第3話 恵瓊の驚愕

 タターン!


 遠くから鉄砲の一斉射撃の音が聞こえてきたので、儂は我に返った。あれは松尾山の方角だが?


 いよいよ、小早川勢が動き出したのかもしれぬ。


 広家殿の内応が不戦止まりであるのに対して、小早川秀秋殿の方はより積極的に寝返りを約している。西軍の方に攻撃を加えることになっているのだ。


 儂は、そちらの密約も把握していた。というよりも、秀秋殿の家老である稲葉正成殿や平岡頼勝殿を焚きつけて、内府側の調略担当である黒田甲斐守殿(頼勝殿の奥方の従兄弟という縁がある)と接触させたのは儂なのだ。


 秀秋殿は太閤殿下の甥。普通ならば内府殿に味方するはずはない。だが、太閤殿下の不興を買って減封の憂き目にあったところを内府殿に取りなしてもらった恩がある。


 そして何より、秀秋殿が今率いているのは、毛利両川の一家、小早川家なのである。あの小早川隆景公の家なのだ。秀秋殿が継いで毛利家からは独立したかのように思われているが、家臣の大半は元は毛利家の家臣なのだ。毛利本家の影響力を排除できるわけがない。


 その毛利本家で広家殿が中心になって内府殿に付く動きがあるのだ。いや、ほかならぬ西軍与党筆頭であるはずの儂でさえも裏では内府殿に近づいていると教えてやったのだ。気合いを入れて東軍のために尽くそうとするはずである。


 内府殿から軍監(監視役)として奥平貞治(内府殿の娘婿で長篠の戦いで勇名を馳せた奥平信昌の叔父にあたる)まで受け入れているのだ。


 その割に、今まで動く様子を見せなかったので内心では少し苛々いらいらしていたのだが、ようやく動いたか。


 だが、その直後に来た使番の報告に、一瞬、心臓が止まりそうな思いをする羽目になった。


「徳川勢が松尾山に鉄砲を撃ちかけた模様」


 馬鹿な! いくら愚図愚図ぐずぐずしていたとはいえ、内府殿の方から小早川勢を攻撃しては、すべてが水の泡ではないか!?


 今、小早川勢が西軍の側面をけば、この戦は東軍の勝利で終わるのだ。逆に、小早川勢が東軍を衝けば、さすがの我らとて内府殿の背後を衝かざるを得ない。東軍必敗の状況で動かねば、疑われるどころの騒ぎではない。勝利した西軍首脳によって裏切り者として処断されてしまう。


 逆に、我が軍勢が東軍の背後に襲いかかれば、東軍本陣は大混乱に陥る。そうなれば、前線の士気が崩壊して裏崩れが起こることは必定ひつじょう。東軍は大敗する。


 そうなれば儂の描いた絵図は完全に崩壊だ。なるほど、輝元公は西軍総大将として安泰、豊臣政権の筆頭大老として、形だけは丁重に祭り上げられるだろう。


 だが、それでは! このおよんで、我が策は水泡に帰すというのか!?


「それは重畳ちょうじょう。これで金吾中納言様も動かれることであろう」


 内心では恐慌状態に陥りながらも、儂は表面上は喜色を浮かべて見せる。その程度のことができねば外交僧などは勤まらぬ。禅の修行で得た表層上の平常心を保つ癖を、これほどありがたいと思ったことは滅多に無い。


 だからこそ、本陣に駆け込んできた次の使番の報告に、儂は内心では欣喜雀躍きんきじゃくやくしながら、逆に驚愕してみせた。


「金吾中納言様、返り忠! 大谷刑部の陣に攻め込んだ模様!!」


「馬鹿なっ! あり得ぬ!!」


 立ち上がって駆け出し、本陣を抜け出して松尾山の方角がよく見える位置に立つと、そちらを眺める。確かに、小早川勢が西軍向かって攻め下るのが見える。


 それを、呆然と眺めるをしつつ、儂は内心で自嘲していた。


 なるほど、これが武人のやり取りというものか。戦場往来を重ねながらも、儂は所詮は坊主よ。鉄砲を撃ちかけて寝返りを催促するなど、儂には到底思いつかぬわ。


 これで勝った。東軍の勝ちだ。我が策は、ほぼ万全に成ったのだ!


「あり得ぬ……あり得ぬ……」


 ただ呆然と敗者の表情を浮かべながらつぶやきつつ、儂の内心は勝利の歓喜に満たされていた。

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