その空気を。

秋本カナタ

その空気を。

 幼い頃の私は、自転車に乗るのが苦手だった。


「いいよいいよ、その調子! そのまま、落ち着いて漕いでみて!」


 楽しそうに嬉しそうに、父は笑顔で私を励ましていた。その声援も、私は苦手だった。成功させないといけない重圧を感じる。ここで失敗したら、父を失望させてしまう。幼いながらに、いつもそんなことを考えてしまう私がいた。


 がしゃん、と音を立てて自転車が倒れる。何回転んだのか、数えるのを途中でやめたくらいに。父はその度に駆け寄ってきて、心配そうに頭を撫でる。


「ふう、よかった、怪我はないみたいだね。今日はもうこの辺にしておこうか?」


 あくまでその言葉は私を気遣ってのものだ。それは分かっている。だが、幼い私にはその優しさがどうにも耐え難かった。お前は期待外れだと言われた気がした。首を降り、自分で自転車を起こしてもう一度漕ぎ出すと、父は再び笑顔で声援を送っていた。


 結局、そのまま自転車に乗れることはなく、私は涙を堪えて家に帰った。次こそ乗れるさ、焦ることはないよ、と父は元気付けたが、相変わらず逆効果でしかなかった。


「まあ、泥だらけじゃない! 大丈夫?」


 玄関で、母は必要以上に大きな声で驚いた。怒った様子ではなかった。いつも私が答えようとする前に、父が私の状態を説明してくれた。今日は頑張ったからね、と嬉しそうに話す父に、母も顔を綻ばせて、なら先にお風呂に入ってきなさい、と優しく言った。


 晩御飯の時には、父と母は自分達の昔話をよく語った。


「私達も、あなたくらいの時はまだ乗れなかったわ。でも、練習すればすぐに乗れるようになった。だから、あなたもきっと大丈夫よ」


「父さんも同じさ。誰しも最初は初心者なんだ。落ち込むことはないよ」


 落ち込んでいるという自覚はなかった。ただ、父の期待に応えられなかったことが残念だっただけだ。


 だが、二人の言葉を聞いていると、私は今落ち込んでいなければいけないのではないか、という気持ちになってきていた。自転車に乗れないという状況で落ち込む子供が、それを乗り越える克己心を持ち始めることを彼らは私に期待している。それが伝わってきて、私はそれに応えるように、沈んだ様子で頷いてみせた。


 父と母は、満足したように笑顔を見せ、また明日頑張ろう、と声をかけた。



 

 私が自転車に乗れたのは、それから一週間後のことだった。私は素直に喜んだ。その日も父は一緒にいて、乗れた瞬間には私以上に喜んでいた。それを見て、ここで私が喜ぶことは間違ってはいなかったのだ、と感じた。


 母も自分のことのように喜んでくれた。今夜はご馳走ね、という言葉通り、その日の晩御飯はお寿司がテーブルいっぱいに並んだ。子供ながらに私は、自転車が乗れたというだけでここまでするものなのだろうか、と疑問に感じた。


「子供が遠慮なんてしないの。今日は嬉しい日なんだから、嬉しくしてていいのよ」


 問う私に、母は嬉しそうにそう答えた。父も頷いて、今度父さんとどこかへサイクリングに行こう、と嬉しそうに言った。だから、私も嬉しそうに頷いておいた。


 嬉しい日はみんなで嬉しくしておくべきなのか、と私は学んだ。



 

 少し後に、自転車事故で同級生が一人死んだ。自転車が乗れなかった私をいつもいじめていた嫌な奴だった。自転車が乗れるようになった後も、他のことでいじめてきた。でもクラスメイトだったからと、みんなで葬式に行った。


 みんなは泣いていた。先生も、大人も、みんな子供みたいに涙を流していた。だが私にはその理由が分からなかった。


 私にとって、それは嬉しい日だった。これで私はいじめられなくなる。嫌なことがなくなる。幼い私は、単純にそう考えた。


 だから、その同級生の遺影の前で、私は嬉しそうに笑った。


 私が嬉しいことは、みんなも嬉しいことだ。私が嬉しそうにしていれば、みんなも嬉しそうにするはずだ。


 そう思った。



 

 父と母と先生と、それから知らない男の人と女の人が、狭い部屋で私を取り囲んで睨んでいた。私は怖かった。彼らが何に怒っているのか、何を考えているのか、全く分からなかった。


 父と母は、他の人達に一生懸命謝っていた。その後で私にも、謝りなさいと言ってきた。私は訳も分からないまま、流されるように謝った。謝らなければいけない雰囲気だったから。


「あの子は、少しおかしいのかもしれない」

 

 帰った後で、そんな父の声が別の部屋から聞こえてきた。私は顔を見せず、そのまま自分の部屋に戻った。


 二人が私を見る目は、それ以来険しくなった。以前のような優しさはどこかへ行ってしまった。初めは怖かったその視線も、私はこれから大人しくしなければならないのだと気付くと、徐々に気にならなくなった。



 

 流されるように人生を歩んだ私は、大学に入って一人暮らしを始めた。友達も出来、勧められたサークルに入った。話に入れるように、様々な趣味に手を出しては、すぐに辞めた。そのおかげか、人との会話に困ることはなかった。


 ただ、飲み会は苦手だった。みんなが酒を飲んでいる中で、私一人が飲まないわけにはいかない。その空気を感じた。酒は弱かったが、飲み会の度に他人に合わせて飲んでは、胃が空になるほど吐いた。


 よく頼まれ事もした。断るはずもなかった。彼らはその度に私に感謝した。それを続けている内に、いつの間にか友人たちは学校に来なくなり、私に代返を任せるようになった。


 友人たちは、そんな私をいい奴だと褒めた。


 私は間違っていなかったのだ、と安心した。


 


 それから何年も実家に顔を出さないまま、父と母の二人が事故で他界した。葬式では、私はちゃんと悲しんだ。


 二人の遺影に使われていたのは、どちらも優しそうな笑顔だった。私が自転車に初めて乗れた時に見せた、あの嬉しそうな表情に似ていた。いつ撮った写真なのか聞くと、私が大学に合格した辺りだった。


 私はそこで初めて、心から泣いた。




 もしかしたらこの場は、心から泣かなければならない空気なのだろうか、と感じながら。

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