第二話 夢幻

 その日、信長様はすこぶる機嫌が悪かった。


利休様が信長様のお気に入りの茶器を割ってしまったのだ。


そこで、信長様の御機嫌をとるため、皆で夕餉の席で歌と踊りを披露することになった。


もちろん、夕餉の献立は信長様の好物ばかりである。


「美味い!どんどん持って参れ」


料理が次々と運ばれ、踊りも盛り上がってきた。


「今夜は無礼講じゃ!皆、思う存分飲んで食

 え」


「はっ」


最後に菓子が運ばれてきた。


ふわっと花のような甘い香りがした。


(これは…!!)


はっとして信長様を見やると、ちょうど菓子を口に運ぶところだった。


「だめぇー!!」


その手を払おうと立ち上がって駆け寄り──


つるっ!!


(!?)


ガラガッシャン!!


(痛ったぁ…くない?)


「どういうつもりだ」


低く怒りのこもった声が頭上で響く。


(!!)


信長様の膝の上に倒れ込んでしまっていたようだ。


「も、申し訳ございませぬ!!」


慌てて平伏する。


スッと刀を抜く気配がした。


(斬られるーっ!)


「お待ちください!」


(この声は…蘭丸!?)


「お待ちください、御屋形様。この者を斬る

のは、理由を聞いてからでも良いのではありませぬか?」


信長様は黙って蘭丸を見据える。蘭丸も負けじと睨み返した。


どれくらいそうしていただろうか。


「よかろう」


未だ殺気がみなぎる声だ。


お秀は震える手を握りしめ、なんとか言葉を紡ぐ。


「その…菓子…には…毒が…入っております

る」


それは誠か、と家臣たちがざわめく。


「ほう…それならばおぬしが食べてみよ」


「えっ!それは…」


「できぬというのか?ならばこの場で即刻斬

 るまでだが」


(どちらにしろ殺されるのね)


お秀は腹を括って一口食べた。


(───っ)


次の瞬間にはお秀は気を失っていた。


 不思議な夢を見た。


辺りを見渡す。どこまでも続く草原だ。


私の前を走る背中がある。


「蘭丸!何してるの?」


返事がない。


(あれ?聞こえてないのかな)


「ねぇ!蘭丸!」


(!!)


声が、出ない。どうやら話せないようだ。


とりあえず、ついて行く。


(もうっ!速いよ〜)


とは思いつつも、なぜか息切れしない。


そのうち、どこまでも続くかと思われた草原を抜け、森に入った。


蘭丸は何かを探しているようだ。


「あっ!!」


声を上げて近くの木の根元に駆け寄り、何かを採ってきた。


「ありました!!」


そう言って蘭丸は、私に満面の笑みを向けた。


その笑顔を見てほっとした私は、意識が遠退いていくのを感じた─────


「…ろう…きちろう…とうきちろう…」


私を呼ぶ声がする。


導かれるようにゆっくりと目を開けた。


「蘭…丸…?」


「藤吉郎…!!」


抱きしめられた、とわかったのは、涙が肩を濡らしたからだ。


(ああ…そっか…私、毒のある花の花粉が入

った菓子を食べて、気を失ってたんだ…)


「無事で…よかった…」


スパーン!


「お秀!大事ないか!?」


(ん…お秀…?)


「蘭丸、今おしゅうと言ったか?」


怪訝そうな声が耳元で響く。


「お、御屋形様!?」


「何をそんなに驚いておる。それより、わし

の問いに答えぬか」


「おしゅうというのは、そいつの幼いときの

あだ名です!っていうか、そろそろお離し

になったらいかがですか!!」


(おはなし……?………ハッ!!)


「ああ、左様じゃ…」


ドン!!


「何をする!」


「も…申し訳…」


全身が熱い。めまいがして、再び意識が遠退いていくのを感じた────


 次の日の朝、すっかり良くなった私は、縁側で日なたぼっこをしていた。


「もう褥から出て大丈夫なのか?」


心配そうな蘭丸の顔が横から覗く。


「うん。もうすっかり良くなったから。蘭丸

が薬草採ってきてくれたおかげだよ。あり

がとう」


「お礼を言うなら御屋形様にもな」


「えっ!?なんで?」


「俺が薬草のある場所知ってるって言った

ら、御屋形様、俺に頭下げたんだよ。その

場所教えてくれって。俺、あんな御屋形様

初めて見たよ。結構長く仕えてるけど、頭

下げてるのなんて一度も見たことなかっ

た」


最後の言葉を聞き終えるか終えないかの内に、お秀は走り出していた。


「信長様…!!」


(あの夢の中で、私は信長様になってたん

だ!!)


「信長様…!!」


ビューン!バシュッ!!


「何じゃ。騒々しい」


「信長様!!」


声のする方を振り返る。庭で弓の稽古中のようだ。


(きれいな体…)


思わず見とれていると、


「何か用か、お秀」


若干の笑みを含んだ声で信長様は問う。


そのいたずらっ子のような瞳に、どきっとした。


「あの…ありがとうございました!!」


「何のことじゃ?」


「わた…俺のために頭下げてくれたんですよ

ね。誠にありがとうございます」


「当然のことをしたまでじゃ。悪いのはわし

じゃからな」


「でも…」


「しかし、死をも恐れぬおぬしの心意気、気

に入ったぞ。何か褒美をやろう。何が欲し

い」


「……特に、ありませぬ」


「無欲な奴じゃのう。まぁ良い。何か見つか

ったらいつでも申せ。遠慮は要らん」


そう言うと、私の返事を待たずに、信長様は再び弓の稽古を始めた。


─────それから数日が経ったある日。


 私はいつものように、信長様に文をお届けするため、廊下を歩いていた。


お城での生活にもだいぶ慣れ、もう迷うこともない。


(次の角を右に曲がって──)


「キャー!!」


(!?)


女の悲鳴だ。声がした方へ急ぐ。


「どうかしましたか!?」


「猫が……」


猫が死んでいる。


「大丈夫ですよ。落ち着いて」


取り乱す侍女をなだめつつ、庭へ降りる。


(………)


猫を見つめ、何とも言えない感情が渦巻く。


先日、この猫が塀の上を歩いているのを見た気がする。


生き物の死とは、これほど呆気ないものなのか。


震える手で猫を抱き抱える。


(どこかに埋めてあげよう)


立ち上がろうとすると、人の気配が隣りに来る。


「貸せ」


声だけでわかる。信長様だ。


「嫌です。今から埋めに行くんです」


「わかっておる」


そう言って信長様は、半ば奪い取るように猫を抱き抱えた。


「行くぞ」


信長様はずんずん歩いていく。ふと、一つの井戸の前で立ち止まった。


「信長様…?」


訳も分からず信長様を窺うと、無言で井戸の蓋を取った。


(!!)


階段だ。井戸の底に向かって階段が伸びている。


「ついて参れ」


それだけ言うと、信長様はさっさと井戸へ入っていく。


私は、恐る恐るついて行った。


 井戸の中は、ただただ暗闇だけが広がっている。


地面は湿っており、時折ぴちゃっと水音が立つ。


しばらく歩くと、光が見えてきた。


階段を上り───


「うわぁ…!!」


見知らぬ山の上へ出た。とても眺めが良く、肌を撫でる風が心地良い。


「ここはどこなのですか?」


「天王山じゃ。わしのお気に入りの場所で

な」


そして信長様は再び歩き出した。


程なくして、小さな神社に辿り着いた。


神社の周りには、小さな砂山のようなものがいくつかある。


「ここは……?」


その厳かな雰囲気に思考を奪われ、つぶやくようにそう言った。


「猫神社じゃ」


思いがけず、返事が返ってきた。


「わしが造った、猫たちの供養のための神社

じゃ」


そう付け足すと、信長様は近くの地面を少し掘り、猫をそっと、労るように置いた。


(……ハッ!)


そこでやっと思考を取り戻し、砂をかけるのを手伝う。


手を合わせる信長様を横目に見る。


(意外……こういうことをする人じゃないと

思ってた)


信長様が目を開く気配がして、慌てて目をそらす。


「…ここに誰かを連れてきたのは初めてじ

ゃ」


お秀は驚いて信長様の方を見たが、信長様はお墓を見つめたまま続ける。


「なぜおぬしをここに連れてこようと思った

のじゃろうか…」


「あの…」


「今のは独り言じゃ。聞き流せ」


「はい」


「帰るぞ」


「はっ」


そして二人は帰路に就いたのだった。


─────次の日。


(やばい!昨日信長様に文お届けするの忘れ

てた!)


お秀は焦って廊下をバタバタと走る。


ドン!!


「痛ったぁ…」


「お市様!!」


侍女たちの悲鳴に近い叫び声が聞こえる。


(お市様ってあの信長様の妹の!?)


「申し訳ございませぬ!!」


「私にぶつかってくるなんて!一体どこの誰

 なの!?顔を見せなさい!!」


乱暴に髷を掴まれ、顔を上げさせられた。


「あら!かわいい子!」


「へっ?」


「ちょうどいいわ。こっちへいらっしゃい」


突然のことに驚き、ろくな抵抗もできぬ間に部屋に連れ込まれてしまった。


そこには、女の格好をしている若い武士がたくさんいた。


「今ね、若い男の子たちに着物を着せて、誰

が一番女の格好が似合うかっていう遊びを

してるの」


そう言ってお市様は艶やかに微笑んだ。


美しく、そしてどこか有無を言わさぬその表情に、抗うことができなかった。


 久しぶりの着物に違和感しかなく、おずおずと皆の前へ出る。


「どう、でしょうか…?」


俯きがちにそう尋ねる。


「………」


反応がない。不思議に思って顔を上げると、


(えっ!?みんなどうしちゃったの!?)


皆、お秀を見つめ、頬をほんのり赤く染めている。


その中に蘭丸を見つけ、縋るように声をかける。


「蘭丸!私なんか変?」


「いや…変っていうか、その…」


ゴニョゴニョと言葉を濁す蘭丸。


(もう!なんなのー!)


苛立ちを隠せずにいると、皆をかき分けてお市様が私の前にやって来た。


「思った通り!とっても可愛いじゃない」


「あ、ありがとうございます?」


思わぬ褒め言葉にとまどう。


「優勝はこの子で決まりね!」


きゃあきゃあと侍女たちが騒ぐ。


「ねぇ、あなたなんて名前なの?」


「私の恋人にならない?」


「美肌の秘訣は?」


侍女たちに取り囲まれ、質問攻めにされる。


「あのっ…俺はっ…文を…!」


抜け出せずにいると、


「藤吉郎!藤吉郎はおるか!」


「信長様!」


「おぬし、こんなところで何を…」


怒りを露にして信長様が近付いてくる。


侍女たちは恐れをなして道を開けた。


(───っ)


次に降ってくるであろう叱責の言葉を覚悟し、ぎゅっと目を閉じた。


「………」


(………あれ?)


そっと目を開けると、突然腕を引かれた。


「あのっ!信長様!?」


そのままずんずん歩いて行き、信長様の居室に入った。


初めてこの城に来たあの日のように座る。


「単刀直入に聞く。おぬし、女だな?」


「いえ、俺は男です」


動揺する心を悟られぬように強く言い切る。


「正直に申せ」


「男です」


「誠か?嘘であったら斬るぞ」


信長様はそう言いつつ、刀をお秀の首筋に押し当て、衿元に手を伸ばす。


「っ!」


「もう一度だけ聞く。おぬしは誠に男か?」


「………いえ、私は…女、です…」


震えながら答える。


やはりな、と信長様はお秀を解放した。


「おぬし、もしや忍か?」


「ちっ、違います!!」


お秀は全力で首を横に振った。


「で、あろうな」


信長様はふっと笑った。


「おぬしのようなのろまに忍は務まらん」


「そんなことないです!」


からかうような信長様の口調に、お秀はむぅと頬をふくらませた。


「……」


「……」


信長様は何か考え込んでいるようだった。


お秀はただ信長様の次の言葉を待つ。


「…誠の名は」


「秀と申します」


「ではお秀に命ずる。今すぐ実家へ帰れ」


「えっ!?」


予期せぬ言葉に不意を衝かれる。


「聞こえなかったか?帰れと申した」


「何故にございますか!?」


「女に小姓は務まらん。護衛も兼ねておる故

な」


「……」


何も、言い返せなかった。


ゆっくりと立ち上がり、襖に手をかける。


最後に振り返り、そっと信長様を見つめる。


(…きれいな横顔)


今日まで、信長様のいろんな表情かおを見てきた。


もっと、ずっと、見ていたかった。


たまらなくなって声を上げた。


「あのっ、信長様!」


「何じゃ」


「………何でもありませぬ」


「用が無いなら呼ぶな」


冷たい。少しくらい別れを惜しんでくれたらいいのに。


最後にもう一度だけ、信長様の温かさを感じたい。


「信長様!」


「今度は何じゃ」


やっと目が合う。


「信長様が欲しいです!!」


「……」


僅かに目を見開き、言葉を失う信長様。


「前に、欲しいものが見つかったらいつでも

申せと言ってくださったじゃありません

か!」


「あぁ…」


「だから私は信長様が欲し…」


(っ!!)


堰を切ったように抱きしめられた。


温かい。あの日と変わらない温かさだ。


なぜか涙がこぼれる。


───っと、温かさが離れて行く。


(あっ!行かないで─────っ!!)


唇に、温かさが触れる。


どんな言葉よりも、信長様の想いが伝わってきた。




 この日の出来事はお秀にとって、夢幻のようだった。


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