プロローグ(1)
一
♪ズッチャズズッチャ……。
頭の中に延々と流れるメロディーを英語でイヤー・ワームというが、漢字を当てるなら「耳虫」か、それとも「耳芋虫」か。
とにかくその虫が、
それは、クライアントにおいては、ファームウェア・バージョンの更新であったり、ログデータの吸い上げであったり、つまり、フラッフィーがバックグラウンドでKCJサーバーと交信中であることを示している。曲目は問わない。コマーシャル・ソングでも、「山寺の和尚さん」でも、そのときクライアントの頭の中にある、手近なメロディーをループ再生する。
だが、今このタイミングで自分にそれが起こるとは、斎藤は予想していなかった。
斎藤は思う。歌い出しまでの「ズッチャズズッチャ」という、絶妙なミドルテンポ。あのリズムは、あれ以上早くても遅くても、「明日からまた、仕事かあ……」という、世のサラリーマンたちの気だるい哀愁を表現することはできないだろうな……。
――いや、そんなことより、集中しろ、俺!
ズッチャズズッチャ……。
斎藤は思う。仕事を終えたらすぐ電車に乗って家に帰れるから……などという理由は、もちろん誰にも明かしていない。が、理由がどうであれ、インプラントの実施場所をここに決めたのは、ほかならぬ自分自身だ。しかもいま、たった一機、九百八十万円相当しか持ち合わせていないのも、自分以外の誰のせいでもない。だから、この場所設定が裏目に出たからといって、イラついてはいけないのだ。冷静に、淡々と仕事をこなすべきなのだ。俺はプロなのだから。
♪ズッチャズズッチャ、買い物しようと……。
――いかんいかん、集中ッ!
耳虫は斎藤の思考に関係なく回り続ける。斎藤は目を閉じ、頭を軽く左右に振ってから、顔を上げ、目を開けて周りを見回してみた。
街は、買い物客であふれている。
斎藤は、努めて現実を再認識することにした。
ここは、大きなターミナル駅構内にあるカフェのテラス席。テラスといっても、完全に屋内である。カフェが、個々のテナント用スペースとしてデザインされている区画からはみ出して、天井の高い、駅の公共スペースにパラソルを広げ、テーブルとイスを置いている。それが街カフェの屋外席を模したしつらえになっているということだ。
テラス席も屋内席も、ほぼ満席だ。日曜日の遅い午後、店内の客の全員ではないまでも、多くは買い物を済ませて休憩している女性たちだ。
彼女たちは、ひと通りの買い物を終え、ショップの手提げ袋やビニール袋を傍らに、羽を休めているが、口を休めることはない。あのモールに新しくどんな店がオープンしたとか、あの店のケーキを並んで買ったけれど大したことはなかったなどと、同伴の友人との情報交換に余念がない。そこここでの、そのような会話の集積が、切れ目のない喧噪となって斎藤の集中力をそいでいた。
斎藤が一人この席についてから、九十八分と十七秒経つが、まだ、一杯目のアイスコーヒーを飲み終えていない。
――とっとと仕事を済ませて、早く
日曜日で今日の
ところが、長年の仕事に培われた彼の
――それに、たった九百八十万じゃ、足らんかもしれん……。
そうした不安はさておいて、とにかくこの二件目の仕事を片付けなくては家に帰れないのだから、早いところ、おっぱじめなければならない(インプラントのオペを始めることを斎藤たちは、「オペ始める」→「おっぱじめる」と呼んでいる)。
だが行動開始に確信が持てる状況にいまだ至っておらず、おっぱじめ予定時刻を十九分三十一秒過ぎた今も、斎藤は自身をさいなむ焦燥感と闘っていた。
斎藤は握りこぶしを作ると、マスクの上からそのこぶしを口元に当てて、軽く咳払いをした。それから、ゆっくりとこぶしを解き、テーブルに置いたタブレット端末に指先で触れてみる。
省電力モードの黒い画面から復帰した画面の三分の二は、デジタルストップウォッチらしきアプリの窓が占めていて、コンマ何秒の桁が目まぐるしく時間を刻んでいる。バックグラウンドで稼働していたのだ。そして、ストップウォッチとは別に、画面の右下隅に、小さく現在時刻が表示されている。今、ちょうど午後三時半になった。斎藤の待機時間はついに百分を超えた。
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