【Yanagikouji】Station

21.「帰らずのひと」

 明くる日の朝、僕は江ノ電の中で「FX投資」に関する基本的なことを本で勉強しながら出勤した。昨夜はデモ取引だと思って気軽に、ポチっとやった取引で、実はそれはデモじゃなく、ガチだったわけで、結局12000円も儲けちゃったんだけど、早速その儲けはモモコに金利と名義使用料だって名目で、即刻差っ引かれて、目下の僕の【純資産額】は300000円に逆戻りしちゃったんだけどね。

 まっ、お父上が指定したゲームのスタート日が来週の月曜からだから、まっいっかーって諦めたんだけど、モモコってお金にはやけにシビアなんだよねー「成城」のお嬢様だっていうのに———。


 いつも乗る時間のより一本遅い電車だったんで、「藤沢駅」に着いた時には始業時間十五分前だった。

 行員専用の裏口の金属ドアを少し開けた瞬間、加藤課長の罵声が事務所内に響き渡っていた。罵声を浴びているのは八坂先輩だと、見ないでもわかった。


 ——まだ、一件も売れてないってのは、どういうことなんだ?、ええ?


 加藤課長は、八坂先輩が先月よりノルマアップされた「投資信託」の販売が、月半ばも近いのに一件も販売できてないことに怒り狂ってたんだ。


 ——おめぇーよ、毎日、ナニ仕事やってんだ? 外回り行ってくるっていいながら、どっかででも売ってんじゃねーか? 肝心の売らずによぉー


 ——いえ、毎日、二十軒以上は顧客廻りはしています……


 今まで、めったに反論や口応えなんかしなかった八坂先輩の態度に、加藤課長は面白くなかったのか、さらに顔を真っ赤にして八坂先輩をなじりはじめたんだ


 ——猿みたいに廻わりゃいいってもんじゃねーんだよっ! まっ、猿がなら客から投げ銭くらいは貰えるけど、てめぇーは、も逆に会社から給料だけ盗んでるじゃねーか、猿以下って、ことか、てめぇーはよぉーっ!


 当事者でないものでも、加藤課長の吐く汚い言葉は精神をやられそうだった。僕は胃の底から酸っぱいものが喉まで湧き上がってきて、思わずトイレに駆け込んだ。


 ——いいかぁー、他のもんもよーく聞いとけよぉー。自分の食い扶持くらいは自分で稼いでくれよなぁー、ここの店、俺がいなきゃ本店からとっくに「お取り潰し」だぞっ。わかってんのかっ!


 加藤課長は、支店長室にも聞こえるような声で怒鳴り散らした。きっとあれは公原支店長へのあてこすりのつもりで言ってんだろぉーなって、僕は新人ながら、その辺のことはなぜか敏感に感じとれるようになってたんだ。


 八坂先輩は背中の後ろで両の拳を腕の筋肉が筋立ってみえるほど強く握りしめて耐えていた。


 僕がもし、八坂先輩の立場なら——。


 考えただけで冷や汗が出て来て、きっと一月ももたずに精神崩壊して、JRの急行電車かなにかに飛び込んでんじゃないかって思えて、腰から下がひんやり冷たくなっていくのがわかった。


 すいませんっ! すいませんっ!……… ————ってなんども同じ言葉を繰り返して、なんとかその場を逃れて外廻りに逃げるように出て行った八坂先輩は、その日、生きて支店には帰ってこなかった——。



 夕方、僕が外回りから帰ってくると、支店内は蜂の巣を突いたような大騒ぎになっていた。いったいなにがあったんだと思い、ちょっと古株の女子行員さんに訊いて、ぼくは思わず鞄を床に落とした。


 八坂さん……、JR「戸塚駅」で急行電車に飛び込んだらしいの———。


 僕は、咄嗟に加藤課長の姿を探したが、支店長室で警察の事情聴取を受けている最中だった。

 僕は、できるならその刑事さんにたかった。


 八坂先輩を殺したのは、加藤課長です——と。


 もちろん、そんなこと僕にはできないとわかっているんだけどね。

 それでも——、それでも八坂先輩のためになにか一矢報いてあげたくて、おもいっきり加藤課長の机の横のゴミ箱を蹴り上げたんだ。


 灰色のプラスチックのゴミ箱は、あっちこっちの机の角にぶつかって最後はコロコロと転がって止まった。その横には加藤課長が無造作に丸めて捨てた紙屑が物言わず加藤課長の机を睨みあげていて、僕にはそれが八坂先輩の怨念に違いないって——どうしたって、そう思い込もうとしていた。


 これが、こんな理不尽なことが、社会に出て仕事をして、生きていくことなのか——、僕にはまだ、理解できなかったし、わかりたくもなかった。

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