プロローグ(2)

  二


 極度の集中がこうまで長時間続くと、さすがに喉が渇く。


 斎藤は、かけているマスクの、左の紐は手で軽く頬に押し付けて外れぬようにしたまま、右の紐を耳から外し、アイスコーヒーのグラスに刺さっているストローの端を咥え、もう氷が解けて水っぽくなったコーヒーを一口吸い上げて、再び右の紐を耳にかけ直す……という、面倒臭い動作をした。それからしばらく右耳の辺りをごそごそ触っていたが、やがて視線をまっすぐ前方に据えた。


 喧噪は切れ目がないが、かといって、カフェのすべての女性が情報交換にいそしんでいるわけではない。たとえば目の前のテーブルにいる、川井摘美鈴かわい つみれ二十二歳歯科助手見習い独身彼氏ありは、一回六十分の英会話のカフェレッスンを終え、外国人講師ボビー・W・タイラーが立ち去って一人になってからも、手渡された教材のプリントと、もう三十分も格闘していた。


――む!


 斎藤はやにわにタブレットにタッチし、画面を復帰させる。鋭くなった斎藤の視線は、時刻表示ではなく、目まぐるしく動く秒表示でもなく、その隣の、すでに確定したラップタイムの数字に注がれている。


――八十六秒フラット……。


 斎藤は厳しい目をしたまま、マスクの下でつぶやいた。


「今、ターゲットは何をしている?」


 斎藤は画面の数字をじっと睨んだまま、再びマスクの紐を右耳から外し、ストローを咥え、アイスコーヒーを吸って、紐をかけ直した。そして、マスクの紐に絡んだもう一本の紐の先を指先で確かめると、耳の穴に差し込んだ。それはイヤホンだった。先ほどもごそごそと同じ仕草をしていたのだ。


 少し向こうの席に座っていたスーツ姿の細身の男性が、空のグラスを手に斎藤と川井摘美鈴の間の通路を通って、ピッチャーの水をセルフサービスで入れ、再び自分の席へ帰っていった。


 程なくして、左耳に詰められたイヤホンから、若い男の声が斎藤に答える。

「見たところ次回の予習ですね。今やっているのは、"IN A CAFÉ(カフェにて)"と題された、ボブ・タイラーの自作テキストのようです。実際の二人のレッスンを模した、"Tsumire"と"Bob"のカフェでの会話、という設定ですが、ボブの手書きなので筆記にクセがあって読みづらいのと、どうも、 "It's not my cup of tea.(1) " のセリフあたりからわけが分からなくなっているようです。なぜコーヒーの話題で、お茶が出てくるのか理解できないのでしょう」


 斎藤はマスクの下でつぶやく。


「ボブ・タイラーはユーモアでそんなイディオムを使ったのだろうが、かわいそうに、川井摘美鈴のような英語学習の初心者は混乱するばかりだ。ボブの奴、日本語が話せないのに、次回どうやって摘美鈴ちゃんに説明するつもりなんだ」


 イヤホンの男の声がわずかに笑みを含んだ。


「斎藤さん、三週間もターゲットをマークして、情が移りましたか」


「おいスペード! ミッション中はコードネームで呼べ。そうだよ、情も移ろうってもんだ。ターゲットの英語が上達しないのは、教えている奴が下手だからだろう? それなのに彼女はいつも自分が悪いって悩んでいる。高いレッスン料払って、わざわざ自信をなくしているんだ。どうせまた明後日のレッスンで彼女は謝る。こう言ってな。

"Bob, I’m not a very good student, sorry."

この三週間で聞き飽きたよ」


 スペードの声がイヤホンから斎藤の耳に入る。


「さいとうさ……もとい、ジョーカー、今撮ったテキストの写メ、送りましょうか」


「いらん。それより早くターゲットを楽にさせてやろう」


 そう言い終えて、視線を摘美鈴に据えたその途端。


――うッ!

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