世界一甘い生クリーム

井戸

世界一甘い生クリーム

「セーンパーイ! 今から空いてますか? 空いてますよね? 一緒にご飯食べに行きましょうよ!」


 誰も居なくなったオフィスには、黄色い声がよく通る。

 今日の分の業務を終え、共に頑張った相棒の電源を落とす。お疲れ様。明日もよろしくな。

 ぱたぱたとリズミカルな足音を立てながら、彼女は俺の机に駆け寄る。


「お疲れ。お前も残業か?」

「たった今終わりました! センパイもですか? わーお、偶然ですね!」


 出来る後輩はあざとく笑う。近くにいるんだから、そんなに大きな声を出さなくても聞こえてるよ。

 黄色い声よりクラシックでも聞きたい気分だが、彼女の声はどういうわけか、疲弊した頭にも心地良く響く。特殊な周波数でも出ているのかもしれない。


「センパイ、甘いもの平気ですか? よかったらー、私のオススメのお店、行きません?」

「甘いものって、ちゃんと栄養採らないと――」

「あいっかわらずおカタいですねー。いいんですよ。このところ残業続きで、心の栄養が枯渇してますから!」


 枯渇してたら、そんなに元気な声は出ない。

 先輩として部下のことはよく知っているが、彼女はなにかと要領がいい。少なくとも、残業を遅くまで貯め込むタイプじゃない。

 バレていると知りながらも一貫する態度は、白々しいというか、なんというか。


「わかったよ。今日だけは見逃してやる」

「やった! そうと決まれば善は急げです! ほら、早く早く!」

「急かすな。お前と違って、俺は疲れてるんだ」


 仕事の愚痴の一つや二つでも聞かせてやろうか。なんて、そんな意地悪はしない。部下はストレス発散の道具じゃない。


 それに。

 こんなにも楽しそうに、わざわざ俺の仕事が終わるまで待ってくれる部下がいるのは、悪い気はしない。






 お洒落なカフェだ。木目を生かした内装にセンスが光る。

 時刻は八時をとうに過ぎ、わざわざスイーツを食べに来る物好きは二人しかいないらしい。この時間まで営業している店も店だが、穴場をめざとく探し当てる方も大概だ。実に、彼女らしい。


「ところで」

「はい。センパイ、どうかしました?」

「どうして、さも当然のように隣に座ってるんだ?」


 他に客がいないこともあり、ちゃんと二人用の、互いが向かい合って座るタイプのテーブルに案内された。なのに何故か、彼女は正面にあった椅子をわざわざ俺の隣に持ってきている。

 当然、テーブルの横幅は一人分しかない。椅子を二つ並べると、なかなか窮屈だ。


「だって、対面だとシェアしにくいじゃないですか」

「……そうか?」

「そうですよ!」


 正直に言うと、俺はこういう、いわゆるカフェのような店にはあまり来たことがない。彼女がそう言うなら、そうなんだろうか。


「ほら、こうすればメニューも一緒に見られますよ!」


 席に一つしかないメニューをテーブルに開く。なるほど、確かに。

 ただ、もっと根本的な問題として……あまりにも、距離が近い。油断すると肩がぶつかりそうになる。狭いテーブルを使うには、離れるわけにもいかないのだが。


「センパイ、どうかしました?」


 彼女はきょとんとしている。相変わらず、白々しい。






「ご注文をお伺いします」


 店員は今となっては珍しい、紙とペンのアナログな伝票を構えている。

 しかし、接客業なら重々指導を受けているはずの営業スマイルが、どことなく引きつっている。勘違いしてるな、間違いなく。わざわざ二人きりを狙って来店しているのは事実だし、見える自覚はあるが。


「メープルワッフルとコーヒーを」


 適当に、軽めのものを頼んでおく。ちゃんとした食事は家に帰った後で採ればいい。


「シナモンシュガーハニートースト、三種のベリーの二段パフェ、それからそれから――」


 彼女はぱらぱらと軽快にメニューをめくり、注文を重ねていく。たった今、二枚目の伝票にさしかかった。甘いものは別腹と言うが、本当に全部入るのだろうか。

 それだけ多くの注文だから、確認には少しばかり時間を要した。恐らくバイトだろう。この時間、いつもは暇だったろうに。ご愁傷様。

 伝票に釘付けのまま戻るバイトの子の背中を、同情の目で見送る。


「なあ、流石に頼みすぎじゃないか?」

「だってセンパイがいるじゃないですか!」


 彼女はあっけらかんとしている。

 思わず苦い笑みがこぼれた。人の金だと思って。


「あ、ええっと。奢ってほしいとか、そういう意味じゃなくてですね」


 彼女は慌てて取り繕う。俺の言わんとすることを察したのだろう。彼女は人の顔色を読むのも上手い。さすが、世渡り上手な奴だ。


「味覚って、感情によっても変化して、同じ食べ物でも明るい気持ちなら美味しく、暗い気持ちなら不味くなるんですよ。要するに、自分がハッピーであればあるほど、おいしく感じられるんです」

「……それとこれと、何の関係が?」

「だから、その……うう、ここまで言っても伝わりませんか?」


 彼女は薄く化粧の乗った頬を染め、視線を俺から開きっぱなしのメニューに移す。テーブルに置いた両手の人差し指を合わせる。


「せっかく隣にセンパイがいるんですから、たくさん食べなきゃ損じゃないですか」


 可愛い、を通り越し、もはや露骨にあざとい。

 だが、そんな彼女のしぐさに、不覚にもドキっとしてしまった。見えている餌にさえ引っかかってしまう、男というのは哀しい生き物だ。

 本当に、世渡り上手な奴め。


「そういうことなら、奢らなくても構わないな?」

「構うもなにも、最初からそのつもりですよ-。いくらセンパイが独身貴族だからって、待ち伏せしてまでたかりに行くほど私はがめつくありません!」

「なら、今日は割り勘だな」

「へっ?」


 あの注文で割り勘じゃ、明らかに俺の方が損だろう。それくらい分かっている。

 だから、そんなに驚いた顔をされても困るんだが。


「あのー、センパイ。僭越ながら……ちょろい、って言われません?」

「自覚はある」


 こういう形でしか返せなくて悪いな。リップサービスは苦手なんだ。





「んー、甘くて美味しい! 最高です!」

「そうか。それは良かった」


 机を埋め尽くすほど大量に運ばれたスイーツの数々だったが、既に半分を文字通り消化していた。彼女は食べても食べてもペースを落とすことなく、次から次へ、ぺろりと平らげていく。入るものなんだな、本当に。胃が異次元にでも繋がってるんじゃないだろうな。

 対する俺は、先に食べ終えて気を遣わせないよう、ワッフルを少しずつ切り分け、のんびりと口に運ぶ。ぬるいコーヒーも、たまにはいい。


「……センパイのそれも、美味しそうですね」


 飢えた瞳が俺の皿に狙いを定める。たっぷり生クリームの乗ったパフェを前にしてなお、既に二分の三は食べ終えてすっかり小さくなったワッフルに目が行くか。


「あれだけ食って、まだ足りないか?」

「意地悪なこと言わないでくださいよー! 私のもあげますから! ね? 一口くらいいいでしょ?」

「がっつかなくても、食べたいならやる」


 彼女の前に、食べかけのワッフルの皿を差し出す。

 確かに美味いが、俺は甘いものは好きでも嫌いでもない。ワッフルも、甘党らしい彼女の胃に収まる方が本望だろう。


「むー……」


 しかし、彼女はなにやら不満顔だ。


「どうした? いらないのか?」

「センパイ、そんなだからいつまでも独身なんですよ」


 彼女は自分のフォークでワッフルを一突きすると、大きく口を開けて頬張った。俺はワッフルに未練はないからいいが、まさか全部いくとは。確かにではあるが。


「じゃあ、次は私の番ですね」


 ワッフルがそんなに美味かったのか、彼女はすぐ機嫌を持ち直した。ニコニコ微笑みながら、パフェの生クリームをスプーンで掬う。


「はい。あーん」


 そして、そのスプーンを俺の口元に近づける。


「……いや、なにもそこまでしなくても」

「ええっ!? なんで拒否るんですか!? アレ系のお店なら数千円は下らない大サービスですよ!」

「俺はアレ系の店とやらには行ったことがないから知らないが……付き合ってもいないのに、そういうことをするのはまずいだろう」


 どうやら、よほど致命的な一撃だったらしい。


 可愛くあざとい顔が、一瞬にして凍り付く。今度こそ、彼女はがっくりと項垂れた。

 行き場を失ったスプーンを、彼女は黙って自分の口に運ぶ。


「……ここまでしても、駄目ですか?」


 今にも泣き出しそうな声だった。

 今にも泣き出しそうな声を出させてしまったことに、ようやく気づいた。


「ここまでしても、私はセンパイに振り向いてもらえないんですか?」


 ずっと前から、要領のいい奴だと思っていた。

 人の顔色を読むのが上手い、世渡り上手な奴だと思っていた。


 だから、俺の想いなど初めからお見通しなのだと、何もかも知った上で仕掛けているのだと、そう思っていた。


「こっちを見ろ」

「ふえ……?」


 薄く化粧の乗った顔。すっかり力の抜けた顔だ。可愛いことには変わりないが、あざとさは感じない。


 元気に喋り続け、豪快に食べ続けたその口を、塞ぐ。


 後頭部に回した手から、触れ合う唇から、驚きを感じ取る。

 生クリームを溶かし味わった口はまだ冷たく、それ以上に、甘い。


 ほんの一瞬の出来事だ。

 しかし、要領のいい部下は、どうやら今の状況を処理しきれないらしい。


「な……なっ……」


 目を見開いたまま、頬を赤く染めながら、それこそ冷たいアイスのように固まっている。


 それにしても。

 同じ食べ物でも、幸せであればあるほど、美味しく感じる……だったか。


「確かに、甘いな。今まで口にしたどんな生クリームよりも、甘い」

「っ……」


 真っ赤な顔がさらに赤くなる。

 いたたまれなくなったのか、彼女は俺の胸に顔を埋める。可愛い奴だ。


「……センパイ、言葉足らずだって言われません?」

「自覚はある」


 もっと早く、言葉にしていれば良かったかもしれない。よそ行きのあざとい顔よりも、今の彼女はずっといい。

 次に顔を上げたとき、彼女は少しばかりふくれっ面になっていた。


「センパイ。あーんしてください」


 スプーンが再び生クリームを掬い取る。


「私は、ちょっぴり苦かったです」

「ああ、悪い。次に来るときは、コーヒーではなく、カフェラテでも頼むか」


 彼女の手から、甘い生クリームを口に運ぶ。


 次の一口は、もっと、ずっと、甘かった。

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