3.そしてわたしは気づく

「食欲がなくて」

 最近何かがやばい。文系とは思えない語彙力だけど、とにかくやばい。

 

「ぶんちゃん、このごろ小食だね」


 コンビニおにぎりひとつと、小さなサラダ。対する珠希は、フライドチキンがひとつ入ったサンドイッチを食べている。おそらくコンビニで買ったものをふつうの食パンはさんでいるのだろう。豪快なお弁当だ。珠希のお母さんは料理が苦手らしく、いつもお弁当らしからぬお弁当を持ってくる。


「食欲がなくて」

「ダイエットしてるんじゃないだろうね」


 図星をつかれて、わたしはうっと言葉に詰まる。珠希は、がばっと私のおなかをつかんだ。


「ぜんぜんやせてるじゃん。何がダイエットだ」

「友だちはみんなそう言う! だいたい何食べても太らない珠希に言われたくない」

「私も太るよ。あんまり外見に出ないだけで」

「同じことだよ!」


 わたしの激しい抵抗を受け、珠希はいすに座り直した。それからまじまじとわたしを見る。

 近頃珠希は昼休みも図書館にこもっていたのに、たまに一緒にご飯を食べるとこうだ。珠希はわたしのことを気にしすぎだと思う。もっと自分のことを考えてほしい。


「なんか最近、ちょっと変だね」

「そうかな?」

「まあ、あれこれ聞くのもなんだけどさぁ」


 わたしは目をそらす。緊張のあまり口の中が乾いてきた。珠希はもったいぶるようにゆっくりと、声を小さくした。風に乗せられてかすかに動物の毛皮のにおいが漂う。


「男には気をつけるんだよ」


 これだから狐は嫌なんだ。



 一日中頭がぼんやりする。だけど授業は受けなければならない。眠気にもうろうとしながら学校の授業をこなし、自習室に寄り道をして、帰ってきたころはずいぶん暗かった。マンションの前を、くせ毛の男性が通りかかる。


「あの、こんばんは」

「こんばんは。最近遅いですね」


 ぎくりとした。昼が長いこのごろは、なかなか会えるチャンスがない。学校の図書館に寄って、わざと遅く帰ってくることもある。お母さんがいつも遅くなりがちでよかった。怒られることが少ないから。


「勉強がんばってくださいね」

「はい」


 心臓がどくどくと脈打つ。耳のあたりがゆだったように熱い。

 河本さんは、わたしの表情に気づかないまま、マンションに去っていった。



 母が帰ってきて20分で晩ご飯が完成した。


「で、最近どう、ぶんちゃん」


 ごっそり化粧を落としたお母さんは、正直ただのおばさんだった。現実というのは悲しいものだ。美貌のシングルマザーに、それっぽいメールやメッセージを送ってくる男たちは、早くこれを知った方がいい。


「板東志紀のTwitterをフォローし始めたんだけどね。なんかいつもどこかしら旅行してるな。写真うまいんだよね」

「芸能人だからかなー。なんかあんた芸能人の趣味しぶいよね」

「なんだろ……年上の方が気楽に見れるんだよね。同じくらいだと妙に感情移入しすぎちゃって」


 今日の晩ご飯は、三割引で買ってきた山盛りのざるそばと、お総菜屋さんで買ってきた天ぷら。夏の暑い日は手抜きが基本だ。

 しかし箸が進まない。二、三本ずつそばをとっては、もそもそと食べる。天ぷらも油っぽくてうまく食べられない。


「ごちそうさま」

「もう? もっと食べなさいな」

 

そう言われて箸を握り直し、ざるそばをけだるくつつく。


「なんかくらくらする。食欲もないし」


 心理的なものだろうな、ということは口に出せなかった。馬鹿にされてしまいそうで怖かったから。

 しかし、お母さんはふと真顔になった。


「病院いっといで」



「貧血だね」

 

 内科医は電子カルテをパソコンに打ち込みながら答えた。アイスブルーと白で統一された診察室は寒々しく、寒気がするのは貧血のせいだけではない気がした。

 お母さんから病院に行くように言われて二日後、近くの病院に来てみるとこれだった。


「鉄分の錠剤少し出したげるから飲んでね。あと肉をたくさん食べるように。ダイエット中の若い女の子に多いんだよ」

「はあ……」

「無理はしないように」


 医者は顔をパソコンから上げてくれない。それがますますわたしをむなしくさせた。

 なんだか夢から覚めたような心地がした。恋の病の現実とはこんなものかもしれない。



 待合室で処方箋を待つ間、壁に掲げられたポスターが目に付いた。血液パックと注射器がポップな絵柄で描かれ、その回りに人形のような小さな人々が輪にになっている。そこには赤い文字でこう書かれていた。

「吸血鬼向け血液バンク 提供者募集」

 興味をもってポスターに近づく。その下に小さく書かれていた言葉が目に入った。


「男女とも、体重50kg以上の方に限ります」


 ダイエットはほどほどにしようと思った。




『どうだった?』

『貧血。鉄分の錠剤飲んでって。あと肉』

『やっぱりな~よしすき焼きしよっか。肉は豚だけど』


 ぶたのスタンプがぺたりと張り付けられる。


『豚かよ』


 自転車に乗る前に、母と短いテキストチャットをして、わたしはスマートフォンをスリープにした。

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