第2話「兄妹」

「基は、茜ちゃんの気持ちを少しでもわかろうとしたんだよ」


 その声は沙織のものだった。

 やさしくも厳しい声音。僕はつい、身を隠してしまった。


「お兄がですか?」

「基は茜ちゃんが今の状態になって初めて、兄として考えたんだと思う」

「……そんなの、そんなの違います。そんな、お兄」


 なぜ、二人がこんな状況になっているのかは分からない。でも、僕の言葉を聞いて沙織が家まで来た可能性が高いだろう。

 中の様子は見えないが、二人が真剣であることだけは伝わってきた。


「基があんなにも何かに必死になっている姿なんて小学校以来だよ。茜ちゃんが妹だから、そこまで必死になったのかどうかは分からない。でも、何も出来なかった自分自身が嫌で、だから自分を納得させるためにしたことだと思うんだよ」


 沙織の冷静な言葉に対して、茜の心が乱れ始めているのが伝わってきた。だからと言って、ここで僕が出て行ったら、よけいに事態を悪化させることも理解していた。


「お兄はあの日言いました。私に甘えたいって、頼りたいってそう言いました。お兄は私がいなきゃダメなんですよ。なのに、なんで、お兄が私の為になんて……そんなの、違いますっ!」


 いくら冷静を装って敬語で喋っていても、その声は焦っていた。抑えられない感情が溢れだしていた。


「茜ちゃんは、基のこと、お兄ちゃんのこと、好き?」

「……どういう意味ですか?」


 突然の質問に、茜は明らかな動揺を見せていた。だが僕も沙織の言葉の意味を理解するのには時間が必要だった。


「基は別に茜ちゃんのこと、好きじゃないと思うよ? 家族だから、兄弟だから、そう言った最低限の愛情はあるかもしれない。でも、自分が本当の危険に直面したとして、茜ちゃんと基、どちらかしか助からないとしたら、きっと基は自分を守るよ」


 そんなことはない。そう言いたかった。でも、言えなかった。きっと、沙織の言っていることを心が否定しきれないから。


「なんで、そんな、そんなことありませんっ!」


 それでも、茜は否定してくれる。僕の為に。でも、きっとそれが駄目だったんだ。それに甘んじて生きていた僕が間違っていたんだ。


「茜ちゃんだって、基のこと、嫌いでしょ? 頼りにならなくて、ダメな奴で、社会に適合できそうにもない」


 さすがに腹が立った。でも、僕は前のように自分を理解していない訳じゃない。僕はつらくても、その事実を受け止めなきゃならない。でも、茜は、否定してくれる。


「そんなことないっ! お兄は」

「お兄はなによっ! いい加減にしてよ! 基はあんたのものじゃないっ。あんたが安心するために基はふさぎ込んでいる訳じゃないっ。基は、あんたが輝くための道具じゃないんだよ!」


 沙織の感情はもう、自分自身を抑えることすらままならなくなっていたんだ。ずっと僕を守ってきて、助けてきて、だから。だからきっともう限界になっていた。


「甘えていたのはあんたじゃないっ! 基がいなきゃ、自分を保つことも出来ないくせにっ!」

「そんな、私は……だって」


 茜もきっと、心に余裕なんてない。僕が未熟だから、弱いから二人を傷つけてしまうんだ。なのに、僕は何もせずにここで聞き続けている。


「あっ……。茜ちゃん、私はこんなふうに言うつもりじゃなかったんだよ。ただ……」

「何なんですか。そんな、わかったような……分かったようなこと言わないでっ! お兄のことは、私がずっと見てきたんだから!」


 出て行ったらきっと悪化する。でも、僕はここで見ていることしかできないのか。


「それでも知ってほしかったの。基がどんな気持ちで、何をしたのか。……だからっ!」

「帰ってください」

「でも」

「かえって!」

「……ごめんね」


 一言残すと同時、沙織の足音が近づいてくる。焦って隠れようとしたが、玄関に隠れる場所などなく、結局鉢合わせすることになってしまった。


「あっ……」

「……そんな気はなくて、えと」

「っ」


 必死に言い訳を考えるも、そう簡単にいい言葉が思いつくはずもない。気まずそうな顔をした沙織が横を通過するのを、ただ黙って見送ることしかできなかった。


 気のせいかもしれないが、沙織の頬を涙が伝っていたように感じた。


 だめだ。僕はこの期に及んで決めあぐねている。沙織を追うべきなのか、茜と話すべきなのか。それとも、今は話すべきじゃないのか。


 いや、それは逃げでしかない。相手のことを考えているようなふりをして、本当は自分自身が逃げる道を探しているだけなんだ。それじゃあ今までと変わらない。ヒーローになろうとしても、生まれるのは偽物だ。そんなものは自分でなろうとするものじゃないのだから。なら、自分のために今のチャンスを生かさない手はない。


「……茜」

「っ⁉ お兄」


 きっとこれは沙織が作ってくれたチャンスなんだ。今、話さなきゃだめだ。

 それでも、リビングに入ってすぐに向けられた茜の顔をみて、僕はどうしたらいいのか分からなくなってしまった。


「……聞いてたの?」


 僕を非難するような目からは、涙が溢れていて。すぐに茜は焦ったように顔を背けた。

 僕はそれだけで、言葉を失った。


「聞いてたんでしょ⁉」


 立ち上がった茜の姿は、今にも脆く砕けそうに写った。だからもう、嘘なんてつけなかった。


「……聞いてたよ」

「っ⁉」


 言ってから気づく。それをきっと言ってはいけなかったと。でも、茜はすでに走り出していて。

 直前のことがフラッシュバックする。沙織に何も言えなかった。僕はいつも何があってもなるがままで、その流れを止めようとはしなかった。でも、


「まって!」


 僕はとっさに茜の腕をつかんでいた。

いまつかまなければ、取り返しがつかないような、そんな気がして。


「離してっ!」

「いやだっ!」


 でも、無理やりに引き留めても何も出来ない。そう思ってしまう。


「いたいよ」


 だからもう、そう言われたら離すしかなかった。


「……ごめん」

「……」


 でも、茜は立ち止まってくれた。だから、それが怖かった。窓から差し込む光が茜を包み込んでいるようで、ただ待つことしかできなかった。


「何でなの?」

「え?」

「なんで、いじめに首を突っ込んだりしたの?」

「……」


 うまい言葉を考える。何て言ったら茜がいい顔をするのか。でも、それは違うと気づく。ただ、ありのままに話さなきゃ意味がない。


「僕は茜のことを何も知らなかった。だから、知りたかったから」

「なんで」

「力になりたかったから。いつも助けてくれたから」

「なんで」

「僕は弱くて無知だから」

「弱くて無知ならそれでいいじゃない!」


 茜は僕を睨んでくる。振り返ったその目には、大粒の涙があふれていた。


「お兄はいつも私を頼ってきたじゃない!」

「うん」

「お兄は私より弱いじゃない!」

「うん」

「お兄は私がいないとダメなんでしょ!」

「うん」

「周りのことも、何にも見えていないじゃない!」

「ごめん」


 そうだ。そのとおりだ。でも、だから僕は変りたい。


「我儘なくせに!」

「ごめん」


「自己中心的なくせに!」

「ごめん」


「利己的なくせに!」

「ごめん」


「なら何でよっ! なら何で私を責めないの⁉ なんで、私にいじめのことを聞いてこないの⁉ 何で、私を理解しようとするの! 今更何で、そんなことするのよっ。いっつも私に甘えていたくせに! そんなのお兄じゃないじゃん!」

「……ごめん」


「何で、なんで謝るのよ……っ」


 崩れ落ちるように茜は座り込む。あふれる涙は拭えきれずに流れ続けていた。

 茜の嗚咽は僕を責めているように聞こえた。きっと、僕が全て悪い。僕がいたからこうなった。兄なのに、何も気づいてあげられなかったから。いや、それは傲慢だ。僕なんて、茜に勝る部分は一つもないのだから。それでも。


「僕は弱虫だ。何もできないし、しようともしない。壁があれば避けて通る道を探してしまう。だから、僕はずっと茜に甘え続けてた。でも、一方的じゃダメなんだって。受け身なだけじゃダメなんだって、そう思ったんだ。僕はもっと茜の事を頼りにしたいんだよ。だからさ、僕にも何かさせてくれないかな」


 あの日否定された言葉を、もう一度告げる。僕が茜の兄になる、そのスタートラインに立つために。


「……」 


 茜はただうつむいていた。涙は少し落ち着いてきたのかもしれない。それでも、まだ気持ちは高ぶっているようで。


 僕は逃げ出したくなった。もし、否定されたら。もっと茜が離れていったら。僕の言葉で茜が更に傷付いてしまったら。そう思うと、苦しかった。今朝となんて比べ物にならない。目の前にいる女の子の言葉が、僕にとっての全てになっている。

永久のような気がしていた。世界が時間を遅くしているのかと錯覚した。


「……か、……いた」


 茜の口から出た言葉は、弱弱しくて小さくて。


「え?」

「おなか、すいた」


 ちょっと怒ったように上目づかいで見上げてくる茜をみて、僕は初めて実感したのかもしれない。茜が妹なんだって。


「……今、つくるから」


 気づいたら涙があふれていた。立っていられない程に全身の力が抜けた。僕を理解してくれたことが、僕の言葉が届いた事が、嬉しくて仕方なかった。


「……まったく、何泣いてるんだか。もう、お兄は泣き虫なんだから」


 いつものように笑顔で慰めてくれる茜がそこにいた。それが無性にうれしかった。


「つくる、から……」


 これじゃあ今までと変わらないかもしれない。でも、今だけは茜の胸でこうしていてもいい気がした。


「……つくるよ、つくるよ」

「まったく……。お願いね、お兄」


 茜は優しくて、涙は止まらなくて、僕は思った。茜に恥じない兄になりたいと。もっと、頼られる兄になりたいと。


 僕は弱いから、賢くて強い茜の兄として未熟だと思う。でも、この日僕たちは本当の兄弟になった気がした。


 そして、僕自身が大きく変ることができた。そんな気がしたんだ。

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