006 とうようさん?

 一週間後の日曜日。ロク先生紹介の建築家の方に来てもらう日。


 家の片付けをしながら、私なりにどこを直さないといけないか見て回る。ドアの立て付けが悪いところはいくつかある。2階は雨漏りするところがあったな。……こうして見ると、本当に古い家だと思う。

 ふと、ある曲が頭の中で流れ始めた。そのメロディーに乗って、口ずさむ。

 

 〈埴生はにゅうの宿も わが宿

  玉のよそおい うらやまじ

  のどかなりや 春の空

  花はあるじ 鳥は友

  おゝ 我が宿よ

  たのしとも たのもしや〉


 どんなに古い家でも、我が家が一番と歌った曲。おじいちゃんのお気に入りの曲で、子供の頃、よく2人で歌っていた。お日様みたいにあたたかいメロディーで、この家にぴったりだと思う。でも、なぜか今は、歌っていると少し寂しくなる。


 ――リリリリリリッ


 黒電話が鳴ってる。私は慌てて、玄関にある電話をとった。建築家の人からかな、と思ったら、


『一花ちゃん。考えてくれた? 診療所のこと』

「…………」


 電話の相手は、母の姉にあたる人――伯母さんだった。この家を取り壊して、診療所にすべき。そう強く主張しているのが、この人だった。


鹿路木ろくろぎ先生にも何度も言ってるんだけど、なかなか伝わらなくてね。一花ちゃんに直接話した方が早いと思って電話したの。そこに診療所が出来たら、いいことがいっぱいあるのよ。ほら、その辺坂も多くて移動が大変でしょう? 近所の方はとっても喜ばれるわ』


 そんな風に言われると、反対している自分が悪者のように思えてくる。

 実際、悪者なのかもしれない。私の望みが叶っても、喜ぶ人は私以外この世にはいないから。


「伯母さん、これから修繕にかかる費用を調べてくれる人が来るんです。その金額が出てから、改めて考えます」

『そうなの? 絶対にすごい額になるわよ? きっと取り壊すよりも』

 

 取り壊す。

 心が、刺されたように痛む。

 

「伯母さんは、平気なんですか? 伯母さんも昔はここに住んでたんですよね? この家がなくなっても、何とも思わない?」


 伯母さんはため息をついた。


『そりゃあ、残せるなら残したいとは思うわよ? でもそんなことして何の意味があるの? 行政や業者が言うとおり、観光スポットにした方がまだ……ううん、それだって無意味よ。診療所として地元に根付くことが、橘家のためなの』

「……お祖父ちゃんやお祖母ちゃん、皆が住んできたこの家を壊すことが、診療所にすることが、橘家のためなんですか」

『そうよ。少しは分かってもらえたわよね? 一花ちゃん、良い子だもの』


 だだをこねる子供をあやすように優しく、けれど意志を通そうと強く、伯母さんは言った。

 お祖父ちゃんは私にこの家を託した。好きにして良いと。嬉しかったけど、でも断言して欲しかった。この家を守れと言ってくれれば、皆従ってくれたはずだ。……そう心の中で、己の力のなさと弱さをお祖父ちゃんになすりつける。私は酷い孫だ。


「この家、壊す気なのか?」


 突然、不機嫌な声が投げかけられる。

 開けっ放しになっていた玄関に、見知らぬ男の人が立っていた。


「……!」


 私は驚いて立ち尽くした。そんな私を睨みつけ、彼は受話器を奪った。そして、ガチャンと乱暴に電話を切った。


「この家、壊す気なのか? って聞いてんだけど。返事はなしか?」


 再び、彼は尋ねた。目の前の人が誰であろうと、この問いに答えないわけにはいかない。


「こ、壊しません」

「今電話の相手とそんな話してただろ。診療所にするとか何とか」

「しません。絶対」

 

 彼は黙って私を見た。その視線は「本当か?」と疑っているようだった。だから私は負けじと見つめ返す。

 先に目をそらしたのは、彼だった。無言のまま靴を脱ぎ、ずかずかと家に入って来た。


「ちょ、ちょっと待って下さい!」

「手入れは行き届いちゃいるが、やっぱり古いな。シロアリとかは?」

「え?」

「いたらとんでもなく面倒だぞ。見かけたことはないか?」

「い、いないと思います。あの」

「雨漏りは?」

「ちょっと前から、2階の部屋の1つが」

「他におかしいところは?」

「ドアや引き戸が一発で開かなかったり、すきま風が酷かったり……」

「あと玄関の呼び鈴。押したけど鳴らなかった」

「え? そうなんですか? すみません、気づきませんでした。この家、人が来ることが少ないので」


 彼は片足に体重をかけ、板の強度を調べる。


「廊下の板も張り替えた方が良さそうだな」


 もしかして、もしかしなくともこの人はロク先生が呼んでくれた建築家の人じゃないだろうか。この家の修繕費がいくらかかるか、見積もりを取ってくれる人。ええっと、名前は、


「…………」


 まずい。名前、思い出せない。

 ついさっきまで、ちゃんと覚えていたのに。どうしよう……。


「その、あなたは建築家の方ですか?」

「ああ。呼び鈴鳴らないから勝手に入った。あとふざけたこと言ってると思って、電話も切った」


 最初はすごく理不尽だったけど、落ち着いて考えると、私にとってそんなに悪いことじゃなかったと思えてきた。あのまま伯母さんとの電話を続けていても、心が折れるだけでいいことは何もない。

 伯母さんがかけ直しているのだろう、何度か電話は鳴ったが、今ようやく切れた。

 それより問題なのは、目の前の人だ。


「ンだよ。言いたいことあるならはっきり言え」


 刃物のように鋭い視線。今からヤクザや警察と言い直されても、間違いなく信じる。


「お名前を、うかがってもいいですか?」

「…………」


 依頼した側なんだから名前くらい覚えてろ、と怒られるかと思ったけど、そんなことなかった。彼は黙って名刺を差し出した。シンプルながらオシャレな名刺には、『真堂冬陽』という名があった。


「しんどう、とうようさん」

「あぁ!?」

 

 ドスの利いた声に、私は震え上がった。


「誰がとうようだ。そこにローマ字で読み仮名書いてんだろ!?」


 名刺には、確かに小さくローマ字も載っていた。

 正しい読み方は……、


「ふゆはるさん」

「何だ」

「あ、声に出して読んだだけです」

「用もねぇのに呼ぶな!」

「は、はい!」


 怖い。怖すぎる。

 私はそっと真堂しんどう冬陽ふゆはるさんから距離を取った。


 私と真堂さんの間には深い溝があったけど、作業そのものは、順調に進んだ。床から壁、天井。家の中から外まで、住人である私さえ気づかなかった問題点を、真堂さんは次から次へと見つけてくれた。


「……まさか安斉あんざい竜玄りゅうげんの作品の見積もりをとる日が来るとはな」

 

 安斉竜玄。その著名な建築家の名を、真堂さんも知っているみたいだ。


「本気で残す気なんだよな、ここ」

 

 念を押すように、彼は尋ねた。


「はい。絶対に残します」

「……そうか。壁、屋根、塗装、床。中もガタがきてる。ざっとみただけでも、最低400万」

「……!」

「出来れば耐震補強もした方が良い。築年数重ねてるだけあって、けっこう良くない状況だ」

「そんな……」


 400万。

 想像していたよりはるかに高かった。


「そういう金を準備するのが親なんだけど。いないんだったな。鹿路木ろくろぎさんから聞いた。費用、準備出来そうか?」

「…………」

「専門家として言わせてもらうと、このまま住み続けるのは勧められない。すぐにどうって話じゃないが、3年以内にはどうにかした方が良いな。修繕が出来ないとして、考えられる手は……」


 真堂さんは家を眺めながら言った。


「安斉竜玄のファンに売る。もしくは更地にして売り払う。ここは家屋にも土地にも、いい値がつく」


 胸がきゅうっと締め付けられる。

 そんなこと、言わないで。伯母さんやロク先生と同じことを専門家のこの人にまで言われたら、もうおしまいだ。


「私は……!」


 思わず声がうわずる。

 取り乱したらダメだ。冷静に、対応しないと。そう自分に言い聞かせて、真堂さんに向き直った。


「私は、ここを売る気はありません。家を壊すのも、嫌です」

「……そんなにこの家に愛着があるのか」

「愛着とか、そんな簡単なものじゃない。もう私には、この家だけなんです」


 何がこの家だけなのかと言われれば、全部だ。思い出も、大事なものも、居場所だって、もう私にはこの家しかない。

 この家は、『埴生の宿』なのだ。おじいちゃんにとっても、私にとっても。


「親戚連中で誰かいないのか。助けてくれるやつは」


 いない。いるわけない。でも言えなかった。1人も味方がいないなんて恥ずかしいこと、言えない。私の気持ちを察してくれたのか、真堂さんはそれ以上言わなかった。


「あとは借金するかだな」

「他人にお金関係の借りは作るなって、死んだお祖父ちゃんが」

「はぁ? 何だそりゃ」


 真堂さんは、斬りつけるように言った。

 

「金を借りるなって祖父ちゃんが言っただ? 死人の言いなりになって、何の意味がある」


 死人。怒りが、一瞬で身体を熱くした。

 でも真堂さんの哀れむような目とぶつかって、私は言葉を失った。


「死んだ人間は、何もしてくれねぇよ」

「……私も嫌なんです。おじいちゃんに言われただけじゃない」

「金がなきゃどうしようもないだろ。親戚に泣きつけ。それが無理なら他人の力を借りろ。著名な建築家が設計した家だ。金を出したがるやつはいくらでもいるだろ」

「……そういう話、いくつも来てます。でも、大抵この家を観光地にすることが目的なんです。入館料をとれば、いい商売になると」

「そうだろうな」

「でも私は……」


 この家でお金が稼ぎたいんじゃない。ただ暮らしたいだけだ。今まで通りに。

 たとえもう、ここには私しかいなくても。


「…………」

「…………」

「…………」

「…………ああクソ!」


 真堂さんは低くうなるように叫んだ。その声に私はビクッと肩を震わす。何だろう。私がグチグチ言うから、怒らせたのかな……。

 でも、真堂さんが言い出したのは、全く予想していないことだった。


「脚立」

「……え?」

「脚立くらいあんだろ。出せ」

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