第四話 入学初日をキリトル (三)

 初めての音。

 初めての匂い。

 そして、初めての景色がそこにあった――。



 今日から私の校長先生になるであろう、推定五〇歳前後の男性が、推定約二〇m離れたところに立ち、私よりもやや高い位置から実のない話をしている。

 新入生とその保護者、教師陣、来賓者がその一点を見つめ、その何人かが等間隔に無意味な頷きを披露し、人並みが波打っていた。


『新入生代表……』


 私の全く知らないところで選ばれたが紹介され、舞台前のマイクスタンドまで移動する。

 彼がマイクのスイッチを入れた途端、鼓膜を切り裂くような鋭い音が鳴り響いた。

 私はその一連の過程を呆然と眺めていた。



 遅刻しなかった。

 幸いにも車の交通量が少なく、予想よりも遥かに早く豊海高校に到着していた。


 豊海高校には受験をしに来て以来、訪れていなかったけれど、あの時の感動は記憶に新しい。

 

 古すぎない校舎。

 一直線に長い廊下。

 広く、乾いたグラウンド。

 何より、教室の夕日の淡い赤が射し込む様が好きだった。


 試験終盤、私がふと頭を上げると、当然のように試験官は居眠りをし、私以外の受験生はペンを黙々と走らせていた。

 日光が綺麗に磨かれた机や床ですり鉢状に反射し、空間にオレンジとグレーのグラデーションを創りだす。

 木の葉と炭の香りが混ざった、爽快な匂いが教室に充満し、落ち着いた印象へと変化させているように感じられた。

 カラン――。

 誰かが鉛筆を落としたらしい。

 私の一つ向こうの右前方の彼女が、右腕をゆっくりと持ち挙げた。

 試験官は変わらず眠っているようだ。

 私以外、誰も反応しなかった。例外はない。

 静かで、どこか神秘的に感じられる三〇秒の時が遅々と過ぎた。

 ようやく、彼女は諦めた様子で、身体を倒し、鉛筆を掴む。

 彼女の頭が半円を描くように元の位置まで戻り、また問題用紙に視点を移す。

 そして、空間が段々と修復されていく。

 嚮後、これが二度ループする。


 初めて経験した訳ではない。

 そうではないはずなのに、その空間は清新さで満ちていた。

 惹かれている。

 ここに入学してやろう。

 上から目線で私は豊海高校への入学を望んだ。

 学力が大きく足りていないのにも関わらず……。



 この高校を選んでよかった。と、何時しか始まっていた来賓挨拶を聞過し、思った。


 入学式が何の問題も無く終了し、私たちは担任の先生の先導の元、1-C教室に移動した。

 生徒は私を含め、三〇人。

 1-Cはそれに谷越先生を加えた三一人で構成される。

 クラスは張りつめた雰囲気で、私は今にも抜け出したい衝動に駆られる。

 谷越先生、お願いだから何とかしてください……。目線で訴えてみるが失敗に終わる。


「先生から順に自己紹介をしよう。」


 先生から順に……?

 先生の言葉で辺りは不穏な空気に、急激に変化した。


「谷越信也。担当は数学。今日からみんなの担任になる。よろしくお願いします」


 谷越先生は比較的身長が高く、体格もいい。

 地毛が真黒の短髪で、くっきりとした顔つきだった。

 よもや、担当が数学だなんて、信じようにも信じられなかった。

 いかにもという風貌であった。


「次、誰か」


 そんな誘いに誰がのるか。という眼差しでクラスメイト全員が谷越先生を睨んだ。

 結局、出席番号順に自己紹介をすることになり、とうとう私の出番になる。


「高坂美久梨。よろしく、おねがいします……」


 使命感に煽られた拍手の音が教室に響く。

 上出来だ、私。

 最も無難な自己紹介をしてみせた。

 国家機密級の重要任務をやり遂げたかのような表情を浮かべ、席に着く。


「次!」


 後ろから勢いのある風圧と椅子の引き摺られる音を感じる。


「斎藤柚希です!よろしくお願いしますっ!」


 とても元気な子だな。と、私はその迫力に圧倒される。


「よろしくね。美久梨ちゃん」


 肩を軽く叩かれ、小声でそう呟かれた。


「うん、よろしく……。えーと、柚希ちゃん」


 何とか彼女の名前を思い出し返答する。

 

 そのまま全員分の自己紹介を順に聞き終え、明日の持ち物と注意事項を伝えられ、解散となった。

 お父さんたちはどこだろう。

 校門近くにいると推測し、機敏にリュックサックを背負う。

 教室の扉を左へスライドさせようと、僅かに開いている隙間に手をかけた瞬間、背後から腰を両手で掴まれた。


「ひぇっ?!」

「一緒に帰ろっ?」

「柚希ちゃん。私、今日は車で来てるから……」

「そうなんだ、じゃあ門まで。ね?」


 どこの中学から来た、だとか、

 クラスに気になる男子がいるか、だとか、

 今日何を食べてきたか、だとか、

 大して盛り上がらない話をした。

 その話の中で、柚希の自宅が近いところにあることを知った。


「美久、遅かったね。あれ、もう友達できたの?やったじゃん」

「うん、柚希ちゃん。斎藤柚希ちゃん。家、鷹那にあるんだってー。一緒に帰ってもいい?」

「いいよ。初めまして、柚希ちゃん。これから美久をよろしくね」

「はい、こちらこそよろしくお願いしますっ!」


 柚希は愛想がよく、とても良い印象を抱いた。

 お母さんも気に入ったようだった。


「美久梨ちゃん!一緒に写真撮ろっ?」

「えっ……?」


 柚希はスカートのポケットからスマートフォンを取り出し、慣れた手つきで写真を撮った。

 僅か八秒の神業だった。

 しかも可愛く撮れている。


「もう……。」


 柚希は二、三歩ステップを踏んだ。

 そして、こちらを振り向き、後ろで手を組みながらニッと白い歯を見せた。

 まあいいか……。私も笑った。


「おーい。早く行くぞー」


 私たちは急いで校門前まで手配されたお父さんの車に乗り込み、鷹那に帰った。

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