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 ガス灯の淡い光に包まれたトラファルガー広場。中央では、フランス帝国のドーバー越えの野望を粉砕したネルソンが南方へ睨みを利かせ、その周囲で仕事帰りのジェントルマンたちがそれぞれの帰路についている。

 英国は皆が忠義を尽くすことを期待するEngland expects that every man will do his duty。死してなお、大理石の柱のてっぺんでフランス監視業務を強制された今でも、彼が掲げた信号文は、ぼくたち英国臣民の脳に刻み込まれている。

 そんな広場に面した「ブラックホール」という名前の酒場パブリックハウスで、ぼくとその友人である海軍大尉スペンサーはグラスを合わせていた。半世紀前から徐々に高まってきた禁酒の風潮の中でも、ぼくたちのように仕事後は酒に溺れる英国人は一定数存在している。禁酒教会の後ろ盾が女王陛下ハーマジェスティだというのにもかかわらずこの数が減らないものだから、ネルソンの言葉など誰も気に留めていないのではないかといった感じである。

 スペンサーはジントニックを片手にクリスプをつまみながら、「昨日のタイムズ、見たぞ。市街地のど真ん中で激しい銃撃戦と導力戦、負傷者を出しつつも情報執行局は犯罪組織『カテナ』の制圧に成功した、ってな」

「ぼくは新聞はあまり読まないけれど、もし本当にそう書かれていたのならタイムズもその辺の大衆紙レベルにまで落ちたもんだ。銃撃戦なんてぼくらの分隊しか、しかも小規模なものしか起こっていないし、そもそも敵は導力なんて撃っていない」

 国が意図的に流したものであると、僕はすぐに察しがついた。おそらく目の前で大げさな身振りで記事内容を説明しているこの男もわざと言っているのだろう。

 解析機関が実用化されて以降、あらゆる情報の入手が容易になったのと同時に、ゴシップや風評被害といった悪意を含んだ情報の類の伝播までもが促進されてしまった。英国はそういった状況を逆に利用して、明るみに出ると都合が悪い真実を無かったことにして、新しい真実を作り上げることに成功したというわけだ。

「で、そっちこそどうだったんだ、インドは」

「酷い有様だ。そこら中に瘦せ細った死体が転がっていた。さすがに本国は搾取から投資へ政策をシフトすべきだと感じたよ」

 ここ数年の間に、英領インドは飢饉やら暴動やらで治安が急激に悪化し、急遽王立海軍ロイヤルネイビーが現地へ派遣されることとなった。インドからは無限の資源と労働力が湧いて出てくると勘違いした英国の明らかな失策だ。そもそも、イギリスがインドを征服してから、治安が良くなったことなど一度もなかったのだが。

「正直帰ってこれるとは思わなかった。最悪ヒンドゥーの急進派たちに殺されて牛に食わされるまで想像していた」

「向こうからしたらぼくたちイギリス人は不浄の塊みたいなもんだから、せいぜいガンジスの底に沈められるくらいで済むだろ」

 仕事の憂さを晴らしに酒を飲みに来たというのに、交わす話はすべて仕事の話。これにはやたら労働を神格化したがる教会の連中も苦笑いするだろう。

「どうせこっちに帰っても仕事だろ?お互いに」

「ああ、まともな休暇なんてないさ。情報保安局の海底通信部が安全保障に関わる情報を傍受したとかで、うちは大慌てだ」

「なんだ、ノーチラスでも見つけたのか?」

「当たらずとも遠からずってところだ。ドイツがここ最近世界政策なんていう覇権主義路線を取り始めたのは知ってるだろ?それの足掛かりとして、ドイツは海軍の拡張、それも潜水艇を主力とした艦隊をすでに建造中らしい」

「潜水艇?あの棺桶にロイヤルサブリン級を落とせるとは到底思えんが」

「上の連中はみんなそう思っているが、相手はあの大陸軍をボコボコにしたドイツだ。陸で培った技術を海に転用するのもそう遠くないかもしれない」

 鉄血宰相ビスマルクがその地位を奪われてから、ドイツ帝国という国は舵取りを大きく変えた。かの国の皇帝が彼の築き上げた国際関係を粉々に吹き飛ばし、国名らしい帝国主義の旗を掲げて動き出したのだ。

 これまでイギリスは、自身の拡張路線と競合する相手、すなわちフランスやロシアなどの列強国たちとはそれなりに妥協をしてきたつもりであったのだが、このドイツに関しては一切妥協が通用せず、国も頭を抱えているといった状況だった。あの国はもう、ヴィルヘルムの野心のみを燃料とした機関と化している。

 カルカッタとケープタウンが繋がるのが先か、ベルリンとバグダッドが繋がるのが先か。この問いの答えが出るのは二十年後か、それとも二十分後なのか。どちらにせよ、分かっているのはこの二択以外の解答が出ることは一切ないという事実だけだ。

「ビスマルクの体制が崩れたのを利用して、周辺国家をイギリスの傘下に丸め込もうなんて話も出てる。特にフランスは、先の戦争でアルザスロレーヌを奪われてからドイツに対する敵愾心で溢れてるからな」

「仮にも子どもみたいに植民地を獲りあってる相手と同盟なんて組めるのか、甚だ疑問だな」

「お前たちも気をつけろよ。この前のあれだって、ドイツの政府関係者が連中を唆して技術部に差し向けたのかもしれない。イタリアはローマ占領に際してドイツにかなり世話になってるようだから、可能性は十分にあるんじゃないか」

「ああ、執行局でもその話はもう出ている。気を付けるよ」

「うちもこの間新しい艦隊を造ったばかりなのに、もう次の建造計画が出てる始末だ。『恐れを知らないドレッドノート計画』なんて、きな臭いったらありゃしない」

 戦争とは平和である。War is Peace.平和とは戦争である。Peace is War.そんなマクベス的矛盾が世界を駆けまわっていることを証明するかのように、英国は自らをそのきな臭さに向かって前進させている。女王に身を捧げよという言葉を植え付けられた英国人が、女王がやめよという酒を進んで摂取する矛盾のほうが幾分平和的だ。

 窓の外を見る。ネルソンは相変わらず、南に不審な動きがないかその眼を光らせている。あのモニュメントも南ではなく南東を向くように建て替えるべきだなと、ぼくはドイツ製のラガーを飲みながら思った。

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