23.

 弘樹と由香の秘密を知ってから、僕の気分は妙に落ち着いていた。あの日は久々によく眠れたし、仕事をするのも苦痛ではなかった。

「落ち着いて来たようですね」

週の中頃、西村先生にそう声を掛けられた。

「何と言うか……私生活でもひと悶着ありまして。変に冷静さを取り戻したというか」

「あらまぁ。話を聞きましょうか?」

眉根を寄せた西村先生を見て、自然と笑みがこぼれた。


 僕を心配してくれているのだ。それはそうだろう。西村先生には、ダサくて恥ずかしい姿を盛大に披露してしまったのだから。

 美穂のこと、由香と弘樹のこと。強いて考えないようにしていた訳ではないが、ちょっと間を置いてみようという気分でいた。しかし、由香も待たせていることだし、週末にでも改めて考えてみるつもりだ。その為の場所も決めてある。

「いえ、大丈夫です。今は冷静に間を置いているつもりです。週末にでも、ゆっくり考えてみようかと。母の実家が海に近いので、久々に尋ねてみるつもりです」

西村先生は、じっと僕の目を覗き込んで来る。やましいことは無いので、まっすぐにその目を受け止める。

「……そうですか。海、いいですね」

「はい」

何度も頷いた西村先生に、僕もしっかりと頷き返した。



 金曜日の夕方、病院からの帰り足で、そのまま母の実家へと向かった。

「じいちゃーん、ばあちゃーん、来たよー」

九時ちょっと過ぎに、千葉の祖父母宅の玄関をくぐることが出来た。

「ゆうちゃん! あらまぁ、久しぶり!」

「雄一、立派になったなー。こりゃー、すっかり偉い先生だわ」

祖父母が玄関へ顔を出す。二人とも七十歳になるが、まだまだ足腰もしっかりしている。

 母には既婚の兄がいるが、ここには住んでいない。高齢の祖父母の二人暮らしだが、体も頭もはっきりしているので、心配している者はいなかった。二人揃って達者にしているうちは、好きにしてもらおうというスタンスだ。

「さぁ、上がって上がって!」

昔から、祖父母のこの満面の笑顔が大好きだった。


 二人も、心から僕のことが大好きなのだ。僕が大学院に合格した時、盛大にお祝いを言ってくれたのはこの二人だけだった。両親共に「受かると思ってたわー」程度の薄い反応だったのに対し、祖父母は「すごい所に合格した! 大したもんだ! 自慢の孫だ!」と褒めてくれた。今思い出しても、少し照れ臭い。

「ほら、雄一、こっちおいで。もう来ると思って用意してたぞ」

祖父が手に持った団扇で手招きしながら、そそくさと居間へ向かう。


 日に焼けてささくれだった畳。やたらと重そうな座卓。カチカチと音を立てるアナログな時計。僕が小学生の時に描いた夏休みの宿題、海の絵まで飾ってある。祖父母の時間はゆっくりと進んでいるようで、ここには大きな変化などないのだ。もう三十歳近い僕でさえ、可愛い孫のゆうちゃんのままだ。

「ほら、座れ座れ」

「私は煮魚を温めて来るわね」

座布団まで用意されている。

 座卓に置かれた瓶ビールは、少し汗をかいている。そら豆、刺身、煮物……祖母が張り切って台所に立つ姿が目に浮かぶようだ。


 じいちゃんが差し出した瓶ビールを、コップで受ける。

「仕事はどうだ? 臨床心理士の先生は大変か?」

泡が溢れそうになって、慌てて口を付けて啜る。

「いやぁ、すごく頼りになる先生に可愛がってもらっているから大丈夫だよ」

「そうだろうな! 雄一は素直だから、先生も可愛いがってくれるべ」

そう言って豪快に笑うじいちゃんに、僕も笑顔でビールを注ぎ返した。

 台所から、甘い醤油の香りが漂って来る。

 僕にとって、居心地の良い場所と、惜しみなく愛情を注いでくれる人達。それが解っていて、ここに来た。しかし、甘やかしてもらう為ではない。僕を宝物のように扱ってくれる人達がいることを実感しに来たのだ。大人になった僕は、この人達の前でこそ、情けない姿は見せられない。ずっと甘やかしてもらった分、そろそろ自分に自信を持った大人の姿を見てもらわねばなるまい。

「ばーさん、蚊がいるぞ! 蚊!」

団扇をばさばさ振り回すじいちゃんを見て、僕は慌ててビール瓶を抑えた。



 明るい和室で目を覚ますと、微かに磯の香りがした。染みの浮き出た木目の天井が見える。そうだ、じいちゃんの家に来ていたのだ。この懐かしい感覚。子供の頃の夏休みが思い出される。みそ汁の香りに誘われて居間へ行くと、一人分の朝食が用意してあった。

「あら、ゆうちゃん、おはよう。ご飯食べな」

台所へ向かう祖母の後を追う。僕の味噌汁をよそってくれているようなので、炊飯器のご飯を自分で茶碗によそう。

「じいちゃんは?」

「早くに釣りに行ったよ。相変わらず、釣りばっかり。よく飽きないね。その内、海に落っこちるよ」

呆れたように溜め息を吐いた祖母の様子も、相変わらずのものだ。祖父の釣りは、祖母の愚痴とセットになっている。

「僕も、食べたら海に行ってみるよ」

「うんうん、そうしな。お外で遊んで来な」

まるで子ども扱いだ。


 一人暮らしの僕にとって、朝から温かい白米とみそ汁が食べられることは贅沢なことだった。感謝しつつゆっくり食事をする間、祖母は体を休めることは無い。いつでも動いて何かしている印象が強い。漬物を作っていたり、掃除をしていたり、庭で花をいじっていたり。それが健康の秘訣なのかもしれない。そんな祖母なので、男の子はお外で体を動かしているほうが元気に見えるのだろう。かくれんぼや駆けっこをする気は無いが、お椀を台所へ下げてから玄関へ向かう。

「じゃあ、ちょっと海へ行ってくるよー」

「はいよー気を付けてー」

祖母の返事を確認してから、外へ足を踏み出した。



 海までは下り坂になっている。

 砂浜から道路を挟んで、小さな山があるのだ。その斜面に、民家が重なる様に建っていた。祖父の家は頂上近くなので、浜まで降りるには長い坂を下ることになる。当然、帰りは上り坂になるわけで、子供の頃は海で遊び疲れた体を引きずる様にして帰ったものだ。

 軒先の植木鉢など眺めながら、砂浜を目指す。建物が邪魔をして海は見通せないが、潮の香りが強くなって来る。行き止まりで防波堤の階段を降りると、視界の広がりと開放感に目がくらんだ。


 砂浜と眼前の海。鈍色をした波が、砂浜で白く崩れる。空はぼんやりとした水色だし、浜辺には乾いた小枝や海藻が転がっている。南国の美しい海という訳にはいかない。それでも、潮の香や波の音、砂の感触には心躍るものがある。何より、子供の頃に遊んだ記憶が、この海岸を懐かしく感じさせた。

 砂浜に腰を下ろすと、単調な空と海しか見えない。耳に入るのも波の音だけ。考え事をするには良い場所だ。


 さて、何から考えようか……。

「由香かな……」

連絡を待っているだろうから、きちんと答えを出さなければならない。

 大学の頃、高根の花だった由香。僕の彼女になってくれて、本当に嬉しかった。自慢に思っていたし、自分に自信を持てた気がした。しかし、付き合ったばかりなので、由香と特別な絆があったかと問われれば、それは無かったと答えるしかない。元看護師の小林相手に演じた醜態や、美穂の事件を知った時のダサい自分のことを由香には相談出来なかった。

 由香相手に、格好を付けたかったのかもしれない。長く交際を続けて行けば、そういう話も出来るようになったのだろうか。では、今回の事も試練だと思って、もがきながら交際を続けるべきで、それこそが愛を育むということなのか。

 

 無理だ。僕には出来ない。


 何ヶ月か前の僕ならば、敢えてそういう道を選んだかもしれない。立派な人間を目指すために、苦しみを抱えて乗り越えるべきだと考えただろう。しかし今は、素直に無理だと言える。なぜなら僕は、未熟で卑怯で愚かな人間だからだ。それを困難から逃げる言い訳にしようとするのではない。ただ、心底認めて痛感したのだ。


 由香と弘樹も、愚かな人間だ。僕は二人が、自分よりずっと優れていると思い込んでいたが、そうでは無かった。遊びでセックスを繰り返し、その行為の清算に苦しむ姿を見せられたのだから。そんな二人を見て、僕は激しい怒りや軽蔑といったものを感じなかった。ああ、この二人も愚かなのだという安心感の方が強かったのかもしれない。

 連帯感とは少し違う。二人の愚かさを認めると同時に、自分の中の愚かさを受け止めることが出来たのだ。


 それまでは、僕は自分のことを『愚か』とは言いながら、心のどこかにある崇高な精神こそが、本来の自分だと思っているような節があった。その崇高なものを引き出す方法が解れば、僕の人格は磨かれ、理想の人間になれるのだと。それは、臨床心理士を目指した時の気持ちと同じものなのかもしれない。自分は人の心を理解することに長けているのではないか、他の人よりも優れた才能があるのではないかという想い。自信が持てないからこそ、そんな不確かな拠り所を隠し持っていた。


 ただの驕りだ。


 その驕り故に、僕は自分を愚かだと思い切れずにいた。だから、愚かさを隠そう、否定しようとして、悩む方向性を間違っていたように思う。

僕が由香や弘樹を軽蔑出来なかったのは、愚かさを曝け出して怒鳴り合っている二人に潔さを感じていたせいもある。同じく愚かでありながら、僕には真似出来ない行為。自分を愚かだと認めきれないが故に、曝け出すことも出来ない。尊敬している西村先生に、駄々をこねるようにぶつけるので精一杯だった。それもどこかで、否定して慰めて欲しいという気持ちがあった。


 そうなのだ、僕は間違いなく愚かだ。それを帳消しにできるものなど、心のどこにもありはしないのだ。

 だから……由香と恋人のままではいられない。

 僕は愚かだから、背負いきれないものが当然ある。困難な選択を敢えて選ぶ必要は無いだろう。それに挑む程、僕は由香を欲してはいない。困難だからといって、自分が磨かれるとも思えない。僕には出来ないと認めることも、一つの選択なのだろう。

 由香を失っても、由香に好かれたという事実は無くならない。今度誰かを好きになったとしたら、高根の花だと諦めずに、自分から告白してみるのも良いかもしれない。


そう、由香とは別れよう。



 一つ答えが出たところで、砂浜に寝そべった。

 後は美穂のことだが……自分の愚かさを自覚した今、真っ先に自分の責任について考えたことや、泣かなかったことを悩む気にはなれなかった。恥ずべきことかもしれないが、僕はそういう人間なのだと思える。ここでつまずいて、悩んでいては駄目なのだろう。歯を食いしばって認めた先に、臨床心理士として悩むべきことがあるのだ。

 僕が恥ずべき人間だとしても、自分が得てきた知識や経験が無くなるわけではない。それらに自信を持ち、最大限に生かしながら何が出来たか考えるべきだ。


 あぁ、僕はそんなことを西村先生に言われたのでは無かったか……。

『清濁併せ持った己と向き合って下さい』『少しは自信を持っても良い』と。

 師の言葉は、こうやって自分の身の内に落ちて定着するのだろう。


 美穂の事件を聞いた西村先生は、『自分に何か出来たことがあっただろうか、今回のような悲劇を繰り返さない手段があるかどうか考えている』そんな風に言っていた。その言葉を受けて、僕も弘樹と一緒に考えてみたりもした。あれはあれで混乱を鎮める効果はあったが、実があったとは言えない代物だった。

 僕に出来たことは何だったのだろう。改めて、考えてみるべきだ。


 突然、耳慣れない音が飛び込んで来た。


 チリン チリン


 鈴の音か?


 辺りを見回すと、少し離れた場所に女性が立っていた。手から伸びた長い紐の先で、猫が歩いている。猫の散歩か……。紐の先には犬がいるのだろうと予想していた僕は、猫の姿を見て笑みを浮かべてしまった。世の中には、予想外の事が簡単に転がっているものだ。


 チリン チリン


 猫の首輪に、鈴でも付いているのだろう。

 波の音に重なる、不規則な金属音。何か、巡礼といったイメージを想起させる。お遍路さんの鈴を思い出させるのだろうか。


 突然、美穂の死を悼む気持ちが沸き上がってくる。


『ゆうちゃんせんせー』


声が聞こえた気がした。


 そうだね、君は死んでしまった。もう会えない。


『やりたいこといっぱいあるなー』

そう言っていたね。やりたいこと、いくつ出来たのかな?


 今はただ、君が穏やかであることを祈ろう。僕の悩みなど、どうでもいいから。君が今、苦しみや悲しみと無縁であることを祈ろう。


 チリン チリン


 そして僕は、臨床心理士として、西村先生と相談するよ。君に起きたような悲劇を繰り返さずに済む方法を。


 この涙が止まったら。

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臨床心理士のアウトカム オサメ @osame

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