 いよいよだ。いよいよその時が迫ってきた。死刑執行を待つ気分ってこんな感じなんだろうか。

 旅行日が迫ってくるにつれ、胸やけと胃痛が酷くなっていく。微熱も続いている気がするし、巻き爪っぽくなってきた気もする。

 情けない話だ。大の男が飛行機に乗るっていうだけでこんなに怯えて。けど、やっぱり飛行機が飛ぶってのが疑わしいんだよなぁ。ネットで陰謀論のサイトも見たけれど、飛行機が飛んでいるって話はアメリカやロシアの陰謀ではなさそうだった。というか、そもそもそれを疑うような説がどこにもなかった。ということは、だ。飛行機は飛ぶし比較的安全な乗り物だし客室乗務員さんはみんな美人で優しいって事になる。最後だけは是非この目で確認を取りたい。


 翌朝。眠れぬままに一夜を過ごし、多少ふらつきつつも出かける準備を進める。念を押されて置いての遅刻はまずい。靴を履き、玄関を出る。カギをかけ、アパートの廊下を歩いていると、急激に体が重くなった。な、何だ。何かの呪いか? 続いて目の前も暗くなってくる。だが、ここで挫けるわけにはいかない。僕は決めたんだ。郁美とイタリアに行くって。飛行機に乗るって。アイキャンフラーイ!! 心の中の叫び声とともに僕は思い切りジャンプした。そして着地しようとして、足元が無くなっていることに気付いたころには階段を転がり落ち始めていたわけで。そこからちょっと記憶がないわけで。


 気が付くと病院のベッドにいた。

 アパートの大家さんが救急車を呼んでくれたらしい。激しい揺れと共にアパート中に轟音が響き渡ったとか。慌てて外に出てみると階段の下で僕が伸びていたらしい。幸いなことに、足と腕を一本ずつへし折っただけで命に別状はなかった。嬉しかったのは、郁美が血相を変えて飛んできてくれたことだ。涙ながらに生きてて良かったと言ってくれたが、後にきちんと事情を説明したら殴られた。ともかく入院を余儀なくされ、その後もギプスが取れるまではロクに何もできないという事で、旅行は中止。申し訳ない半分、情けない半分、後、ほっとした気持ちがほんの少し。

「良いのイタリア何ていつでも行けるもの。ケガを治して、万全になったらまた計画立てようよ」

 笑顔で郁美がそう言ってくれて、僕の心は罪悪感に塗れた。理由はもちろん、心のどこかでホッとしたからだ。

 入院中、郁美は何度も見舞いに来てくれた。その度に美味しい物を持ってきてくれるので、僕は現在やや膨らみつつある。退院したら、きちんとしぼまねば。

「やほー、来たよー」

 今日も郁美は手に何かを下げてやってきた。僕の知る限りで、あのタイプの箱に入ってくるのはケーキの類だ。

「へへへ、良いもの持ってきた。これ、すっごい人気なんだよ」

 そう言って彼女が見せてくれた箱には金色で箔押しされた「まるむし亭」の文字。何か最近聞いたは奥のある名前。

「開けてみ?」

 促されて開けてみると、そこには直方体のチョコレート色のケーキが二つ。表面に塗られたてかてかのチョコレートの真ん中には、金箔が乗せられている。断面は綺麗にわかれた層になっている。

「これは……」

「えへへ、オペラっていうんだよ。何と、見るだけじゃなくて食べられまーす」

 知ってまーす。郁美が見せる満面の笑みの前で、僕が心ひそかに懺悔したことは言うまでもない。

「今度は、ちゃんとイタリア行こうね」

 そりゃあ、頷くしかないだろう?

 こってりと甘いチョコレート色のケーキは、コーヒーのおかげでほんのりと苦くて、今の僕にはぴったりな味だった。

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オ・ペ・ラ 那由多 @W3506B

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