第五話 体験入部をキリトル (一)

 四月七日六限、数Ⅰの授業――。


「この式の展開は、乗法公式を……」


 入学式から六日経つ。

 あの時の教室の緊迫感は嘘のように消えた。

 授業中、クラスメイトは周囲と小声で談笑し、帰りの約束をする。

 私もその一人だ。


 背後から手が伸び、肩に触れる。


「ねぇ、美久。今日の放課後どこ行く?」


 柚希は今日から始まる部活動の体験入部について話しているらしい。


「文化部がいいな。」

「えー、つまんなーい……。運動部行こうよ、う・ん・ど・う・ぶ!」

「運動部は嫌だよ。汗かくし……」

「バレーボールかバドミントンしたいんだけどなぁ……」


「おい、そこ煩いぞ」


 その瞬間、私は反射的に下を向いた。

 チョークが置かれた音がする。

 数学用に準備されたキャンパスノートには何も記入されていない。

 せめて黒板の文字だけでも写せていれば……。

 窮地のなかへダイブしたような感覚を得た。

 全身が熱く火照り、それを冷汗で冷却する。

 全く笑えない。


 少し間をおいて、私はおそるおそる顔を上げた。


「お前らはいつも注意されてるな!」

『すみません、気を付けます!』


 安堵からため息をつく。

 どうやら楢原慎一と原田康介が餌役を買って出てくれたらしい。

 初めてクラスメイトに感謝をした。


「危ない危ない。あたしたちじゃなくて良かったねっ!」


 背後から柚希の声が聞こえてくる。

 彼女は懲りていないみたいだ。

 私はまた、ため息をついた。



「起立、礼」

『ありがとうございましたー』


 号令、六限を終えた。

 そのまま谷越先生がホームルームを担当する。


 「昨日も言った通り、今日から体験入部期間だ。頑張れよ。じゃあ委員長……。」

 「はい……。起立」

 

 委員長、中山優里が声を放つと椅子がひかれる音が一斉に鳴り響いた。

 床に小刻みな振動を感じる。

 いつもと変わらない、ごく普通の光景。



 入学してから殆ど使用していない教科書とキャンパスノートをリュックサックにしまう。

 さて、どの部活動に参加しようか。


 私はあまり運動が得意でない。

 小さい頃からそれは変わらず、絵をかいたり、歌ったり、お茶とお菓子で友達とお喋りしたりするのを好んだ。

 そのせいか、私の肌は人より白い。

 今ではその白さがコンプレックスだ。


 答えは簡単だった。

 文化部、一択だ。

 私はその答えを伝えようと、まだ支度をしている柚希の元へ駆け寄る。


 「柚希、私やっぱり文化部まわりたい」

 「えー、やっぱり?もう……しょうがないなー!」


 バレーボール部を見てくる。と、柚希は私に宣言し、体育館へと向かっていった。

 私はそれを見送り、振り返って反対方向へと歩いた。



 豊海高校は部活動が盛んな高校だ。

 運動部、文化部に関係なく、一つ一つに部室が設けられている。

 文化部は吹奏楽部と軽音部を除いて、文化棟という建物の中に集約されていた。


 ここかあ。私は見上げる。

 古い建物だ。

 壁には赤レンガが張られ、植物の蔓が蔓延っている。

 女子高生にも趣が感じられた。情緒がある。

 良い機会だ。写真に収めようと、リュックサックからクロを取り出す。


 目を合わせる。

 やあ、豊高では初めて会ったね。私はクロに声をかける。

 そうだね、ここはいいところだ。クロは私に言葉を返す。

 ストラップを手首に巻き、両手で全身を支える。

 ノイズが出ない程度に絞り込む。

 しゃがむ。窓から誰かが覗いている。関係ない。

 下から上に向かってカメラをかまえる。

 ファインダーを覗く。鳥が多いな。

 まだだ。もうすこし……。

 少しずつシャッターに指をかける。

 いま―――。


 「あ、あの!それ、一眼レフだよね!?」


 瞬間、近くにいた鳥の群れが一斉に飛び立つ。

 そこには、緑のネクタイをしっかりと締めた眼鏡の男性が立っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る