ねんね

 いつものように、坊ちゃんが学校に行かれた頃合いを見てお伺いしました。鍵を回して、お台所へ。スーパーの袋がかしゃりと音を立てて、椅子の上に収まります。冷蔵庫に冷やさなければならないものを仕舞って、ひとまずお洗濯を、と、お風呂場へ。洗濯機を回さなければいけません。くるりと踵を返し、縁側を通って––––––。

 あら。思わず口元を手で覆いました。

 もこり、と丸まった布団。お大福のようです。呼吸に合わせて微かに膨らみ、萎みを繰り返しています。私はゆっくりと声をお掛けしました。

「坊ちゃん。今日はお休みですか」

 お大福はほんの少し動いて、ひょこり、坊ちゃんの頭が出てきました。大きな藍色の瞳は赤い目元に縁取られ、お化粧をしているようです。泣き腫らした目元のなんと痛々しいことでしょう。枕元に置かれた制帽がなんだか物悲しそうに持ち主のつむじを見つめています。

「迷子、さん」

 坊ちゃんは目だけ布団から出した状態で、もそりと呟きました。お布団のそばに正座し、「はい」なんでしょう、と首を傾げますと、坊ちゃんはまた、ぽそり。

「僕は、––––––」

 消え入る声。何と言ったのか聞き取れませんでした。それを坊ちゃんも察したのでしょう、ほんの少し大きな声で、また。

「僕は、こわい」

 こわい。

 怖い、恐い、こわい。

「僕は、こわい。わからない、何がこわいのか、わからない、です、でも、こわい。ずっと、ずっと、少し前から、きのうだって、怖かった––––––怖かった。なんで、なんでなのか、わからない。隘路は、悪くないです。隘路は、教えてくれた、だけだから。腕に目のある、が、犯人かも、と」

 たどたどしくも、坊ちゃんは言葉を紡ぎます。坊ちゃんの精一杯なのかもしれません。もしくは、言葉の流れに気をつけるほどの力すら。

 それでも、坊ちゃんは私を頼って下さった。

 なんと光栄なことでしょう。

 私は坊ちゃんの目の前に膝をずらし、優しく話しかけます。

「僭越ながら坊ちゃん、私は坊ちゃんが何を恐れられているのか、何を怖がっていらっしゃるのか、見当もつかなければ、予想も出来ない。だから私、これしかできません」

 坊ちゃんは動きません。きっと、坊ちゃんは何も思っていない。けれど、けれど。坊ちゃんにとっての普通、が、私なら。坊ちゃんにとっての基準が、私なら。

 それはとても喜ばしいことです。

 この私でも、坊ちゃんのお役に立てているのなら。

 坊ちゃんに向けて、精一杯に優しく、慈しみを込めて、愛しさを心から集めて、私は坊ちゃんの藍色をまっすぐに見つめました。軋む畳に膝をついて、坊ちゃんの大きなお目目から逃げずに。

「こわいのこわいの、とんでゆけ」

 きょとん、と。坊ちゃんの藍色が、大きくなりました。

「こわい、の」

「これは、おまじないです」

「おまじない」

 首をかしげて、坊ちゃんはぱちくり、瞬きをします。きっと聞いたことも無いのでしょう。いたいのいたいの、とんでゆけ。こわいのこわいの、とんでゆけ。そんな他愛もない子供騙し。

「意味のないことだと思われるかもしれません、それは間違いではありません。こんなことで飛んでいくものではないかも」

 私は目を伏せて、畳の目を見つめます。色褪せ黄ばんだ色は暖かく、そして柔らかい。これが、この家を選ばれた理由でしょう。

 この家は、あたたかい。

「坊ちゃん。私は坊ちゃんの苦しみ、悲しみが、ほんの少しでもやわらかになることを祈っています。それだけは、忘れないでいてくださいませ」

 坊ちゃんは、よくわからない、と、首をかしげたままです。ええ、それで構わないのですよ。今は、まだ。

 ぱんと手を叩き、坊ちゃんにお辞儀をしてから、私は立ち上がります。

「ああ、お夕食ゆうげを作らないと。お昼ご飯もですね、今日はとっておきにしましょう。美味しいものを作りましょう、明日から元気になれるよう。それでは坊ちゃん、失礼いたしました」

「い、え。ありがとう、ござい、ました」

 背を向け、お台所へ。おにぎりでも握りましょうか、それともぶぶ漬けにでもいたしましょうか。美味しい沢庵を買ったのです、きっとお気に召されますでしょう。ほんのりと、甘いのです。それに黄色は目に美しい。目が豊かになれば、心も次第と豊かになりましょう。

「坊ちゃん」

 最後に一つ、声をかけます。大切なことを言い忘れていました。

「もしかしたら、坊ちゃんの恐れられているものは、そんなにこわいものではないかも、しれませんよ」

 坊ちゃんの藍色はいつもと変わらない澄んだ色をしています。

 その藍色が尊いものだと、いつか坊ちゃんがお分かりになるまで。

 精一杯お使えしようと、思いました。

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