(7)真夜中の再会

 その夜のことである。

 ハゼムは駅亭の食堂でダラダラと時間をつぶした後、頃合いを見計らって、街へ出た。

 向かうは件の理容店である。秋の冷たい澄んだ空気の中、彼は小走りに目的地へと向かった。

 店の前を通り、飲み屋街へ通じる路地に折れると。やはり、コートを羽織ったルーリエが待っていた。


「長いこと待たせたかな」

「多少待ちました。けれど、問題ありません。今後めぐってくるかもわからない機会ですから」

「そうか、それでは行くことにしよう。ところでひとつ訊きたい」

「何でしょう?」

「今宵は星が出ているだろうか」


 彼女は少し困ったように夜空を見上げ、逡巡の後、答えた。


「ごめんなさい。出ていないようです」

「そうか。ではルーリエ上、我輩のひじのあたりをしっかとつかむのだ。そうしてから、行くことにしよう」

「……はい」


 人目をはばかって、かの二人は夜のツムガヤの街を歩きだした。


「これを頭から羽織りなさい。ここから先の人種は柄が悪い。少し重くて、男臭いだろうが我慢してくれ」


 旧市街への入り口まで着くと、ハゼムは羽織っていた外套を脱ぎ、ルーリエに言った。

 ホルテルの居室へは、どうしても貧民街を進まねばならない。夜の街は危険だが、こういった場所だとなお危ない。その点、ハゼムの外套であれば、ルーリエをすっぽり隠してしまうことができた。


「本当に重いですね。何かガチャガチャ言っていますし」

「ああ、前に手に入れたがらくたがポケットに詰まっているのだ。気にしないでくれ」


 二人は黙々と貧民街を進んだ。野良犬の唸り声と、猫の鳴き声と、時折どこかから酔っ払いか何かの規制が聞こえるほかは静まり返っていた。それを不気味に感じて心細くなったのか、ルーリエは心を紛らわすように「ハゼムさん」と口をきいた。


「ハゼムさんは、いつから私が夜盲だと気が付いていたのですか?」

「初めからだ。もしやと思う程度ではあったが」


 ルーリエは酷く驚き、動揺したようだった。もっともその表情は外套のフードの中にあって見えなかったのだが。

 ハゼムは構わず、続けた。


「初めて会ったとき、貴嬢は書物の細かい書き文字を読めていた。だから、目が見えないわけではない。そもそも、そうでなければ、とても客の相手も火の番もままならぬからな。しかし、吾輩の湯呑と、ジュートという一緒に話していた男の器を間違え、小金の計数も出窓の薄明りのもとではできないように見えた。ゆえに、そうやも知れぬと思った」

「――驚きました。この目のことは、あまり人に悟られるなと叔母に言いつけられていたのですが、その程度のことで知られてしまったのですね」

「偶然だ。それに確信したのは、つい先ほどだ」

「先ほど……、星空が見えないということですか」

「ああ、そうだ。今宵は満天の星空。それが見えぬというのはおかしいからな。ただこのことは街の者に聞いたことだ。『明星』を持つものは、星空が見えないのだと」


 そうでしたか、とルーリエが呟き、一瞬の間が生じる。

 それから、彼女は決心したような口調で話し始めた。


「革命前、私が生まれたころの話です。私の母は平民生まれで、ある貴族の家に仕えていました。そこからのいきさつはわかりませんが、母はそこの若君の妾になりました。そこで私は生まれたんです。――けれど、貴族の若君であった父は非情な人でした。あの人は、母と私を捨てたのです」


 どこかで犬が遠吠えをするのが聞こえた。しかし、ただそれきり貧民街は静まり返ったままだった。


「やがて母は病を得て、私が幼いころに死にました。それからはずっと、

 叔母に預けられて生きてきたんです。叔母には、この瞳は貴族の証だといわれました。知られれば迫害に会うかもしれない。だから前髪を伸ばし、絶対に人に知られてはならないと、言いつけられてきたのです」


 ホルテルの不義理とはこのことかと、ハゼムはようやくわかった。

 そして、ルーリエの叔母イリカがやけに貴族を毛嫌いする事にも合点がいった。


「ルーリエ嬢、知らぬこととはいえ、吾輩は辛いことを貴嬢に伝えたのかもしれぬ」

「いいえ、私もどこかでけりをつけたいと、心のどこかで思っていたのです。それに父に会うことで何か変わるかもしれません」

「何かが変わる、とは」

「私自身、はっきりとわかっているわけではないのです。今の暮らしに不満はあまりありません。叔母は厳しくて、口も悪い人ですが、面倒見はいい人です。でも、私はこのまま日々を送っていていいのかと不安に駆られることが最近よくあるのです」

「そのような話、貴嬢くらいの若者にはよくあることだ」

「叔母にも、店の姐さんたちにも、同じことを言われました」彼女はふふと笑った。

「それでも」彼女は静かに続けた。「会って確かめたいのです」


 やがて二人は、ホルテルの住居の入り口までたどり着いた。

 事前の取り決め通り、そこにはジュートが待ち受けていた。


「うまくやったようだな」ルーリエの姿を見て、ジュートは満足そうな笑みを浮かべた。。

「彼女自身が決めたことだ、父に会いたいと」ハゼムは答えた。


 三人はきしむ階段を上がった(当然、ハゼムが彼女の介助にあたった)。そして再び、かの古ぼけた居室の扉の前に彼らは立った。

 ルーリエが緊張している様子が、隣のハゼムにも感ぜられた。

 先日と同じように、ジュートが一歩先に出て、恭しくノックをした。


「ホルテル様、お嬢様をお連れいたしました」

「入ってくれ」


 ジュートの手によって扉が開く。

 ホルテルは、部屋の中央に、安楽椅子に座って訪問者を待ち受けていた。

 隻眼隻脚のその姿に、ルーリエがはっと息をのむのがハゼムには聞こえた。


「君がルーリエ・アナロミシュかな」

「はい、ええと、あの」

「……すまないな、娘の顔すらわからぬ父で。さぞかしがっかりしたことだろう。君の母のこと、若いころの過ちだとはとても言えぬ。わが生涯の大きな恥だ」


 光の角度か、影が差したように見えるホルテルの顔が、更なる悔恨に沈むように暗くなった。

 それに対し、ルーリエは勇気を奮い、意を決したように言った。

 。

「いいえ、そのようなことはありません。私が、確かにルーリエ・アナロミシュです」


 その言葉にホルテルの表情はほころんだ。


「もっと近くに寄ってくれないか。君の顔をもっとよく見たい」


 ルーリエはハゼムの肘から手を放し、一歩、また一歩と恐々歩を進めた。

 そんな彼女を、ホルテルは迎え入れるように両手を伸ばした。


「もっとだ、もっと」


 ついには、彼の両手がルーリエの頬に触れた。彼女はびくりと体をこわばらせたが、振り払うことはしなかった。

 ホルテルはというと、彼女の顔の造形を一つ一つ確かめるかのようにじっと彼女の顔を眺めた。ランプの灯に照らし出されたその光景は、なぜか、一種の不気味さを漂わせるような感じをハゼムに与えた。親子の再会だというのに、なぜこのような心持になるのか、彼はいささか気分が悪くなった。


「ありがとう。君にはやはりエルの、君の母の面影がしっかりとある」


 満足したのか、そう言って、ホルテルはルーリエの頬から手を離した。


「さて、ルーリエ。君の残された時間も少ないだろうから、本題に入りたい」


 ジュートが手早く椅子を準備し、ルーリエはハゼムの介助でそれに腰を下ろした。

 そんな彼女に、ホルテルは向き直り、再び顔を引き締めた。そして滔々と話し始めた。


「見ての通り、私は今や革命に敗れ、没落した貴族だ。長年ここで、か弱い虫のように生きてきた。しかし、先日来、光明が見えているのだ。私の古い友人である貴族が、ある市議会議員に掛け合ってくれた。私の軍事的経験と知識を高くかってくれていてな。近々話がまとまりつつある。そうすれば私は復権貴族として、再びかつての地位にもつけるようになる。そこで気になったのが君のことだよ、ルーリエ」


 ホルテルはいつくしむような視線をルーリエに投げかけた。


「運命の作用か、君は私のような暮らしはしないで済んでいる。それは喜ばしいことだ。イリカには深く感謝しなければいけないところだ。しかし、私が復権することになれば、君の立ち位置も変わりうるのだ。貴族の令嬢としての立場だ。私は、せめての罪滅ぼしでも、君がこの提案を受け入れて、私の元に戻ってくれることを願っている。もちろん、ルーリエ、気味の希望次第だが」

「まずは深く感謝いたします、――お父様」


 ルーリエは口元を引き結び、緊張しながらも、一礼し、はっきりとした声で答えた。

 最期に付け加えられた「お父様」という言葉に、彼女の決心がにじんでいるように、ハゼムには感ぜられた。


「私を貴方の娘と認めてくださったこと。母とのことを悔いてくださっていること。そして、今ご自身の復権の機会に、私のことまでご心配くださっていること」


 ホルテルはルーリエの言葉に、いちいち満足そうにうなずいていた。

 しかし、そこでルーリエは、そこで言葉を一度切った。


「けれど、私は」


 しばしの間の後、彼女は続けた。


「私には今、とても想像ができないのです。理髪店の住み込みとして育った私が、貴族令嬢としてふるまう自分の姿が。――少しお時間をいただけますか、考える時間を」


 向かい合った親子の顔元を、ハゼムはじっと観察した。

 ルーリエはきっと、この展開を少なからず予想していたのではあるまいか。そう思えるほどに毅然としていて、少し頬が紅潮しているようにも見えた。

 一方、ホルテルの表情から何か読み取ることは少し難しかった。彼の表情は、固く、少し青白く見えた。しかして、娘の言葉にまったく絶望したといった風でもなかった。彼もまた、娘が素直に応じるとは思っていなかったのかもしれない、と。そう思われた。


「分かった。残念だが、急ぐまい」


 重々しく、ホルテルは口を開いた。


「無いとは思うが、この話が流れてしまうという恐れもある。決断は、全て事が成ってからでも構わない。それにもし、君が今のままの生活を望んだとしても、私は一向にかまわない。ただ、時々私に会いに来てくれるならばね」

「ご配慮、深く感謝いたします」


 ホルテルは愛娘に笑みを送ると、ハゼムに目をやった。


「クレイウォル卿。悪いが彼女を、ルーリエを送り届けてやってくれ。これ以上遅くなると流石にまずい」

「承知した」

「では、ルーリエ。今夜はおやすみ。次に会うときは、良い返事を期待させておくれ」


 こうして、その晩の親子の対面は終わった。

 。

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