吸血鬼の母親

 夏期講習の仕事から帰ってくると、マンションの近くでうろうろしている女性を見つけた。それに後ろから話しかける。


「夏目さん?」


 一瞬ぴょこっと、夏目さんの頭から耳が出てきた。それは雲のようにすぐ消えてしまう。


「大学は受かったそうですね。大学生活はどうですか?」


 さし当たって無難な会話から入ったが、逆に彼女ににらまれる。


「もう嫌、タロットでもどうぶつ占いでもあなたとぶんちゃん相性抜群だし……

「狐もそういう占いするんですね」


 狐のイメージが少し変わったところで、俺は夏目さんに語りかける。


「あやねさんが好きなんでしょう?」


 一度目を見開いたが、すぐに目をそらした。


「違うの、別に今更どうこうなろうってわけじゃないけど、ぶんちゃんの恋人は世界一のイケメンじゃないといや」

「面倒くさい……」

「でも、犯罪者とかならともかく人の恋路にうだうだ言うのだめだと思うし、かくなる上は先生、世界一のイケメンになってください」

「いやです」


 何なんだこの会話。どこに着地するんだ。


「しかもまだ、あやねさんとは何もないのに」

「『あやね』『また』」

「言葉のあやです!」

「まあいいわ、今日はこのくらいで許してあげる」

「そんな一方的に……」


 夏目さんはそのまま去っていった。

 なんだかどっと疲れた……。早く家に帰って血でも飲もう。



 マンションに戻って家の戸を開ける。冷蔵庫の血を取り出そうと室内に踏み出した瞬間、家の中に誰かがいるのに気づいた。

 きれいな栗毛の、陶器人形のような少女だった。そのとなりには疲れたような、物憂げなおっさんがいた。


「シロウ。元気してた?」

「マーゴ……」


 懐かしい、少しなまりのある日本語。それを聞くとどこか夢心地になった。

 呆然とする頭を必死で回して、できるだけ早く我を取り戻した。


「待て、どうやって居場所を調べたんだ。それに知らない奴を勝手に家に上げるな」

「こっちはカタギリ。どう、今知ったでしょ」

「そういう問題じゃないんだ」

「マスターにその言いぐさ?」


 マーゴは緑色のひとみをこちらに向ける。老女のようなしたたかな、淫乱な娘のような妖艶な目。

 ぐらりと視界がゆらいだ。脳内が甘くしびれる。俺は無意識のうちに謝っていた。


「悪かった、悪かったよ……」


 一瞬で我に返って、俺はマーゴに抗議した。片桐は気味の悪いうすら笑いを浮かべている。


「おまえ、やめろ」

「相変わらずかわいいのね」

「俺の中に入ってくるな」

「ねえ、私はマスター。吸血鬼にしてあげたあなたのお母さんなのよ。もう少し立ててくれてもいいんじゃない?」

「クソ女め」


「片桐。私行くわ」

「待てよ、泊まるところはあるのか」


 急に心配になって引き留める。彼女は見かけは子どもなのだ。ホテルをとるのも簡単ではない。


「カタギリがいるからどうとでもなるわ。おじゃましたわね。元気でね」


 マーガレット・シュナイダー。アメリカ生まれであること以上の、詳しい経歴は教えてくれなかった。英語風の名前とドイツ風の名字が混ざっているところを見ると、ドイツ系移民なのかもしれない。

 彼女がやってくるとは、今日は運の悪い日だ。

 戦争時代、人から逃げ回っていたことを思い出す。田舎で飢えた子どもの血をすするのは、心が痛かった。

 しかしマーゴの苦しみは、それ以上のものだったと思う。少女の外見では、ひとりで生きていけない。

 ……けれど、マーゴに見つかったからには、ここには長くいられないかもしれない。

 彼女には俺を服従させる力がある。それを使って何をされるかわからない。だからこそ俺はマーゴから逃げ出したのだ。

 しかし、マーガレットは気まぐれで、顔を見れば何もせずに帰って行くことも多かった。

 今後どう転ぶかわからなくて、とりあえず、気合いを入れるためにに少し質のいい血のパックを開けた。

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