妄想漬物電車

那由多

妄想漬物電車

 上月麻耶はとにかく朝が苦手だった。

 学生時代から得意ではなかったが、それが社会人になっても続くなんて。あの頃は母親が起こしてくれていたけど、今は一人暮らしだから何とかして自分で起きねばならない。そのプレッシャーがさらに早起きを苦手にしているのか、むしろ社会人になってからの方が苦しみが増したように思える。目覚ましをいくらかけていても、三日に一度は寝過ごして家を飛び出す羽目になるのだ。この間はとうとう本当に遅刻してしまった。

 この日も布団から跳び起きねばならず、当然のように朝食を食べている時間が無かった。駆け込んだコンビニで野菜ジュースだけ買って、スクランブル交差点を人ごみと一緒に早足で渡る。地下鉄の駅に続く階段を駆け下りて、定期券を改札機に滑り込ませる間に、電車の到着を知らせるアナウンスが聞こえた。エスカレーターでゆっくりと下っていく人々を横目に階段を駆け下りる。分かっていた事だが、そこには既に人の海が広がっていた。

 その海に飛び込む前に、さっき買った野菜ジュースを一気に飲み干す。ゴミをビニル袋に入れてからバッグにしまえば準備は完了だ。平泳ぎよろしく人ごみを掻き分けて目当ての車輌が停止する位置まで移動を開始する。

 何とかそこへ辿り着くと同時に、ホームに緑色の列車が入ってきた。スライド式のドアが開き、開放された人々がホームに流れ出してくる。その流れに巻き込まれぬよう迂回をして、乗車を待つ人々の一番後ろでようやく立ち止まることができた。

 深々と溜息を吐くと、彼女の中に毎朝ある疑問が浮かび上がってくる。

 どうして私はここにいるんだろう。

 ここから更に一時間。人と人の間で潰されそうになりながら、ずっと立っていなければならないこの苦痛。

 麻耶の目には緑色の車体が拷問器具にしか見えない。拷問から解放された人々が去り、新たなる犠牲者が飲み込まれる。その流れに乗って、麻耶も緑色の拷問器具の中に入った。

「できるだけ、奥にお進みください」

 無慈悲なる車掌のアナウンス。

 列車の中は人でひしめき合い、腕一本を動かすことも容易ではない。いわゆる「鮨詰め状態」という奴だが、麻耶は何となく違うような気がしていた。寿司の入った折というのは、もっと整然としている物だ。こんな雑然と詰め込まれるようなことはきっと無い。そんなことをしてしまったら、寿司が台無しになるじゃないか。

 別のものは無いかと考えていて、樽の中に詰め込まれる沢庵をふと思い出した。昨日テレビでやっていた。樽の中に並べられ、詰め込まれていく大根達。そして大量の糠味噌。きっと下の方は押し潰されるのだろう。

 そういう感じは、まさに満員電車だ。私達もここを出るときには、程よく漬かっているのだわ。

 何に漬かっているのかは分からないけど、何と無くそう思う。

 今日はグレーのスーツを着ているから、私はサトイモね。サトイモの漬物?聞いたことも無い。けど、他に灰色の野菜も思いつかない。

 隣の人は白っぽいから大根。あっちの深緑はキュウリ。紺色は……紺色の野菜?よく漬かったナスビとか。でも、古漬けにしては色鮮やかだ。きっと、達人の手で漬け込まれたのだろう。

 ちょっと楽しくなってきた。見える範囲の人間が、次々野菜に見えてくる。

 あの赤い女はカブね。

 あ、あいつも深緑だけど、キュウリというよりはウリね、ウリ。

 お、賀茂ナス発見。何とも丸っこい。

 賀茂ナスは漬物より田楽よね。京都で食べたナス田楽は美味しかったなぁ。

 不意に、その賀茂ナスが顔を上げ、図らずも目が合った。顔見知りではない。丸っこい、脂ぎった顔の男だ。賀茂ナスはさっぱりした食べ物なのに。勝手に残念がっていると、突然その顔が笑った。何というか、メガネが頬肉に食い込みそうな笑い顔だった。

 それを見た途端に麻耶はとてつもなく恥ずかしい思いに捕らわれた。自分の頭の中を覗かれたような気がして、慌てて麻耶は目を逸らした。顔が真っ赤になるのが分かった。なんだか周りが全員麻耶を馬鹿にしているような気がして、とても顔を上げていられなかった。

 まだ二十代の癖に、漬物だって。

 ひょっとして、年を誤魔化しているんじゃないのか。

 食品関係の偽装工作許すまじ。正しき年齢を述べよ。

 家で糠漬けをつけていそうな女第一位は上月麻耶さんに決定いたしました。

 そんな声が頭の中でぐるぐるとまわる。麻耶は地下鉄から飛び降りたい衝動に駆られた。だが無理だ。なにせ地下鉄はとっくの昔に動き出している。爪先を一センチずらすことも侭ならないこの状態で、どうやって飛び出すなどできるものか。完全に捕らわれの身だった。

 とにかく俯いて、できるだけ目線を上げないように。

 その視界に、白いストッキングの足が飛び込んできた。

 大根足……たくあん……。

 あっちは細いな……。

 ごぼう……ごぼうの漬物も美味しいよね。

 お茶漬けにして……、いやいやそうじゃない。

 慌ててその連想を振り払う。何て危ない。

 顔を下げているのは危険だから、麻耶は慌てて上を向いた。背の低い麻耶の目の前には、幅広の背中。窓の外も見えやしない。見えたところで、真っ暗な壁が続くだけだけど。

仕方なく上を見上げた。

週刊誌の広告が吊下げられていた。

「有名アイドルA.K合コンでお持ち帰り」

「今、日本が危ない、某大国の罠に気をつけろ」

「今年の夏はこれ!!新色バッグ続々登場」

「朝はご飯。朝食を食べる人は成功する」

 ご飯……。

 そう言えば、お腹減ったな。野菜ジュースだけだもの、当たり前よね。せめてご飯を食べられる時間には起きたい。目覚まし増やそうかな。

 ぐうぅぅぅぅ。

 突然、麻耶のお腹が大きな音を立てた。慌ててお腹を抑える。

 誰かに聞かれなかった?

 可能な限りで周りを見回す。あの人は大丈夫。向こうも気づかれてはいないみたい。

 いた。賀茂ナスだ。こっちを見ている。あの笑い顔だ。脂汗で、いや染み出した水分で眼鏡がべたべたになってそうなあの笑い方。

 聞かれたんだ。

 恥ずかしさで爆発してしまいそうだった。

 あんな賀茂ナス、ご飯さえあれば一口なのに。

「あるよ」

 誰かが言った。見ると、左手にはいつの間にか御飯茶碗。そこにはホカホカと湯気の立つ白いご飯がこんもりと盛られている。声はそこから出ていた。

 そして右手にはお箸。いつも家で使っている水色の塗り箸。一人暮らしを始めるにあたって、わざわざ家から持ってきた古き良き相棒。

 漬物相手にこの装備なら、負けるはずが無いじゃないか。

 今の私は無敵かもしれない。

「頑張ってね」

 応援してくれているのは右手のお箸だった。長年食事を共にしてきた相棒。このお箸だけが私の心を理解してくれる相棒なのだ。

 おっと、嫉妬しないでお茶碗。お前はこの間うちに来たばかりでしょう。これから、一緒に絆を深めていくのよ。そう、いずれは私の頼もしき相棒となってね。

 嬉しくて頼もしくて、麻耶は自分の頬が熱くなっていくのを感じた。それはご飯のパワーだ。炭水化物最高。

 お箸を持った右手を伸ばす。嫌らしい笑みの張り付いた顔を思い切り挟んで、そのまま引っこ抜く。

 すぽんと音を立てて賀茂ナスが抜けた。

「ふふん、ざまぁみなさい」

 勝ち誇る麻耶。さあ、しょんぼりした賀茂ナスの顔を見てやろうかしら。

「それはどうかな?」

 賀茂ナスの笑い顔はちっとも治まっていなかった。ニヤニヤしながら麻耶を見ている。

 引っこ抜いたのに。

 俎上の鯉ならぬ、ホカホカご飯の上の賀茂ナスなのに。

 最早食べられるのを待つだけの悲しき漬物に、何の余裕があるというの。

「周りを見てごらん」

 賀茂ナスはそう言った。

「え?」

 言われるままに見回すと、周りはいつの間にか賀茂ナスだらけだった。

 大根も、キュウリも、カブもごぼうも、全部賀茂ナスに変わっていて、麻耶をニヤニヤと笑いながら見つめていた。

「まだ二十代なのに」

「漬物だって」

「糠床をもってそう」

「年を誤魔化しているんじゃない?」

「第一位だ」

「漬物なんて」

「年齢詐称疑惑」

「第一位」

「糠床」

「バカみたい」

「バーカ」

「バーカ」

 賀茂ナスの大合唱が始まった。

「な、何よ……」

「バーカ、バーカ」

 いつの間にか、麻耶は右手に賀茂ナス、左手にも賀茂ナスを持っていた。

「ひっ!!」

 慌ててそれを放り出す。吊り広告の写真も、全て賀茂ナスになっている。麻耶は思わず耳を抑えて頭を振った。

「やめてやめて」

 視界がぐるぐる回りだした。

 バカの渦に巻き込まれて、何だか世界は真っ暗になった。


 体が揺すぶられるのを感じた。

「麻耶、麻耶」

 目を開けると、目の前には見慣れた同僚である柘植雅美の顔。不自然な角度に一瞬迷ったが、どうやら自分は横たわっていて、覗き込まれているのだと理解した。

「あれ? 雅美?」

「あ、気がついた」

 呆れたような雅美の顔。

「ここは?」

「駅の仮眠室よ。貸して貰ってるの」

 雅美はそう言って、それから小さく溜息をついた。

「ほら、起きれる?」

 言われて起き上がろうとして、ちょっと体がふらつく。

「全く、また朝御飯抜いたのね」

「うん、時間が無かったから」

「そんな事するから、電車の中で倒れたりするのよ。一回や二回じゃないわよ? いい加減学びなさいよ」

「でも……賀茂ナスが……」

 麻耶の言葉に雅美は眉をひそめた。

「何言ってるの? 大丈夫?」

 真顔で尋ねられると、ちょっと自信が無い。

「賀茂ナス? 食べたいの? じゃあ、今度の休みに京都でも行く?」

「ううん……いい」

 賀茂ナスを思い出すと、どうしてもあの嫌らしい笑顔が目に浮かぶ。あんな悪夢のような光景は、もうごめんだった。

 と、その時、ドアがノックされた。

「はい?」

 麻耶の代わりに雅美が返事をした。

「あの、大丈夫でしたか?」

 男の声だった。

「ああ、はい、もう大丈夫です」

「失礼しても良いですか?」

「ええ、どうぞ」

 雅美はそう言ってから、すかさず麻耶のほうを向き直った。

「あんたが倒れたのを見つけてくれて、運んでくれた人よ。ちゃんとお礼言いなさいよ」

「う……うん」

 そう言いつつ、麻耶は嫌な予感が拭い切れない。

 ゆっくりとノブが回り、そしてドアが内側へと開いていく。

「失礼します」

 ドア越しで無いその声は、麻耶に確信を抱かせる。

 この声に聞き覚えがある。

 そして、声の主が顔を覗かせた。

「賀茂ナス!!」

 何てこと、こんなところまで。

 賀茂ナスと目線が合う。

 にやりと、賀茂ナスが笑った。

「どうしたの?」

 雅美の顔もつるんとした紫色だった。雅美も賀茂ナスだった。

「だ、だって……賀茂ナス……」

 そこまで言ってから、自分もつるんとした紫色であることに気付いた。

「この子ったら、何言ってるのかしら」

 賀茂ナスは苦笑いを浮かべている。

 賀茂ナスは急に恥ずかしさを感じた。

 そうだ。わたしだって賀茂ナスだったんだ。どうしてサトイモだなんて思っていたんだろう。さっきまで入っていた糠味噌の中にもう一度潜りこみたい気分だ。

「まだ混乱しているのね、もう少し休みなさいな。課長にはうまく言っとくから」

 賀茂ナスの言葉に賀茂ナスは頷いた。それから賀茂ナスに視線を移し、改めて頭を下げる。

「ありがとうございました」

 賀茂ナスは照れたように笑った。その笑顔は妙に可愛かった。さっきまで、どうしていやらしいなんて思っていたんだろう。こんなにイケてるナスなのに。

「失礼します」

 賀茂ナスは一礼して出て行った。賀茂ナスは改めて糠床に横になった。

「じゃ、お休み」

「お休み」

 賀茂ナスは賀茂ナスに糠味噌をたっぷりかけた。目が覚めるころには、私も立派な古漬けになっているわ。そんな事を思いながら、賀茂ナスは目を閉じた。


 散らかった部屋。

 蛍光灯の白い光が、部屋の中を照らしている。閉ざされたカーテンの隙間からは、白い光が漏れ差し込んでいた。

 脱ぎ散らかされたスーツ。座卓の上にはビールの空き缶。その隣に、食べかけの糠漬け。ベッドの上で寝返りを打つ影。

 床に転がった目覚まし時計の針は、十時半を指していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

妄想漬物電車 那由多 @W3506B

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ