久方自由の不自由な日々

@world_of_bear

グアイタル世界 勇者の奥方からのクレーム

 久方自由は憂鬱だった。朝起き抜けから、憂鬱だった。布団から出たくはなかったが、出ないわけにも行かない。今時珍しい、やっと見つけた就職先だったからだ。売り手市場と買い手市場、ぐらぐらと揺れ動く就職戦線で、自由はちょうど激戦期にあたった。


 ため息を一つついて、スーツに着替える。バイト代をはたいて買った、初めての自費スーツだ。大学の入学祝いに買ってもらったスーツはバイトの塾講師で使い切った。やんちゃな生徒とやり合ううちに、ぼろぼろになった。自費のスーツが入学祝いに劣るものだから、なんとも物寂しい。


 一人暮らし、一家一城の主である。小中高大と女っ気の一つもなかった。就職をしたらば、彼女の一人も作らばおかんと奮い立った。見栄の社である。起きて半畳、とは言ったものだ。ほんの数歩でアパートの部屋を出て、お守りを握りしめる。


 グアイタル世界、四の六の八。気がつくと、自由は異世界にいた。いや、正確に言うならこの世界にとって自由こそが異邦人なのだ。勝手にやってきて、物やサービスを売りつける。久方自由は種々雑多な異世界を飛び回る異世界公社の平社員だった。


 営業マンにとって何が嫌かと言えば、これはクレーム対応に決まっている。それも自分自身の担当した案件ではない。たまたま先輩が休暇を取っている間に入った、代打の対応である。ありていに言って、尻拭いである。日頃世話になっているだけに、逃げられない。


 着いた先は山の中だ。鬱蒼とした森の中だが、少し歩けば村か何かが見つかるはずだった。先方の住居から数分の場所を教えられている。この稼業はどうにも怪しまれるものだが、何も自分から種を増やすことはない。目立たない場所へ出るに限る。野生動物に出くわさないことを祈りながら進んでいくと、隠れるように小さな小屋を見つけた。


 自由の予想とは違ったが、この小屋が目的の場所だろう。本日のクレームは、こうである。我が異世界公社は有用な人材を各地、各世界から登用している。例えば、とある世界で目覚ましい活躍をした戦士がいたとする。世界が平和になった後、現地の統治機構に採用されることが多いわけだが。


 中には農村などで平凡な暮らしを強いられるケースもある。兵士として有能でも、指揮官として有能であるとは限らないからだ。こういった戦士と契約し、別世界へ傭兵として派遣する。窮地に陥った現地の住民も喜び、活躍の場を与えられた戦士も奮い立ち、手数料をいただく弊社も嬉しい。異世界公社の業務の一環である。


 今回は傭兵として派遣した戦士の、奥様からのお呼びだしだった。詳しい要件は聞いていなかったが、もしかすると旦那の方が奥方にろくすっぽ説明せずに仕事へ出かけてしまったのかもしれない。せっかく世界を救ったのに山中の小屋に住まわされているくらいだから、鬱屈した感情を抱えていた可能性もある。


 狙い目ではあるのだ。金の問題ではない。プライドの問題だ。報奨金などもらっていても、やはり敬して遠ざけられるのは嬉しくない。そんなところに、あなたの力を必要としている世界があるのです、と持ちかけるのだ。ほいほいとついてくる戦士は多い。二つ返事で仕事を決めるから、家族へ説明しないなんてことも往々にしてあるらしい。


 暗い気持ちで戸口を叩く。その瞬間に扉が開き、自由は思いきりこぶしをぶつけられた。目もくらむような美女が、そこにいた。白というよりか銀に近い色をしている。地球の、ごく普通の家庭に育った自由には、まだ異世界の機微が分からない。こんな髪をした人間がいるのだから、異世界というのはすごいものだと感心する。


 その髪の色が一層際だつのは、その美女が褐色の肌をしているせいもあるのだろう。自由が半ば陶然と立っているうちに、美女はさっさと中へ入ってしまった。ぐずぐずしていないで席に着け、とまで言ってくる。この怒りとせっかちさは間違いない。これがクレームを入れてきた奥方だ。


「速やかに主人を返してください」


 単刀直入だった。茶も出ぬうちに、席に腰をおろす寸前くらいのタイミングである。同じ人間とは思えぬほどの怒気を発するから女というのは怖い。のんびりと生きてきた自由はそれだけで震え上がったが、これは仕事である。内心どれだけおびえても、はいそのように、とは頷けない。


「申し訳ないのですが、ご主人様は既に弊社と契約を交わしております。ご主人様から契約解除の申し出のない限り、いくら奥方でも契約を取り消すことはできないんですね。それにご主人様は任地の現状を聞いて、自ら進んでご協力を申し出てくださったんです。自分の国は平和になったが、世界にはまだまだ戦乱があふれている。自分の力が少しでも役に立てるのなら、と」


 そこまで言って、自由は言葉を切った。胸ポケットに押し込んであったお守りを取り出すためだ。これは異世界公社の社員に支給されるアイテムである。祈るだけで任意の箇所へ飛ぶことができる、と自由は聞かされている。


「もちろん弊社としてもご主人様が無事にご帰国できますよう、対策を行っております。弊社から支給されるマジックアイテムを使えば、ですね。任意の場所へいつでも移動することが可能なんです。万が一の際も、これがあれば安全は保障できますので。どうかご主人のご帰国をお待ちいただければ幸いです」


 言うだけのことは言った。自由は心のメモ帳を開いて、リストにあった言葉を全て吐き出したことを確認した。これだけ言ってだめならば、どうしようもない。後は本人を呼び出して、直接話し合ってもらうしかない。もちろん、その間仕事はできないから、給与も発生しない。契約期間も延びる。納得してくれ、と自由は祈るが。


「お話終わりました? だったら、早くに主人を返していただけないかしら?」


 美女がテーブルにこぶしを置く。ほんの軽い動作に見えたのに、ドグ、と物々しい音が鳴った。自由は中学の工作室を思い出した。見た目はちいちゃい工作道具だが、持ち上げるとずしりと重い。うっかり落とすと、こうした音が鳴ったものだ。


 しかし、そんな音は前触れでしかなかった。その数秒後、右耳に、ズボン、と大きな音が飛び込んできた。何かとてつもなく大きな物が落ちてきた音だ。すぐに正面から、左から、そして背後からも同じ音が聞こえてくる。ようするに、前後左右が囲まれたのだ。


 何故だろう。自由の心臓が早鐘を打つ。苦手なマラソンを走り切った直後でも、こんな風にはならなかった。嫌な予感がした。予感としか言いようがない。何を見たわけでもない。目には見えない何かが、自由の心臓を鳴らしている。


「ちょっとおトイレお借りしていいですか?」


 一言断ると、自由はこっそりと玄関まで向かった。逃げるだけなら、と思う。逃げるだけなら、お守りでいつでも逃げられる。だから、これはあくまでも好奇心なのだ。ひざががくがくと震えているのは、まぶたがけいれんを起こしているのは、好奇心なのだと言い聞かせる。そうでなければ、まるで体が自然と死を感じているようじゃないか。


 そっと戸口を開けると、壁がそびえ立っていた。よく見るとうろこがあって、微妙に湾曲している。上に上にと見上げていって、首が痛くなる頃、ようやっと顔が見えた。そう、それには顔があった。まるでおとぎ話に出てくるドラゴンのような、は虫類の顔をしている。


 目が合った。笑った。口がちらっと動いた瞬間に、自由は思いきり戸口を閉めた。僕は今日ここで死ぬかもしれない。気がつくと、目からも鼻からも汁が垂れ流しになっている。下半身を見ると、どうにか失禁だけは免れていた。


 カバンを漁って、ティッシュを取り出す。次から次に流れてくる涙と鼻水にポケットティッシュじゃ足りなくなった。仕方なしにハンカチで顔を拭って、どうにか体裁だけを整えた。震える体をそのままに居間へ戻ってくると、美女がにこっと笑いかけた。


「用はお済みになりました? だったら、主人を返してもらえますよね?」


 いまさらながら、自由は目をつぶった。研修で教わったことだった。現地の人間の大半は自分たちと同じ体をしている。炭素だろうが、珪素だろうが、同じことだ。自分が相手を見る時も、あくまでも可視光線の反射から相手の姿を認識している。


 だが、ごく一部に例外がある。その存在は物質に依らずに存在している。可視光線の反射はもちろんのこと、相手の精神に直接働きかけることもできる。だから、と。だから、相手の素性の知れない時は目をつぶるのだ。目をつぶっても相手の姿を見ることができたら、それは人ではない。神である。今、目をつぶった自由の前には美女がくっきりと姿を現していた。


 自由は無言で土下座した。お守りの効力を信じていないわけではない。逃げ出せる、のかもしれない。しかし、どうだろう。平社員にも配られる異世界公社の支給品と一世界の神の力と、一体どちらが強いのだろう。ギャンブルだった。お守りが勝てればいい。勝って欲しい。勝ってくれるはずだが。万が一、勝てなければ、自由の命はない。


「別にね、私、謝って欲しいわけじゃないんです。分かるでしょ? 私はあくまで主人を返して欲しいだけなんです。私ね、主人が産まれた時からずっと見てたんです。あんなに可愛い子は初めて。世界を平和に、って祈るから、加護まであげて。魔王討伐の旅をしている間も、ずっとお世話をしてあげたんです。それで、世界は、平和になって、ねえ? ようやっと、私も結婚できたんです。もうちょっと夫婦水入らずの生活をしてもいいんじゃありません? 私の言ってること、おかしいですか?」


 自由は必死で頭のそろばんを弾いていた。契約は取った人間の売り上げになる。異世界公社は基本給プラス歩合制になっているから、この契約を取ってきた先輩はマージンをもらっている。だが、契約は解除を受け付けた人間の損失になる。先輩はもちろん月々のマージンを失うが、同時に自由自身も解除を受け付けた人間としてペナルティを受けることになる。


 研修で聞いた時は、そんなものか、と思っただけだった。今になって、その言葉が効いてくる。死を覚悟して出てくるのが金の問題か、と呆れる自分もいた。生きるか死ぬか。それはもうどうにもならない。それなら金を置いて、考えることがあるものかと思う自分もいた。どうするか。どうしたらいいのか。考えている間に、轟音が鳴り響いた。


 小屋がきしみをあげて、壁の一角が崩れ落ちた。しびれをきらしたドラゴンが、いや、女神が崩させたのだ。穴の空いた壁の隙間から、ドラゴンの顔がこちらをのぞき込んだ。体の力みが抜ける。頭がすっと澄み切った。恐怖が臨界点を越えた。


「奥様、一つ質問があります。先ほど奥様は、旅をしている間もお世話をしていた、と仰っておりました。それはもしかして、旅に連れ添っていた、ということですか?」


 女神は怪訝な顔をしていた。ここまで脅せば白旗をあげると思いこんでいたのだろう。自由自身も驚いているくらいだ。この急場でぺらぺらとつっかえることもなく質問ができたのだ。この度胸が上手く使えれば、こんな会社に入ることもなかったかもしれないと後悔すらした。


「ええ、そうですよ。私も元々は肉の体がなかったですからね。良い機会と思って体を作って、傷を癒す女神の巫女として旅の仲間に加わったんです。それに結婚するにしても、見ず知らずの女じゃ難しいでしょ?」


 ぴんと来る。だからだ。だから、この女神は戦士を異世界に派遣することを嫌がっている。この女神は旅に加わり、世話をすることで自分を売り込んだ。よその世界で同じことをする女がいないと、どうして言い切れる。その不安がある限り、何をどう言っても承諾することはない。だったら。


「一つ、ご提案があります。もしよろしければ、奥様も弊社のスタッフとしてご登録されるのはいかがでしょう? ご主人と同じ任地へお送りします。夫の助けをするために、危険を顧みず世界を越えて駆けつけるとあれば、ご主人も感動されることでしょう。お二人が揃えば、危険もなく、すぐにご帰国も果たせるでしょう。そう、異世界へのちょっとした新婚旅行になるのではありませんか?」


 数秒が長い。ドラゴンたちが顔を見合わせ、空の彼方へ飛び去っていった。主人の機微を敏感に察したものと思われる。女神が手と手を打ち合わせる。表情は明るく、と言っても、表情自体はずっと晴れ模様ではあったが。今は陽性のオーラをまとっている。


「それじゃ、一刻も早く手続きをお願いできるかしら。それとあなた、すぐに着替えた方がいいですよ。着ているものがぐしゃぐしゃになってるから」


 いつの間にか、おそらくドラゴンとにらめっこをした辺りだろう。自由は一線を越え、失禁していた。これでいい、これでいいのだ。解除されることもなく、しかも、新規の契約を受注した。二十歳を越えたおもらしなんて、どうということはない。


 みじろぎすると、違和感があった。失禁、だけではなかった。

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