005 不審者との攻防

 弁当屋から家まで、徒歩10分。最後の坂は電灯がなく、頼りになるのは月明かりだけ。ほの暗い細道が続く。

 今日はとても大変な一日だった。ロク先生の変人っぷりはいつものこと。だけど由良さんは違う。あんな人と話すことになるなんて思わなかったな……。


「あ」

 

 そういえば、お客さんからもらったアメ、ポケットに入れっぱなしにしていた。

 疲れには糖分。私はアメを、口の中に放り込んだ。リンゴの蜜がすぐに溶け始める。甘いだけじゃない、ほんの少し酸味もある。穏やかで優しい味が、口いっぱいに広がった。今まで食べたアメの中で、一番美味しいかもしれない。

 そんなことを考えていたら、誰かが近づいてくる気配がした。


「…………」


 そこにいたのは、男の人だった。ベージュのコートを身にまとったその人は、じっと私のことを見ていた。若園先輩が言っていた不審者だろうか。少なくとも、ロク先生ではないことは間違いなかった。


「ねぇ、お嬢ちゃん」


 湿度100パーセントのねっとりとした声。

 お嬢ちゃん。誰だろう。遠くで鳴いてる鳥のことかな。


「ねぇ、星凛女学院の生徒だよね? だったら、ちょっとお話しさせてよぉ」


 だったら? 私が星凛女学院の生徒だったら、見知らぬおじさんと話さなければならないのか。それなら、今すぐ退学する。

 まさか注意されたその日に、不審者と出くわすなんて……。


「ね? いいでしょ? おじさん、楽しい遊びいっぱい知ってるから、手取り足取り教えてあげるよ」


 不審者じゃぬるすぎる。

 ただの変質者だ!

 私はきびすを返し、走り出した。


「ああ、待ってよ~」


 一生懸命走ってるのに、おじさんの息づかいを振り切ることが出来ない。

 怖い。気持ち悪い。早く家に着いて!

 そう強く念じた時。


「――ぐえっ」


 と、まるでカエルが潰れたような声がした。どさりと、重たい何かが倒れる。

 恐る恐る振り返ると、ねっとり声のおじさんは道路に倒れていた。そして、そのすぐ側には男の人が立っていた。


「…………」


 目鼻立ちははっきりとしていて、とても整っている。ぼさぼさの髪と黒のジャケットとパンツのラフな服装。観光客には見えない。でも、近所にこんな人はいなかったと思う。年は、三十代前後? 私よりもずっと年上だろうけど、無警戒な澄んだ瞳は、とても幼く見える。不思議な空気がただよう、どこか異国の匂いする人だった。


「大丈夫? 怪我、ない?」

「は、はい。助けて下さって、ありがとうございます」

「次、変な奴に絡まれて逃げられない時は、頭の辺りをバッグで殴るといいよ。視界も遮られるし、痛いから」


 ありがたいアドバイスだった。

 もちろん、『次』がないことが一番だけど。


「この人、君の知り合い?」

「全く知らない人です。多分、最近よく出る不審者だと思います。よくこの辺りをウロウロしてるって聞いたので」

「そうなんだ。俺と同じだ」


 黒ずくめの彼が、新たな爆弾を投下する。


「俺も最近、この辺をうろついてる」


 ふと、先輩の言っていた不審者の特徴を思い出す。背の高い、黒ずくめの男。何の偶然か、目の前にいる彼にも当てはまる特徴だった。……偶然、だよね。


「…………」


 ……いやいやいや。まだ、決めつけるのは早い。黒ずくめの男の人なんて、この世にごまんといる。


「うろついているというのは……観光ですか? それともお散歩?」

「いや」

「……では、なぜ」

「君の家とバイトがこの辺りだから」

「…………」


 『次』は、予想より遙かに早くやってきた。


「送って行くよ。一緒に帰ろ――」


 私は、彼の頭に向かってバッグを思い切りフルスイングした。その勢いに握力が負けて、バッグは飛んでいった。そこまで全力を込めたのに、私の渾身の一発は、いとも簡単にかわされた。

 その時、彼のこめかみ辺りに傷が見えた。もうすでに完治しているようだけれど、縫い跡は痛々しい。当たらなくて良かったと、ほんの一瞬思って。

 私は走り出した。……男の人は、追ってこなかった。

 

 無事家に着いて、私は速攻で警察に通報した。捕まったのはねっとりおじさんだけで、黒ずくめの人は見つからなかったそうだ。

 その翌日。私が投げたバッグが、玄関の前に置いてあった。汚れは落とされていて、外見も中身も元のまま。あの黒ずくめの人が、届けてくれた。そう考えるのが自然だと思う。

 つきまとってきたおじさんから助けてくれて、さらにはバッグまで届けてくれるなんて、実は悪い人じゃないのかも……。

 

「いや、私の家とバイト先を知ってる時点で怪しすぎる」


 護身術を習おう。私はそう心に誓った。

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