2nd Season

1.アルバイトの危険性について

「それよりあやねちゃんのことを知りたいな」

 春が来た。

 夜の空気は湿度を持って、じんわりと重くなっている。

 階段で、見慣れたすれ違った。


「あ、こんばんは」

「おはようございます……違った、こんばんは」


 そういえば、彼にとっては目覚めたばかりだった。ちぐはぐ具合に少しおかしくなる。

 大学生になっても、わたしと河本さんの関係は変わらない。短くやりとりをして、別れるだけだ。

 徐々に長くなっていく昼のせいか、河本さんはどこか憂鬱そうに見えた。


 7時ごろ、明日の講義の予習をしていると、電子音がスマホから流れた。わたしは通話ボタンを押す。


「もしもし」

『もしもし、南コーポレーションの松井と申しますけれど。面接結果に関してですが、今回は別の方を採用することになりまして……』

「あ、はい、そうですか。はい。わかりました。残念です。それでは失礼します。はい」


 通話を切って、大きくため息をついた。

 わたしは河本さんばかりにかまけていられない事情があった。アルバイトのことである。

 学費はおばあちゃんに少しカンパしてもらったものの、家計は苦しいままだ。早くバイトをしなければならない。

 しかしバイトばかりをしていると、学業に響く。なるべく時給がいいアルバイトをやって効率よく働きたいのだが、未経験にそれは厳しい。

 空からお金が降ってこないかなあ、となんの益にもならない妄想にふけることが多かった。

 大学の勉強は、難解にはなったけれど、ついていけないほどではなくてほっとした。

 中にはすでに自主休講を繰り返し、代返などを使ってさぼりを謳歌している子もいる。

 しかしわたしは! 奨学金で来てるんだから! ちゃんと来ないといけないんだよ!

 ということでまじめに勉強はするつもりだ。それこそ面接のネタになるくらいは。



 何枚も履歴書を書き、いくつか落ち、ようやくバイトが決まった。

 そこはチェーン店カフェ「カザリナ」だった。

 お給料がいい代わりに、面接を通るのは結構難しいと言われていて、自分の幸運と能力にちょっとうぬぼれかけた。

 


 緊張で心臓がどきどきする

 レジ打ちのしかたを習い、マニュアルをさらって、ようやく「研修中」の札をつけて店に出た。

 お客が少ないわりに時給が高い早朝シフトを希望したけれど、眠気がひたひた迫ってくる。

 バックヤードからもう一人の店員が現れた。

 首を傾げると、柔らかいベージュに染めた髪の毛が、ふわふわと踊る。


「ああ、店長が言ってた新人だね。初めまして。ぼくは一色いっしきまこと

「あ、どうも……遠藤文音です」


 この人、すごくいいにおいがする……。何のにおいかわからないけれど、甘くて眠くなるようなにおいだ。


「もしもし?」


 はっと現実に引き戻される。甘いにおいに気を取られるあまり、返事がしどろもどろになってしまった。


「これからよろしくね」

 一色さんは、花のようににこっと笑った。


 

 母がぐーすか寝ているのを後目にアルバイトの準備をする。うちは朝ご飯を作らないので、母もわざわざ起きてこない。食パンとヨーグルトで簡単におなかを満たして、早朝の町へと繰り出した。

 接客の合間に、一色さんとぽつぽつ話をした。

 一応仕事中の私語は禁止だけれど、お客のいないときならさほどうるさく言われないようだ。


「一色さんは大学生なんですか?」


 わたしと同じくらいに見えるけれど、物腰が落ち着いていて30代でも通りそうだ。


「学校はね……いろいろあって行ってないんだ」

「そうなんですか」


 言いづらそうだったので、それ以上追求するのはやめた。人にはそれぞれ理由がある。


「それよりあやねちゃんのことを知りたいな」


 一色さんを目の前にすると、風邪薬を飲んだときのように意識がぼんやりする。


「わたしですか? 別に話すこともないんですけど」

「いいから」


 甘いテノールの声が、耳から入ってきて脳内を満たす。そのあと何を話したのかよく覚えていない。

 いきなり下の名前を呼ばれたことも、バイト時間が終わってから気づいた。


「……あれ?」


 首を傾げながら、重たいかばんを抱えて大学と向かった。



 早朝はまだ肌寒い。

 週4回のアルバイトは、多少の失敗はあるにしろ、一応滞りなく進んだ。

 何もすることがないときは、一色さんを眺めていることが多かった。

 長いまつげが空気に揺れるさまに、ぼんやりと見入った。


「一色さんはきれいですね」

 

 バイト中、口をついて出た言葉に自分でぎょっとした。わたしはこんなことを言うタイプではなかったのに。


「ありがと。あやねちゃんもかわいいよ」


 甘い匂いが鼻孔をくすぐる。くすぐったくてどきどきする。と同時に、言い知れない恐怖を感じた。わたしの好きな人は河本さんなんじゃなかったっけ?

 いや、何もおかしなことはない。好きという気持ちは移り変わるもの、相手が応えてくれないのならなおさらだ。ただ単にそういう時期になっただけかもしれない。

 けれどこの胸騒ぎはなんだろう。まるで何か……何か猛獣ににらまれているような恐れは。

 恋ってこんなに物騒な感情だろうか?

 その答えがわからないまま、脳が命じるままに愛想笑いを浮かべた。

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