7

 リビングダイニングの窓は全てのバーチカルブラインドが閉じられ、やわらげられた昼前の陽の光が、畳の上を照らしていた。

 支度の整った綾幻は祭壇の前で正座をして、こちらに背中を向けていた。先ほどと同じ白装束だったが、赤い細い紐を棒状に編んだものを右腰に提げていた。

 編み方も単純で、端に房もなく細くてかなり小ぶりだが、修験者が修行のときザイル代わりに使うために両腰に提げている「かいのお」によく似ており、まるでそのミニチュアのようだ。

 祭壇も、神具とも仏具ともつかないものが並び、密教系や陰陽道系の護符も立ててある。強いて言えばやはり修験道系の祭壇に似ていなくもない。

 もちろん、いかなオカルト好きの小日向陽介でも、それらについてそれほど詳しい知識があるわけではなかった。

 綾幻は祭壇から大きな陶器製の水差しを手に取ると膝をにじってこちらに向き直り、それをかたわらに置いて静かに口を開いた。

「それでは始めましょう。里美さん、これからここに大地君を呼びます。まずは大地君の言葉を聞きましょう」

 綾幻がやさしく微笑んだ。「わたしがついていますから安心して話してくださいね」

 陽介はその笑顔に感嘆した。良い意味で、これまで綾幻が見せた微笑とは異質の笑顔だったのだ。遠慮のないやさしさ、遠慮のない感情表現に思えた。

「始めます」

 ふっと無表情に戻った綾幻は、脇に置いてあった金属性の盆のようなものを引き寄せた。盆は薄い大きな鐘布団のようなものに載っており、白金色で大きさは綾幻の肩幅よりも小さいくらい、指二本ほどの深さがあった。

 盆の中央には小さくかわいらしい三方が置かれ、その上には白いものが盛られていた。おそらく塩であろう。

「里美さん、こちらへ」

 綾幻は盆をはさむように里美を座らせると、盆の上から三方を取り上げ、盛塩を盆に空けた。更に水差しを手に取り、なにかを小さく唱えながら塩を溶くように盆に水を回し入れた。

 盆に薄く水が張ると水差しを置き、盆の水で右手を少し濡らすと、その手を盆の縁に置いた。

 綾幻は再び口の中でなにかをつぶやきながら、盆に置いた手を縁に沿わせながら回すように動かし始めた。

 

 こおん……


 くおおん

 うおおおん

 うおおおおんんんんん……


 最初は小さく、そして徐々に大きく、盆が幽玄な音を発し始める。

 陽介は、冷え切った肌に温かいものが近づいてくるのに似た感覚を胸の辺りに感じた。

 それは心地よいが、かえって肌寒さを呼び起こした。

 ぞわぞわと皮膚が粟立つ。

 グラスハープよりも低い音ではあるが、その音は澄んでおり、深く、強く、大きなうねりを持っていた。

 しばらくすると綾幻は空いている左手を里美の首の付け根辺りに添えて、小さく揺らし始めた。そしてしきりになにか囁いている。その声は陽介たちには届かず、かろうじて里美が聞き取れる程度のものであろう。

 最初、里美の身体の揺れは綾幻に誘導されていた。しかしその揺れは徐々に大きくなり、頭が円を描くようになる頃には綾幻の左手は里美から離れていた。

 里美の上半身は盆の縁を回る綾幻の右手を追うように回っていた。

 すると今度は綾幻の口元から、聞きなれない音が聞こえてきた。

 それはまさに声ではなく音、しかも微妙に揺らぎを含んだ振動音といった感じで、その音だけに注目すれば機械的にも聞こえる。

 しかし綾幻が奏でるその音にはおおきな抑揚がつけられており。その抑揚の作用で機械臭さは雲散霧消し、逆になんとも玄妙な音色となっていた。

 複数人の僧侶が読経する音声に近い響きだ。


 びょーうー でぃー

 びょーうー でぃー


――ああ、なんだっけ、あれ。たしかホーミーとかなんとかいう……

 喉歌とも呼ばれるホーミーは、モンゴルなどに見られる歌唱法だ。特殊な発声法を用い口腔内で発声を共鳴させ、低い弦楽器のような音から高い笛のような音まで、わずかに揺らぎを秘めた不思議な音を奏でる。

 しかしそのホーミーとも若干音色が違う。

 音自体の揺らぎがやや大きく、不規則だった。これはわずかに周波数の違う音が干渉しあって音の強弱が生じる現象だ。

――ビート音? それともウルフ音だったかな……

 陽介にはそれを聴き分ける耳も知識もなかったが、この揺らいだ音をさまざまな民族楽器に見出すことはできる。

 これがさらに大きな揺らぎ、あるいはうなり、すなわち抑揚を奏でるとなるとオカルト的に興味深い。宗教的な呪文の類、すなわち仏教の経、神道の祝詞、あるいは西洋魔術のそれにも、この「うなり」の模倣と見られる意図的な振動を聞き取ることができるからだ。

 その発声法はともかく、綾幻は自らの口で音を奏でながら静かに立ち上がり、里美の周りをゆっくりとまわると、里美の背後で止まった。

 綾幻は腰の組紐を解くと一本の細い紐とし、先ほどの水盆の水に手を浸してその手で紐を引いた。塩水で湿らせているようだった。

 湿らせた赤い紐は肩幅ほどの輪になった。綾幻はそれを巧みに操り、両手の指に絡め、形を作る。

 つまり、

――あやとり? 変わった除霊だな……

 それはまさにあやとりのようであった。

 綾幻は本当にあやとりをするように何度か紐の形を変えながら、やがて左手の指の紐を残したまま、右手の指に絡まる糸を解いて軽く引き絞り、左手を伸ばして里美の頭を押さえた。親指は眉間、そのほかの指は額の髪の生え際あたりに置いてある。

 綾幻は目を薄く閉じ、なにかを探っているような表情になった。音を奏でるのを止める。そして再び里美になにかを囁き始めた。

 やがて、里美の頭を押さえていた手を離す。

 綾幻は素早くあやとりの形を変えた。

 今度はやや右手の指に多く絡み付いているようだ。特に、人差し指と薬指。

 綾幻は音を奏でるのを止めると里美の前に回りこみ、元の場所に膝をわって正座した。

 右手の指を里美に向ける。

「さあ、目を開けてください、大地くんです」

 ゆっくりと目を開ける里美。目前の一点を見つめ、驚いたように、わずかに仰け反る。

「だいち……」

 里美のようすに、陽介と新一は顔を見合わせて驚いた。

 沈黙し、ときどきうなずく里美。涙を流す。

――そこにいるのか?

「ごめんなさいね、ママが、ママが悪かったの、ゆるしてね」

――会話してるんだ……

 陽介は綾幻を見た。綾幻は紐を絡げた右手を里美に向けたまま、じっと里美を見つめている。

 里美に大地が見えているのは疑いようがなさそうだ。その現実について、もはや陽介にはどのような理屈も当てはめることができなかった。

――催眠術? いや、綾幻は幻術士だといっていた。するとこれが幻術か……

「ゆるして……」

 突然、里美の顔色が変わった。恐怖に歪むような表情になる。

 怪訝な表情をする綾幻。

「やめて、大地。いや、やめて!」

 取り乱し始めた里美のようすに新一は思わず身を乗り出した。

 綾幻はやや腰を浮かせたが冷静であった。


 ふっ、ふうっ


 と気息を整え、右手で里美になにかを送るような動作をする。

「大丈夫ですよ、大地くんはあなたとお話しをするためにそこにいるのですさあ、もっと話しかけてあげてください」

「いやあっ! だいち!」

 綾幻はさらに表情を険しくした。

 里美が大きく仰け反る。目玉がこぼれそうなほど見開かれた目で、目の前のなにかを見つめ、怯え、両掌を突き出してそのなにかを拒んでいるようだ。

 綾幻はあやとりの形を変えた。最初の形に似ているが微妙に違う。

 里美と共通のものを見るように、そのあたりの空間に綾幻は目を凝らした。

「なぜ?」

 そこで起こっているなにかを見たようにわずかに困惑し、つぶやくように口走る綾幻。

 次の瞬間、里美は痙攣するように身体を強張らせた。

「いけないっ!」

 綾幻は立ち上がり、素早く里美の身体を支える。紐は左手の指にからげたままだが、右手からははずして両手は自由になっている。

 陽介は見た。

 綾幻の右手の指が奇妙な形に曲げられていた。親指と中指と薬指で輪をつくり、人差し指を親指にからげて引き寄せ、小指は立ててある。その小指を、里美の額にあてる。同時に、


 ふゅっ!


 綾幻が呼気をほとばしらせると、里美は全身から力が抜けたようにだらりとなった。綾幻がそれを抱える。

 綾幻が特に強く指を押し当てた素振りはなかったが、里美の額には指先ほどの小さな赤いアザができていた。物理的な力以外のなにかが、そこに痕跡を残したのだろう。

 その場を動けないまま、新一が不安げに言った。

「ど、どうしたんですか?」

「大丈夫、眠っただけです」

 そう言って沈黙し、綾幻は考え込むような表情になった。やがて口を開く。

「西野さん。わたしの見込み違いでした」

「いったい何がどうなったんです?」

「いまはまだなんとも言えませんが、やはり事故現場に行く必要があるようです」

 綾幻は抱えた里美に視線を落した。

 新一も陽介も言葉を失い、ただ気を失った里美を見つめていた。

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