2.狐の片思い

「結婚されているんですか」

 鋭くなっていく日差しが、窓越しにじりじりと首筋を焼く。まだ初夏なのに、日焼け止めを貫通しそうだ。


「ぶん太。そんな格好で寝てると焼けるよ」


 考えていたことそのままを珠希に言われた。切れ長の鋭い目がこちらを見下ろす。


「せめて女の子っぽく呼んでってば」


 わたしは机からむくりと起きあがる。髪の毛がすでに熱を持っている。

 珠希はしばらくわたしを見つめると、こう切り出した。


「ぶん太って志望校どこ?」

「がんばれたら県立大かな」

「そんな学校に行くなんてもったいない。志望校上げようよ!」


 なんだ、そんな話か。わたしはげんなりした。


「そりゃ、授業料の減免を受けたいから」

「ぶん太はなんで上を目指さないの? 奨学金だってあるし」


 奨学金だっていつかは返さないといけない。

 わたしはなんと言い返せばよかったんだろう。あるいは言い返さないのが正解なのだろうか。

 珠希の家がお金持ちなのは薄々気づいていた。このところそのギャップが強く感じられる。

 窓の外を見ると、まだ太陽は高かった。


 帰る支度をしていると、かばんの中でスマホが鳴った。母からだった。


『おつかいして』

『りょーかい。なに?』

『白菜(安ければ)

 牛乳

 マーガリン

 お米(2kg)』

 

 牛乳とお米……これはまた重たいものを。終わったら大げさに疲れたアピールをしておこう。

 家に帰ってかばんを置き、ジャージとTシャツに着替えてからスーパーに向かった。

牛乳は500mlのものを買い、白菜は高かったのでやめる。お米は最安値のものを選んで、マーガリンをかごに放り込んだ。

 自転車にそれらをのせると、かごの中がずっしり重たい。うっかりするとひっくり返ってしまいそうだ。

 自転車置き場に子どもと母親がいた。子どもがだたをこねているのを、母親が叱っている。わあわあと泣き出す。それを見て少し感傷的になった。

 あのころ、わたしたちはどうしようもなく貧乏だった。生活保護で二人暮らしをする生活。小学生は残酷で、いつも同じ服を着ているとすぐにからかいの種にする。

 お母さんはいつもイライラしていて、わたしはそれにおびえていた。苦境はお母さんが事務員として就職するまで続いた。

 今となっては、そんなこともあったと思い出にできるけれど、当時はとてもつらかった。

 それに同情してほしいとは思わない。ただ……ただ、そういうこともあると知ってほしい。



 自分の机に向かってノートを開く。部屋が暑い。クーラーはぎりぎりまでつけられない。おさがりの辞書で単語を調べるだけで、うっすら汗がにじむ。

 集中しなければならないのに、意識が他の方に飛んでいく。

 河本さんはどうしているだろう。顔を合わせるたびにあいさつするだけの仲だ。それでも気になってしまうのは、結局わたしも面食いなのだろう。単純な自分がくやしい。

 雑念を払おうと、スマホのラジオアプリを立ち上げる。天気予報では、今年は梅雨入りが遅れるらしい。

 なんとか今日の分の予習を終えると、お母さんが帰ってきた。お母さんはものすごい勢いで服を着替え、調理を始める。その姿は手品師のようだ。

 晩ご飯は白菜のクリーム煮の予定だったけれど、白菜が買えなかったのでキャベツで代用されていた。よくわからない料理になってしまったけれど、食べられなくはない。

 お母さんにそれとなくお米の重みを愚痴ったあと、プリントのコピーをとるためにコンビニに向かう。エレベーターホールで、河本さんにばったり出会った。


「こんばんは」

「こんばんは」

 

 河本さんが眠たげに応える。


「最近お会いしませんでしたね」

「暖かくなってくると、どうしても日が沈む時間が遅くなってですね……」

「ああ、なるほど」


 そうすると、初夏から夏の初めにかけては、吸血鬼にはつらい時期なのだろう。


「河本さんは……」


 そこまで言って、何を話そうか考えていなかったことに気づいた。とりあえず質問してみたかっただけで内容はまだ頭の中になかった。


「結婚されているんですか」


 河本さんは口をゆるめて吹き出した。失態に頭が熱くなる。


「しているように見えますか」

「いえ、すみません。忘れてください」


 どうしてこう考えなしに話しかけてしまったんだろう。結婚する吸血鬼なんて見たことがない。それにプライベートを詮索するなんてお母さんにばかにされる。


「文音さんのところは、二人だけなんでしょう?」

「ええ、そうです」


 あやね、と久しぶりに呼ばれてどきりとする。火照った頭は冷める気配がない。心臓がのどまでせり上がってきそうだ。


「そうなんですか」


 では、と言い残して、河本さんは部屋に向かった。



 エレベーターで一階に降りながら、ふとさっきの会話を思い出す。河本さんは、うちが母子家庭だということに気がついていたのだ。

 そこに何の感慨もなく、さらりと受け流されたことが、じわじわとうれしくなっていた。

 河本さんの心の内はわからない。けれどそこには確かに、気遣いがあった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る