22.祭壇の間

 柳のようにしなやかな眉が驚愕に吊りあがった。

 久也が掴んだ手にサリエラートゥは視線を落とし、次に足元を見つめ、また顔を上げた。


「滝神さまと対話だと?」

「そんなに変な望みか」

「あ、いや、ただ――順応してもあくまで異邦人なのだろう、お前もタクマも。自分たちの神に祈りたがるものと思っていた。滝神さまの神力を最初疑っていたのも、そっちからすれば異端の神だからと……」

「それを言われると微妙だな。なんて言うのか、元居た世界は誰でも好きな神を崇めて似た信仰を抱いた人間と群れればいいって感じだからな。たまたま俺や拓真には信じたい神が居なくて、求めもしなかった。異端も何もない」


 母ならば、近くの神社に足しげく通うような信心深い一面があった。娘が病気持ちだと入院や手術の度に祈りたくもなるのだろう。

 実際に手術が成功か失敗かを定めるのは患者の状態、携わる人間の腕、病院の設備、薬品のクオリティ、最後に予期せぬファクターなどだ。予期せぬファクターを運と呼べば、迷信の入り込む余地はあるかもしれない。祈祷やお参りが作用するのはあくまでそのファクターにのみ――と、久也は考える。


「信じたい神が居ない? 精霊さえも?」

「精霊信仰も理屈は同じ。信じる人がいたりいなかったりだよ。まあ、訪れた土地の神やら『ご利益』システムにあやかりたくて個別に神社とか寺に行ったりするけど……でもそういう話じゃない。俺は滝神の加護が欲しいんじゃなくて、会話がしたい」


 滝神が対話できるような意識を持った存在であると前提して、訊ねたいことがある。

 どうしても情報が足りない。本来の自分なら「あり得ない」と一蹴するような手段さえも、今は縋りたくもなる。


「私は巫女姫として滝神さまの意思がわかると言っても、なんとなく『きっとこう望んでおられる』と曖昧に感じるだけだ。強く願いや問いを掛けても、『応答』は大体いつもそんな雰囲気で、言葉を成していない」

「そうか。わからないならいいんだ、引きとめて悪かったな」


 サリエラートゥの答えは半ば想像通りだったので久也の落胆は少なかった。握っていた手を解放し、床から腰を上げた。


「どうする気だ?」

「自分なりに方法を考えてみるよ」

「わかった。手伝えることがあったら遠慮なく言ってくれ」


 波打つ長い黒髪をなびかせながら、巫女姫は再び立ち去ろうとした。


「サリエラートゥ」

「ん?」


 振り返らずに彼女は立ち止まった。


レッド黄土オーカーって、何処で手に入るんだ?」





 幾度となく出入りしてきたはずの洞窟の奥深くを、久也は今までにない緊張感をもって見つめていた。


(こういうのは理屈でごちゃごちゃ考えても始まらない。或いは、一度躊躇ったら二度と踏み出す勇気が出ないような気もする)


 久也は正座の体勢のせいで痺れ出した足を自由な方の右手でさすった。

 左手は、二十代後半くらいの歳の女性に固定されていて動かせない。女性は片手で久也の手首を握り、もう片手の人差し指で模様を描いている。

 肌の上を滑る指の温かさと、赤い黄土から作られた塗料の冷たさが何やら落ち着かない。


「やはりどうするつもりなのか答えては下さりませんか」


 耳元で、穏やかな声が静かに問いかけた。ここは洞窟の入り口付近であるため滝神の神力によって会話は格段に通じやすくなっている。


「……うまく行ったら、後でちゃんと話すよ」

「そうですか。では何をされるのかわかりませんけど成功を祈らせていただきますね」


 傍らの女性ことアッカンモディの妻・ルチーは近くのお椀の中に時折人差し指を入れ、塗料をかき混ぜては指先についた量を調整した。そうしてまた作業を再開する。

 現在、褌っぽい布のみ履いた状態の久也は黄土で全身に模様を描いてもらっている。

 もうしばらくは身動きが取れないので、目の端でルチーの姿を盗み見ることにした。

 彼女は短く切られた黒い巻き毛の上に赤いターバンを巻いた姿で、それが派手な花模様のツーピース衣服とよく合っていた。胸元は大きくV字型に開けていて、流れるように開く段入りの袖が凝っている。スカートの裾も二、三ほど段が入っている。歩く時の裾がヒラヒラ舞う様を見ていると何故か金魚のヒレを連想してしまう。着る者の豊満な肉体を最大限に強調したデザインのように思えた。

 こういった手の込んだ作りの服は彼女が遠い南の実家から嫁入り道具として持ってきたらしい。南の部族は服を作るのが得意以外に、肌色が滝クニの人たちよりも濃いダークチョコレート色なのが特徴的だ。

 やがてルチーは久也の背後に回って今度は背中に模様を描き始めた。


「わたくしに頼まれたのは何故です? 素肌を触られるならお相手は姫さまの方が嬉しいのではありませんか」

「……素肌って、何だそれ。誰が相手でも別に嬉しくはない」

「あら? そうなのですか……?」


 おほほ、と含みのある笑いが聴こえる。


(この人こういうキャラだったんだな)


 苦笑した。確かに、塗料さえ無ければ女性に触られている感触はそそるものがあるが、緊張が邪魔してそれどころではない。


「巫女姫は集落の行方不明人問題で忙しいし――」


 ――きっとサリエラートゥは、久也がどうしてこうしたいと考えるのか理解できない。この集落の民は、先代や先々代より受け継いだ伝統から逸れようとは考えないのである。新しい試みをする意味が見出せないのだろう。

 神さまと誰も話をしたことが無いのならこれからもする必要は無い、生贄を捧げる儀式に用いる道具はそれ以外に用途が無い――。


「そうでしたね。次、立って下さいな」


 言われた通りに久也は直立した。

 臀部や脚にまで指先が走る感触は流石になんとも言えない心持ちになる。気を紛らわせる為に口を開いた。


「アンタはよくこういうことしてるんだろ。上手くて速いって勧められたから、頼んだ」

「ええ、アァリージャに聞いたのでしたね。戦士たちのいくさ模様や姫さまの儀式模様も、何でも手掛けますわ。とてもやりがいがありますもの」


 うふふ、とルチーの楽しげな笑い声がする。膝裏に吐息がかかったような感覚がして、震えそうになった。


(危ない)


 大きな動きをすれば模様が歪んでしまうのに――からかわれているな、と久也は確信した。

 残るは脚の表側だけとなった。


「黄土の色は大地の色。滝神さまが潤す地と繋がっている証……戦に向かう者には太陽と同じ力強い黄色を、そして滝神さまとお会いする者には血の深き色を……」


 ルチーが静かに唱えた。

 その黄土はかき集めた後に欲しい色素と不純物を選り分け、残った小石を細かく砕いてって油を染み込ませてから、初めて塗料になる。本来なら儀式に臨む本人が最初から手順を全てやるものらしいが、時間が惜しかったので今回はルチーが以前作った分を使っている。

 彼女は正面にまた回り込んで手際よく仕上げた。


「終わりましたよ」

「ありがとう」

「ではわたくしはこれで。どうぞごゆっくり」


 持ってきた道具はお椀だけなので片付けはあっさり済んだ。

 ルチーの後ろ姿が滝のカーテンを避けて消えるのを見届ける。


「いよいよ……か」


 誰にともなく呟き、久也は再び洞窟の奥を向いた。何度も行き来している内にこの闇を恐ろしいと思わなくなっていたはずだった。むしろサリエラートゥのように、松明が無くても歩を進められるぐらいには慣れている、はずだった。

 だが祭壇に向かう前に一つやらねばならぬことが残っている。

 洞窟の壁際に置いてあった物を回収した。まずは骨製ナイフ。次に小さな木でできた酒瓶を手に握り、栓を抜いた。腐った樹木みたいな臭いが鼻孔を占める。無意識にたじろいだ。

 迷っていても仕方がない。

 久也は一気に瓶の中身を飲み込んだ。


「ぐっ」


 喉が焼ける感触が、遅れて液体の進んだ道を追った。

 味に関しては言葉に表せない。複数のベクトルから責め立てられている不味さだ。何度か噎せた。しかしやっと喉が落ち着いても、例の悪臭は嗅覚にまとわりついていて離れない。

 これは巫女姫が儀式の前に飲む酒と同一の代物だ――材料や成分は不明だが、飲めば否が応にも精神が統一されるらしい。

 すぐに久也もその効果を覚えた。自分の知る範囲の経験で説明するなら、カフェイン剤から得る集中力が酒から得られるリラックス効果と合わさり、そんな中で熱に浮かされた時のように頭の後ろがぼうっと温かい。

 一歩、闇の中を踏み出した。

 次の手順は、この酒の効果が最大に達するまでの間、己が滝神に捧げる唯一の「想念」を磨き極めることである。

 巫女姫の場合のそれは「生贄を捧げる」だ。

 強く想う内に身と心はトランス状態になり、滝神と通じて作業を行うことになる。


(俺の望みは神との一体化じゃない。滝神と通じやすい精神状態になるのと同時に、自我を保つ必要がある)


 よく知った暗闇の中を久也はひたすらに歩いた。

 集中力が高まっているのに、五感が曖昧になる手応えがあった。

 意識が醒めながら眠気が強くなる、そんな矛盾した感覚だった。


(もしかしてこれは……肉体という殻を捨てて精神だけの存在になるみたいな何かか……?)


 古来より宗教や哲学には肉体を捨てた魂だけの存在を人間の最終目標みたいに扱うきらいがあった。


(だけど幽体離脱してるんじゃないし、多分死ぬんでもない。これはこれでトランス状態か)


 考えれば考えるほどにわけがわからなくなってきた。

 もう余計なことを考えるのは止めよう。

 そう決断して、ただ歩いた。


(会いたい)


 鍾乳石を全て巧みに避けつつ、進んだ。


(会って、話がしたい)


 空気の流れが変わったような気がした。祭壇が近い。


(俺はこの集落を生かす滝の神に会う)


 その時、祭壇の左右から炎の柱が立った。

 着火する物をまだ手にしていないのに、距離は五メートルは離れているのに、祭壇を挟む松明立てに火が点いたのだ。その異常性に、久也は気付かない。

 額から垂れる汗の粒にも気づかない。


(滝神に会う)


 祭壇の前に出る。

 祭壇の真ん前には底なしに深い穴が三つあるが、その中心の穴の向こうには台がある。洞窟の天井から滴る水が浅い皿に溜められている。

 穴を踏み越えて台の前に進み出ると、久也はそっと片手を皿に入れた。

 指に付いた水を舐めとると、彼はくるりと後ろを向いた。

 ゴテゴテに装飾された骨製ナイフを右手に取り、研がれた刃を左腕に当てた。

 当てたまま、数秒が過ぎた。


(会って、訊くことがある)


 こうすればいいのではないかと思い至ったのが何時なのかは忘れた――


『ササゲヨ』


 頭の中に響くそれが誰の声かはわからない。

 或いは世界の境界を越えた日に最初に視た夢が、また意識に浮上して来たのかもしれない、が。


 ――ぴちょん。ちょん、ぴちょ。


 天井から落ちる水が皿の水と一つになる。

 気が付けば右手に力を込めていた。

 それに続いて左腕に赤い筋が浮かんだ。

 そのまま厚さ数ミリほどの肉を削いだ。

 痛みは感じない――

 削いだ肉が穴に落ち、闇に飲み込まれる。


 ――ザアァッ。


 浅い皿の中の水が動いた。

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