第2話:誰がために鐘は潜む

(1)夕映えの水面

 洞窟の湿っぽい暗闇の中を、一台の荷馬車が一本の松明を頼りに進んでいた。

 荷馬の手綱を引くのは、どこかの国の軍服に身を固め、外套を羽織った男である。そして、荷馬車の荷台の一隅には旅装束の少女の姿もあった。表情にいまだあどけなさの残る彼女は、今は荷台の側板に身をもたれ、どこか気だるげな表情で、ただただ宙に焦点の定まらない瞳を向けていた。

 ――初めての体験がすべて素晴らしいものであるとは限らない。

 そんなことは言われずとも理解しているはずであった。しかし、その苦々しさを今、全身をもって感じているのは、その少女ルーリエ・アナロミシュであった。彼女の身を襲っているのは、気味の悪い浮遊感に似た落ち着かなさと、時々胸元にせりあがってくる不快感であった。

 それは彼女にとって初めての経験であり、まるで得体のしれないものだった。

 それまでの彼女にとって、得体のしれないものといえば、夜空だった。

 人は夜空を眺めては、月や星がきれいだといって喜んだり、あるいは曇っていて何も見えないと嘆いたりする。しかし、生まれつき夜盲のためにそれがわからないルーリエにとっては、そんなことで一喜一憂する人々が奇妙に見えて、それがゆえに夜空とは何なのかわからず、気味の悪いものであった。夜空以上に得体のしれないものなどあるのだろうか、と彼女が思ったことも一度や二度ばかりではなかった。だから彼女は、夜空が好きではなかった。

 そして今、彼女を襲うこの感情。それもまた彼女にとって、とても好ましいものとは言えなかった。

 彼女の身を責め苛むもの、――それは馬車酔いだった。

 荷台の上でもがき苦しんでいるのを見られて、ハゼムに教えられたのが、その未知の概念だった。

 ルーリエという少女が『迷宮』という空間に生まれて初めて足を踏み入れて以来、既に五日ほどが過ぎていた。彼女は自分自身でもそうとは意識しなかったが、初めての旅のために緊張感と高揚感の中にあった。しかし、慣れない旅路は、知らず知らずのうちに彼女に疲労を蓄積させてもいたのである。

『迷宮』に入り、左右が切り立った崖になっている谷道を抜け、この洞窟に突き当たったのは三日前のことである。それまでは徒歩で馬車についていっていたルーリエだったが、洞窟の暗闇の中では、彼女はまともに歩くことさえままならない。そこでハゼムの勧めもあり、荷馬車の一隅に居場所を占めていたのだ。しかし、不慣れな馬車の揺れに、折からの旅の疲れも相まって、彼女は馬車酔いに陥っていたのだった。

 薄暗い洞窟が、どこまでも果てのないかのように、延々と続いていた。洞窟はところどころで天井が抜け落ちていて、そこからは空が見え、ルーリエにとっても一時の心の休息がとれた。しかし、それ以外ではやはり洞窟の暗闇が続き、三日三晩、二人と一頭はこの途方もない行路を彷徨い歩いていたのだった。

 頼りになるのはハゼムが掲げている松明の明かりひとつほど。それが絶えてしまえば、道の前後も分からない。その不安感もあって、まるでどろりとした暗闇の底で溺れてしまいそうな、そんな息苦しささえルーリエは感じ続けていたのだった。


「見えたぞ、ルーリエ。次の狭界への出口だ」


 ハゼムが荷台に座っていたルーリエに呼びかけたのは、彼女がそろそろ野営となるのではないかと思っていた時だった。彼女は重い体をのろのろと起こし、進行方向を見やった。最初はよく見えなかったが、やがて彼方にぼんやりと蛍の灯ほどの光明が見えてくるにつれて、彼女は思わず涙が零れ落ちてしまいそうなほどの安堵感に包まれた。それと同時に、自分自身がそんなにも不安の中にあったことを、彼女は初めて気が付いた。


「……やっと、着くんですね」

「ああ、もうしばらくの辛抱である。気を強く持て」


 ハゼムの励ましのあと、心なしか荷馬車の速度も上がったように思われた。揺れも少し大きくなるが、ルーリエにとっては、光明が少しずつ近づいてくるのがわかるほうが嬉しく、気にはならなかった。

 次第に、洞窟の中に吹き込んでくる風も感じるまでになる。そののちには、ルーリエも(本人は多少よろめいてはいたが)自力で歩けるほどに光が差し込むまでになった。

 吹き込んでくる草の青い匂いが久しぶりのようで、ルーリエの心は知らず踊った。

 やがて二人と一頭は洞窟の出口に立った。

 沈みゆく夕日がちょうど正面にあり、彼らはその眩い光を身体全体で受け止めた。


「着いた!」


 思わずルーリエが叫ぶ。


「ずいぶんと嬉しそうだな、ルーリエ」


 笑い交じりに、ハゼムがルーリエの肩をたたいた。

 ルーリエはその手をつかんで、逆にハゼムににじり寄る。


「笑わないでくださいよ。久しぶりのまともな太陽なんです。やっとあのじめじめした洞窟からも抜け出せたんですから、嬉しくないわけないじゃないですか!」

「そうだな。ところで、気分の方はどうだ、多少は落ち着いたか」

「はい、まだ少し変な感じですけど、外の空気を吸って気分はよくなりました」


 ルーリエは両手を広げ、胸いっぱいに深呼吸をする。そよ風が吹き、彼女の肩までの髪もなびく。その様子をほほえましげに見ていたハゼムも、彼女に倣い、数度深呼吸をした。

 さて、彼らはしばし久方ぶりの外気を楽しんだ後、周囲の探索にとりかかった。

 洞窟の入口は少し高台、正確に言えば小高い山の中腹にあるらしかった。そして改めてみると、広大な水面が眼下にひろがっているのだった。


「あれは、湖ですか?」

「そうだろう。しかし、これはかなりの広さであるな」


 実際、湖らしき水面は広大だった。正面の向こう岸は霞の中でかろうじて山の峰が見えるほどであるし。左右に目を移せば、どちらも地平線の彼方まで続いているかのようであった。

 その向こう岸の方角へ、太陽は沈みゆこうとしていた。傾きを増す太陽は光の帯を水面に投げかけ、その光の帯は水面の揺れできらきらと照り輝いて見えた。この見事な夕映えがまたしばしの間、ハゼムとルーリエの目を奪ったのは言うまでもないだろう。

 気を取り直した二人は、やがて湖の岸辺、山のふもとから右手へ少し行ったところに、家々の屋根が集まって街を形成しているのを見つけた、また、その近くの湖に突き出した半島には、櫓をいくつも備えた城のような建物まである。ともかくもその城下街が『迷宮』から一番近い街のようだった。


「よさそうな街だな。何か湖でとれる地産が手に入るだろう。良きお導きに感謝をしよう」


 そう言って、ハゼムは右手の人差し指を立てると、瞑目したままその付け根に二三度口づけをする。ルーリエはそれを不思議そうな表情で眺めていた。


「ハゼムさん、なんですかそれ?」

「導きの女神さまへの祈りだ。信じるにせよ、信じぬにせよ、荷背の習いのようなものであるな」

「そんなものがあるんですか。色々な荷背の人にはツムガヤで会いましたが、それは初めて知りました」

「であろうな。荷背も時折の祈りの時にしかせぬ仕草ゆえ。……ともかく、夕暮れが近いようだ。話は後にして急ごうではないか、ルーリエ」

「はい」


 二人と一頭は、再び歩を進めだした。『禁足地』の看板を過ぎ、轍の残る曲がりくねった林道を伝って、山の下まで降りていく。見れば遠くに見える小さな人影がいくつも、それぞれの仕事を終えたらしく、皆々街の方へと帰途に就くのが眺めることができた。

 やがて一行は左右に長く伸びる続く街道筋まで降りてきた。三叉路を街の方、すなわち右手に進路をとる。三叉路を取り巻くちょっとした林を抜けると、街道は湖のすぐ岸辺にまで接近していた。


「うわぁ!」


 感嘆の声を上げたのはルーリエだった。彼女の気分は、水面の上を吹き抜ける風を十分に吸って、すっかり良くなったようだった。


「ハゼムさん、すごく大きいですね、この湖!」

「フム、我輩も湖かと思ったが、これはもしかすると海かもしれないな」

「海、ですか?」

「ルーリエは聞いたことはないか」

「いえ、前に本で読んだことがあります。湖よりもっと大きな、塩水でできていて、波というものがある水場だと」

「おおよそ正解である。正確に言えば、湖でも塩水でできているところもあるが――」


 と、そこまで言ったところで、ハゼムの足がふと止まった。

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