第6話 それで十分です

 前触れもなく扉が開く音がし、聖堂の空気が揺れた。女神の像の前で両膝を折っていたカーパルは、おもむろに振り返る。

 開かれた戸の向こう側に立っていたのは、ジンデとセレイラだった。静かに頭を下げたジンデの隣で、セレイラが微笑む。

 カーパルはそっと立ち上がった。緩やかに揺れた樺色のスカートが、白く輝く細い道の上を撫でる。

「カーパル様、セレイラ殿をお連れしました」

「ジンデ、ありがとう」

 顔を歪めているジンデへと、カーパルはわずかに笑みを向けた。聖堂に満ちた甘い香りに目眩を覚えただけだろうと、さしたる心配はしない。いつものことだ。

 その間、セレイラは天井、窓、壁、床と順繰り見回していた。そして最後に、この部屋の中で最も目を惹く紫色の花へ視線を向ける。

 もうこの星にはないとされる藤の花は、火事の影響も受けずに今も咲き誇っていた。季節にも時刻にも左右されることがない。この場所だけが、まるで時が止まっているかのようだった。

「ここが聖堂なのですね」

「ええ、そうです」

 セレイラの囁き声もカーパルの返答も、瞬く間に花びらが吸い込んでしまう。銀白色の服を正して、セレイラは軽く一礼した。そして静かに聖堂の中へと踏み込む。規則正しい靴音が部屋の中でかすかに反響した。

 ジンデはセレイラを見送るばかりで、微動だにしない。

「とても厳かで、綺麗で、でも物悲しい」

「一人取り残された女神を象徴しているのだと、私の兄は言っていましたね。そうかもしれません」

 素直に感想を述べるセレイラへと、カーパルは微苦笑を向けた。根拠のない話どころか、単なる解釈の一つだ。答えを知る者はこの世界にはいない。そもそもいたのかどうかもわからない。

 道を踏みしめるように歩くセレイラは、子どもじみた仕草で頭を傾けた。柔らかくうねる胡桃色の髪が揺れ、肩口で跳ねる。

「女神は取り残された者だと? そんな話がここにはあるのですか?」

「力を持つ者の中でただ一人と、そう言われています。裏付ける記述は少ないですが」

「本当にこの星には多くの情報が残されているんですね」

「この国で起きたことですから」

「ええ、そうですね。実際に起きたことですからね」

 深々と相槌を打ったセレイラは、突然くすりと笑い声を漏らした。ついでさらに一歩カーパルの方へ進み出て、辺りを見回す。

 少し吸い込むだけで世界が変わるような甘い香りが、ここには濃厚に立ちこめている。来訪者も意に介さず咲き誇る花を見つめ、セレイラは口角を上げた。

「失礼。こんなにすんなりと話が通ることが、嬉しいと同時に不思議で」

「すんなりと……?」

「第一期の実在については、私たち研究者でも信じていない者が優勢なんです。数多くの研究者が集まるイルーオでさえそうでした。宇宙にはほとんど、第一期の痕跡が残されていないものですから」

 説明しながら、セレイラは感嘆の吐息を漏らす。カーパルは黒い瞳を細めて「そうでしたか」と答えた。

 地球には女神の力に関与する物が多く残されているが、それでもその大多数がニーミナにある。何らかの理由で集められたのか、それとも幾度もの争いの中で失われただけなのか、今となっては知る由もなかった。

「女神はあえて痕跡を消したのだとも言われていますね。全て推測でしかありませんが」

 だがあまりに不自然な消え方をしていると、そういった説を唱える者もいた。答えが出ることはないだろう。けれども、そこは問題とならない。

 どう解釈し、それをどう女神の心と結びつけ、各自が思いを馳せるかの方が、ウィスタリア教では大切だと説かれている。正解を決めることができる人間はいない。

「なるほど、一理ありますね」

 セレイラは大仰に頷き、また周囲へと視線を巡らせた。ちょうど女神の像へと陽光が射し込む時間帯だ。光を浴びた像は輪郭が曖昧ながらも、花に埋め尽くされそうな聖堂の中で、その存在を主張している。

 像の手元を見つめて、セレイラは口を開いた。

「こんなに心弾むことは滅多にありません。あなたは歴史についてよくご存じでいらっしゃる。本当は、あなたを連れていけたらよかったのですが……」

「何度も申しました通り、それは無理です。私はこの国を守らなくては」

「ええ、わかっています。この聖堂に入れてくださっただけでも感謝しなくてはいけませんね。またアースに来た時にでもお話を聞かせてください。それまでに、こちらも準備をしておきますから」

 セレイラはわずかに眉尻を下げ、口の端を上げた。頭を振ったカーパルは小さく嘆息する。

 しばし、聖堂に静寂が満ちた。カーパルもセレイラも視線を合わせることなく、ただ黙って女神の像を見上げていた。扉の傍でジンデが身じろぎをする気配があるくらいか。

 まるで女神が応えてくれるのを待っているがごとく、二人は口を閉ざし立ち尽くす。像へと差し込む光の揺らぎだけが、時の流れを告げていた。

「ウルナさんの瞳、見せていただきました」

 先に沈黙を打ち破ったのはセレイラだった。彼女の静かな眼差しが、おもむろにカーパルへと向けられる。

 カーパルは唇を引き結んだままその視線を受け止めた。今度は互いに目を逸らすことなく、かといって探り合うようなこともなく、ただ見つめ合う。

「驚きました。エメラルド鉱石ですね」

「エメラ……ルド?」

「そう呼ばれている物です。実際のところは鉱石ですらないようです。力を発揮する際に独特の緑の輝きを帯びるがために、そう名付けられたと。第一期の物には間違いありませんが、謎に包まれた物質の一つですね。あまりに希少価値が高すぎて、実は私も直に触れたことがありません」

 セレイラは微笑んだ。カーパルは瞳を瞬かせて、頭を傾ける。何かを言おうと口を開けども、すぐに言葉となって出てこなかった。

 セレイラはそっと自らの胸へと手を当てる。カーパルはその白い手の甲へと一瞥をくれ、顔をしかめた。

「直に……。それでもわかるのですね」

「これでも長く関わっている者ですから。――意外でしたか?」

「いえ、そういうわけでは。そういった物事については、あなたの方が詳しそうですね」

「鉱石も合金も、保護しながら調べていかなければなりませんからね。なかなか難しいんです」

 セレイラはもう一度女神の像を見上げた。カーパルもつられて顔を上げた。

 日光に照らされて輝く像は、微笑んでいるようにも、哀れんでいるようにも、悲しんでいるようにも見える。時には怒りを感じると述べる人もいる。単に像の前に立つ者の心を映しているのだとも言われていた。鏡のようなものだと。

「あなたは、女神には会われたのですか?」

 女神像から目を離さず、凛とした声でセレイラが問う。曖昧な笑みを浮かべたカーパルは、ゆっくり首を横に振った。

 カーパルにとっては何度も尋ねられた内容だった。奇跡の人として認知される前から、ずっと前から、人は彼女に尋ねるのだった。血を色濃く受け継いだ者として、ある時は縋られるように、ある時は怒りさえ向けられ、何度も求められた。女神の実在を証明して欲しいという人々の願い故だ。

「会ってはいません。感じて、見かけて、それだけです。けれども、それで十分です。その方がいいのです」

「そうですか。ええ、そうかもしれませんね」

 返答も決まっていた。嘘偽りのない言葉を、今日もカーパルは口にした。セレイラは熱に浮かされたように何度か首を縦に振り、女神像へと手を伸ばす。白い指先の上に、天井の窓から光が降り注いだ。

 カーパルは安堵の吐息を漏らし、一度固く瞼を閉じる。

「ウルナたちを、よろしくお願いします」

 抑揚の乏しいカーパルの声が、聖堂の空気を揺らした。遠くでジンデが何やら言いたげに咳払いしたが、それは瞬く間に花の中へと飲み込まれる。

 カーパルもセレイラも振り返りはしなかった。セレイラは相槌を打つと、たおやかに手を下ろす。

「もちろんです」

 はっきりと告げたセレイラの言葉も、やはり即座に花びらへと吸い込まれていった。二人はそれ以上、言葉を交わさなかった。思いは全て、何も応えぬ女神の像へ向けられるのみ。

 誰もがその場をすぐに立ち去ることができず、濃厚な静寂が聖堂に満ちた。それでも女神像は悠然と、全てを見守っていた。

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