病名:恋

またたびわさび

第1話

 ずっと昔から、誰もが一度はかかる病気がある。心臓に花が咲く病。病名を「恋」と言った。

 これは、僕がまだそれを知らなかった頃の話。


 

 幼い頃から、自宅のリビングには菊の花が飾られてあった。美しい、赤い菊。初めは、それが飾られてあることに全く何も感じなかった。一度だけ、この花について母さんに訊ねたことがあったが、私たちの花なの、とだけしか言ってくれなかった。私たちっていうのはたぶん両親のことで、きっと両親は菊が好きなんだな、となんとなく思っていた。

 小学二年生の時、父さんが病気で倒れた。お見舞いに菊の花を持っていこうとしたら、ばあちゃんに怒られてしまった。病院に菊なんて持って行っちゃいけないよ、と念を押された。めんどくささもあり、そうか、と特に理由を聞くこともなくその時は納得した。

 父さんが亡くなった時、葬式の祭壇に菊が飾られているのを見て、病院に菊を持って行ってはいけない理由を理解した。


 父さんが死んだのは、10歳の頃だった。葬式の後、家のリビングに飾ってあった菊を見て、涙が止まらなかった。そこでようやく、父がいなくなってしまったことが現実味を帯びてきたのだ。

 それから数日間は、学校でも落ち込んでばかりいた。母さんは変わらず菊の花を飾り続けていたので、リビングに入るたび悲しくなった。

 そんな時期に、幼馴染のナミに散々慰められた。学校でもいつも傍にいてくれて、毎日一緒に学校から帰っていた。いつも僕の隣で笑っている彼女に、随分と助けられたのを覚えている。


 あれから5年。僕たちは中学三年生になり、今も変わらず一緒に下校していた。

「ねね、きー君って数学得意だっけ?」

「数学かー。まあ、得意な方かな。応用はちょっぴり苦手だけど」

「じゃあさ、今度の休日教えてくれない?私、全然理解できないんだよね……」

「あー、ナミ苦手そー……。いいよ。どこで勉強しようか」

 父さんが死んだあと、いつも傍にいてくれたナミに恩返しをしたくて、何かを相談されたら極力それには答えるようにしていた。彼女のために、できることは全部したかった。

「んーじゃあ、きー君家!」

「え!? なんで僕ん家なんだよ……」

「えーいいじゃん。昔みたいにさ、きー君家行ってみたい」

 へらへらと笑いながらそういう彼女の顔は、あの時と同じ笑顔だ。自分の家に女の子を入れるというのは、思春期的にすごく恥ずかしいけれど、その笑顔を見せられると断るのを躊躇ってしまう。彼女のためになるのであれば……。

「ああ……。分かったよ。来てもいいよ……」

「やったー! ありがと!」

 屈託のない笑顔で両腕を高く上げて喜ぶ姿に、なんだか幼さを感じる。僕は一人っ子だけど、妹を見ているような感覚になる。要するに、癒しというものを感じさせてくれる。体は小さくて、髪の毛もさらさらとして柔らかく、その目はいつも輝いている。彼女は、あの頃のまま変わらない。


 休日になり、約束通りナミは僕の家にやってきた。7月の半ば。すでに蝉が鳴き始めて、じーじーという音が余計気温を上げているような気もしてくる。ナミはTシャツにショートパンツというラフな格好だった。

「いやー暑いねー。リュック背負ってるから背中が蒸れるー」

 気の抜けた声を発しながら靴を脱ぐ。ナミは居間いたばあちゃんに律儀に挨拶をして、さっさと2階にある僕の部屋へと向かう。僕は呆れながら彼女の後をついて行く。

「一応人ん家なんだけど……」

「いーじゃん! 幼馴染のよしみってやつですわ!」

「えー……」

 部屋に入り、床に置かれたテーブルに向かい合って座る。僕はクーラーをつけ、ナミはリュックの中から勉強道具を取り出す。

「きー君、今日ママさんはいないの?」

「仕事。父さんが死んでから、母さん仕事する時間増やしたみたいで。言ってなかったっけ」

「おばあちゃんは? お医者さんやめちゃったの?」

「ああ、うん。もう年だから」

 ばあちゃんは、昔医者だった。診療所は別のところにあってそこで働いていたのだが、僕が中学入学と同時に職を手放した。年齢的にもう無理だと判断したらしい。ただ、ばあちゃんのおかげで貯金はあったので、父さんが死んでからもさほど苦しい生活はしていない。母さんだけは、仕事で忙しそうだけど。

 ナミは意外と勉強に集中していた。比較的活発な人間だから、これには驚かされた。時々ナミの質問に答えながら、自分も問題集を解いていく。ちらと、横目にナミを見る。黒くさらさらとした髪を垂らしながら、一心に数学の問題と対峙している。その姿はなんだか微笑ましかった。だが。

「もうちょっと、目離してやりなよ。目、悪くなるよ?」

「え、あ、そっか」

 一度こちらを見てから背筋を伸ばして、再び問題に取り組む。しばらくその様子を見ていたのだが、すごくやりづらそうだ。時々顔をしかめている。

「いや、その体制辛いなら、別に僕の言ったこと無視していいからね……」

「んーでも、きー君の言ってること正しいと思うから頑張ってみる!」

 にっと歯を見せて笑い、辛そうな素振りを見せながらも必死にシャーペンを動かしている。……顔を真っ赤にして。

「顔赤いけど、もしかして暑い? もうちょっとエアコンの温度下げようか」

 リモコンを手に取り、エアコンに向けて温度を下げようとする。

 だが、いきなり腕を掴まれた。結構強い力で。

 驚いてナミを振り向く。ナミは、腕を伸ばして僕の腕をつかんだまま俯いている。まるで、その赤い顔を隠すように。

「……どうかした?」

「あの、ね。もう1個だけ、相談があるんだけど……」

 今まで色んな相談事を受けてきたし、それに対してできることはやってきたけれど、今のナミはどこか変だ。いつもより暗さを含んだ声、心なしか体も震えている気がする。

「いいよ。話してみて」

 僕の腕から手を放し、ナミの体から力が抜けるのが分かる。ずっと床を見ていたナミは顔を上げ、僕の目を見つめた。初めて、見たかもしれない。彼女がこんなにも、苦しそうな表情をしているのを。

 ナミは、その両手をTシャツの襟元にかけ、ゆっくりと体から服を引きはがした。白くて瑞々しい肌が、目の前に現れる。

「え……。ナミ……? 何やって――」

「どうしても、抑えられなかったや……。大丈夫だと思ったんだけどな……」

 にへ、と笑う。それは、あまりに異質だった。彼女に強がりは似合わないのに、不器用にそれをしようとしているからだろうか。

 どうしていいのか分からない。目のやり場も困る。頭が、うまく働かない。

 不意にナミが僕の右手を掴む。

「あのね、胸が苦しいの……。ずっと苦しいの。きー君と一緒にいると、なんでか胸のあたりがぎゅーって、なるの……」

 抗うこともできず、ナミに引っ張られた僕の手が彼女の胸のあたりに触れる。ブラジャーの少し上。小さく膨らんだ胸の感触に、一瞬頭が真っ白になる。

 手が震えてきた。全身を脈打つ鼓動も早くなる。暑い。熱い。冷房は、効いているだろうか。息も、荒くなってきた。

「ナ、ミ……」

「心臓のあたりが、苦しいんだ……。きー君、感じる……? 私の、心臓の動き……」

 とくとく、と脈打っている。ちゃんと、伝わってくる。彼女の音。彼女の温かさ。僕も、苦しい。これは、彼女と同じ苦しさなのだろうか。

 いつだって、彼女のためにと相談に乗ってきた。彼女の悩みを晴らしてあげられた。彼女を笑顔にしてきた。だけど今回ばかりは、自分でも答えが分からない。彼女の苦しさはなんだ。この苦しさはなんなんだ。心臓が締め付けられて潰れてしまいそうなくらい苦しいのは、どうしてだ。

「……とりあえず、服、着てよ……」

「……あ、ごめん」

 本当の彼女は、笑顔の奥に隠れているのかもしれない。初めて見た彼女には、幼さの欠片も無かったような気がする。はだけた彼女は、美しいとさえ思えた。

 また、胸が苦しくなる。


「……きー君は、胸が苦しくなる理由、知ってたりしない? どうすれば治まるかとか、知ってたりしない、かな……」

 答えられる自信がなかった。今、その苦しさを自分でも味わっているのだ。それに戸惑ったまま、僕も、何もできていない。

「ごめん、ナミ……。僕には、何も分からないや……」


 彼女が帰った後、僕は自室で放心していた。何度も何度も、服を脱いだ彼女の体が目に浮かぶ。何度も何度も、肌に触れた時のあの柔らかさと脆さが想起される。その度に、心臓が締め付けられ、息をするのも苦しくなる。体も熱い。

 どれだけ時間が経ったか分からない。僕は、1階から聞こえるばあちゃんの声を聞いて、ようやく現実に引き戻された。夕飯の合図だ。


 いつも通りの、ばあちゃんと二人の夕食。いまだにぼーっとしたまま、台所に置かれたテーブルのいつもの席につく。ご飯を盛った茶碗を手に、ばあちゃんが徐に声を発する。

「ナミちゃんが来たの、何年ぶりかしらねえ」

「そうだね……。父さんが死んで以来かな」

「……今日のアンタたちは、どこか具合が悪そうねえ」

「え……?」

「何年医者をやっていたと思ってるのさ。それぐらいの変化を見落とすわけがないじゃないか」

 純粋に、すごいなと感激した。年だからという理由で引退しているくせに、医者の目はいまだに健在のようだ。

「……胸が苦しいんだ。ナミもそう言っていた。ばあちゃんは、これ、知ってたりする?」

「そうかい」

 一言そう言って、しばらく無言の時間が流れる。

 ばあちゃんが作ってくれた夕食を口に運ぶ。一生懸命噛んでいるのに、全然味を感じない。

「アンタは、どういう時胸が苦しくなる?」 

 静かに、ばあちゃんはそう言った。

どういう時。本当のナミを見た時、どくんと大きく、心臓が体の芯を打つのを感じた。その後からだ。その後から僕は、苦しいと感じた。

「ナミを、見た時……。ナミのことを考えている時、苦しくなる……」

「そうかい」

 その言葉を最後に、会話が途切れた。


 夕食後、ばあちゃんに呼ばれて居間に向かった。部屋の真ん中に置かれたちゃぶ台の横に腰を下ろしており、卓上には医療器具のようなものが置かれていた。

 ばあちゃんの横に座る。開口一番、

「左手を出してみ」

 と言われた。

「……なんで?」

「いいから」

 訳も分からず言われた通りに左手を出す。すると、ばあちゃんは自然な素振りで卓上の器具の中から針を取り出し、それを僕の手に刺そうとする。

「ちょちょ、え、なんで!?」

 慌てて左手を引っ込める。ばあちゃんは笑っていた。

「左手の薬指。昔から、心臓に繋がってるって言われておってな。そこの血が必要なんじゃ」

「なんで血がいるのさ……」

「アンタたち、病気だからだよ」

「え……?」

 思わぬパワーワードに、言葉を失ってしまう。病気、なのか。アンタたちと言われた。僕だけじゃなく、ナミもまた……。

「ちょっと痛いだけなんだから、我慢しんさい」

 そう言って、左手の薬指に針を刺す。小さく空いた穴から、風船が膨れるように血が出てくる。ばあちゃんは、それを針の先端で器用に掬いシャーレのような入れ物に垂らした。

「じゃあ、調べてくるから」

 

 しばらくしてばあちゃんが戻ってくる。僕は不安だった。ひどい病気だったら、どうしよう……。

「ちゃんと、花が咲いてたみたいねえ」

「…………花?」

「病名は『恋』。心臓に花が咲く病じゃ。その花は、宿主の心臓にまとわりつくように生えて、特定の人間について思考した時心臓を締め付ける。苦しいのはそのせいじゃよ。ただまあ、心配なさんな。誰だってこの病気にかかる」

 ピンと来ない。心臓に花が咲いているなんて。一体、どんな花なんだろう。

「アンタは、ナミちゃんのことが大好きなんだねえ」

 穏やかに、そう付け加えた。


 翌日、もう一度ナミを家に呼び、ばあちゃんに、僕と同じくナミを見てもらった。結論も、僕と同じだった。


 ナミを自分の部屋に招き入れる。少し、緊張した空気が漂う。僕もナミも、何を言っていいのか分からないのだ。


 昨日、ばあちゃんに言われて、『好き』というのを考えた。僕は、ナミが好きなのだろうか。『好き』って、何だろうか。

 父さんが死んだときのことを思い出す。ナミは一生懸命僕を慰めてくれた。それからいつも、学校で一緒にいてくれた。一緒に帰ってくれた。笑顔に助けられていた。恩返しがしたくて、ナミの相談にはいつだって乗ってあげた。彼女のために。

 本当にそうだったのか。僕は、彼女のためにと言い続け、ずっと胸の奥にある欲から目を背けていたんじゃないか。

 彼女の笑顔を、見たいと願っていたんじゃないか。


 ナミの顔を、ちらと見る。どくん、と心臓が体を打つ。


 昨日の夜、ずっと考えて、この感覚だけは花のせいじゃないと思った。どくんと芯を打つ感覚こそが、『好き』の正体なんじゃないか。彼女の笑顔を見たいと思い続け、昨日、彼女の本当の笑顔を見ることが出来た。暗さを含んだあの笑顔を見た時、確かに心臓が体の中心を打ったのだ。『好き』だと感じたのだ。それを合図に、花が胸を締め付けるのだ。

 あの笑顔を思い出すたび、『好き』だと思う。それに反応し、花は容赦なく僕を苦しめる。

 ただ一つだけ、さっきばあちゃんがこっそり教えてくれたあのことに対しては、明確な嬉しさを感じた。

 沈黙を、破る。

「僕らの花は、同じなんだって……」

「え……?」

「僕とナミの花は、同じ花なんだ」

 父さんと母さんの花が、菊であったように。

「ナミは、その……、僕のこと、好きなの……?」

 直接的過ぎたかとも思ったが、ナミは少し驚いた表情をした後、いつものあの笑顔になって言った。

「へへ、そうだね……。好き、かな」

 また、どくん、と心臓が大きく打つ。花が、締め付ける。

「きー君は……、私のこと好き?」

 あの時のナミが、再び顔を出す。抗えないのだ。同じ花を持つもの同士、想いを隠すことなんてできやしないのだ。

 ふう、と息を吐く。目を、合わせる。

「好き、だよ……。ナミ……」


 恋の花は、これからも僕らを苦しめる。

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