九・エピローグ

 横溝は指揮棒をおろさずにそのまま第三楽章に突入した。

 アレグロ・ノン・トロッポのリズムに乗せて、透のピアノ独奏によって音楽の火ぶたが切って落とされる。

 テンポは弛むことなく前進し、旋律が紡がれていき、終末へ向かって駆けあがっていく。

 横溝の指揮には熱い魂が再び宿り、白髪を激しく振り乱しながらオーケストラと透を引っ張っていく。

 そこにあるのはオーケストラとの一体感だった。

 これまであらゆる苦楽を共にしてきた仲間。一つの音楽を作り上げるためにぶつかり、融和し、そして高めあってきた同僚たち。どの楽団員も一癖も二癖も持ち、一筋縄ではいかない。他者から見ればくだらないと思うようなこだわりを持ち、円滑なコミュニケーションを図るのが苦手で、そして、誰よりも音楽を愛している。

 そんな中で一つの音楽を共に作っていくことが、透にとって最高の幸せとなっていた。演奏者としてでなくとも、楽団員全員と携わり、一つ一つのコンサートを完成させていくことが、透にとっての幸せであり、生き甲斐となっていた。

 その仲間たちと一緒に、楽器を奏で、まさに一体になっている。

 こんな幸せなことがあっていいのか。

 指が鍵盤を叩く。すると音が出る。

 弓で弦を擦る。すると音が出る。

 リードを唇で震わせる。すると音が出る。

 たったそれだけのことなのに。

 たったそれだけのことを、やるだけなのに、こんなにも幸せな気持ちになれるのか。

 たったそれだけの小さな行動が集まれば、こんなに偉大な世界を出現させることができるのか。

 透の表情は自然と綻ぶ。

 そして、この世界の中に、桃香がいる。

 この美しく荘厳な世界の中で、自分は桃香と共に生きることができる。

 そんな幸せなことがあっていいのか。

 その幸せを掴みたい。

 桃香と一緒に、掴み取りたい。

 共に歩みながら、この世界に一緒にいたい。

 鍵盤を叩けば叩くほど、透の中でその想いが大きくなっていく。

 音楽は一人で作るものではない。

 音楽は演奏する者と、演奏を聴く者がいて、初めて完成する。

 そのどちらもが主体であり、そのどちらもが客体だ。

 そのどちらもが生産者であり、そのどちらもが消費者だ。

 聴いてほしいという欲望と聴きたいという欲望が音楽を産む。

 欲望が絡み合う場で、音楽は生成される。

 音楽が途切れ、カデンツァを迎える。

 他の楽器の音は消え、透の奏でるピアノだけがホールに響き渡る。

 十和田湖のときには自分に向かって弾いた旋律。

 今は、自分と、桃香に向かって旋律を奏でる。

 カデンツァの旋律がホールの中で産まれ、弾け、そして消え、また産まれる。

 今できるすべてのものをこのカデンツァに注ぎ込む。

 もつれる指を奮い立たせ、震える足を再起させ、飛びそうな意識をもう一度ピアノに集中させる。

 このリヒテスホールで弾く、最初で最後のカデンツァなんだ。

 そして、桃香に聴かせることができる最初で最後のカデンツァ。

 激しくも、甘美で、終末を予感させる旋律。

 渾身の力を振り絞って、透はそのカデンツァを弾き切った。

 透のカデンツァに引き寄せられるかのようにオーケストラの旋律が再び立ち現われ、一気に勢いを増していく。

 ほとばしる横溝の汗が、ゆっくりと舞台の上を舞うように透には見える。そしてその汗に、照明が乱反射し、様々な色の光の光線が舞台を彩るように見える。

 美しい。

 透は思う。

 上昇音型によって旋律が階段を駆け上がる。

 歓喜をもって、音楽は終結を迎える。

 最後の音が、ホール内に響き渡った。

 普段よりも長い残響音を全身で感じるかのように、肩で息をする以外はどの楽団員も動かずにいた。

 長い沈黙の後に、横溝が指揮棒をおろす。

 音楽が終わった。

 透の他の楽団員は、さすがプロとして一線で活動しているだけあってすでに呼吸は元通りに復旧していた。透だけまだ荒い呼吸を宥められないでいた。ぜいぜいと息を吸って吐き、酸素を体内に取り込んで、二酸化炭素を外気に排出する。

 しかし、このまま何も言わないわけにもいかない。どうにか立たなければならない。

 と、思っていると二階席から拍手が聴こえた。

 透が最も求めていたもの。

 たった一人からの拍手。

 その拍手によって少しだけ体力を取り戻す。

 倒れそうになるのを必死にこらえて、透は椅子から立ち上がって客席に向く。そして、深々と一礼した。

 拍手は鳴りやまない。礼をする透に向かって、惜しみない拍手が捧げられる。

 大きなホールの中ではささやかすぎる拍手かもしれない。

 しかし、それは透にとっては万雷の拍手に匹敵するものだった。

 透は頭を上げ、二階席を見る。

 照明によって、桃香の姿は見えない。

 しかし、そこに必ずいる。

 桃香は、いつだってそこにいた。

「桃香!」

 透は叫ぶ。

「これが、今の僕の、八重樫透の、すべてです!」

 喉から声を絞り出すと、同時に二つの瞳の奥から、押し寄せてくるものを透は感じた。

 そのあとの言葉が出ない。

 言いたいことは山ほどある。

 しかし、言葉が出ない。

 音楽ですべてを乗せたあとに、言葉など産まれるはずもなかった。

 透は、ただただ押し寄せてくるものをこらえながら、二階席をじっと眺めていた。

「このリヒテスホールで!」

 客席から、叫び声が降ってくる。

 叫んでいる人の姿は見えない。

 しかし、はっきりと聴こえてくる。

「こんな酷い演奏聴いたの初めて!」

 そして、聴こえてきたのは手厳しい批判であった。

「ミスタッチ多すぎ! 音量が足りない!」

 コンサートから帰ると、テーブルの横から的確な批判をしてくれた。

「オーケストラにも、ホールにも負けてる」

 その批判は、透の血となり肉となっていた。

「素人に毛が生えたくらいのブラームスだった! 記事にする価値なんてこれっぽっちもない!」

 その批判がなければ、透はここまで歩いてくることはできなかった。

「でも!」

 その叫び声には、涙が混じっていた。

 わずかではない、滂沱の涙が。

「最高の演奏だった!」

 ホールの中に、桃香の声が響く。

「もっと聴きたい! ずっと聴いていたい!」

 透は、拳を握りしめる。

「だから、私と!」

 桃香は叫ぶ。

「ずっと一緒にいて!」

 照明の隙間に、客席から身を乗り出して叫ぶ桃香の姿が、透に見えた。

 やっぱり、桃香には敵わない。

 透は、強く、力強く、首肯した。

 透の背後から歓声が響く。

「結局逆プロポーズかよ!」

 秦の罵声が聴こえる。その言葉にも、わずかに涙が聞き取れる。

「全然安心して送り出せねぇな!」

「ちゃんと幸せにしてやれよ!」

「桃香ちゃん、この坊主を頼むよ!」

「良いブラームスだった!」

「二人とも、おめでとう!」

 数々の声が背後から透の耳に届く。その言葉を甘んじて受け入れる。

 楽団員たちが足を踏み鳴らして、透に賛辞を贈る。

 透は振り返る。楽団員たちの眩しいまでの笑顔を眺める。

 そして、指揮台の上に立つ、横溝を見る。 

 そこには、いつもの厳めしい表情を浮かべる横溝はいなかった。

 弟子を、そして我が子を慈しむような穏やかな表情を浮かべている横溝がいた。

 透は、深く頭を下げる。

 楽団員は、さらに足を踏み鳴らす。

 激しい賛辞の中、透は下手の舞台袖へと引き上げていく。

 明から暗へと戻っていく。

 舞台の眩しい光は、舞台袖には届かない。

 しかし、もうそこには暗黒は存在しない。

 ここも、向こうも、自分の居場所なんだ。

 自分が居ていい場所なんだ。

 透の目からは、さっきまで押し寄せていた涙が零れ始めた。

 十二年前に流した涙とは、まったく違った涙。

 暗くも、輝かしい舞台袖の中で、透はただただ涙を流した。

 燕尾服の袖で、その涙を拭おうとするが、とめどなく涙は流れ続ける。

「せっかくの一張羅が、台無しだ」

 透はそう言って、涙ながらに笑う。

 まだ、舞台上の足音は鳴りやまない。嵐のような賛辞が繰り返される。

 そうだ、カーテンコールに行かなくてはならない。

 これも、ステージマネージャーとしての仕事だ。

 自分で自分を舞台へと送り出す仕事。

 透は流れ出る涙を隠すことなく、背筋を正して、舞台に向く。

 そして、また舞台へと歩き始める。

 愛する人が、仲間がひしめき合う、あの舞台へ。

 









 エピローグ


 なぜ自分がここにいるのだろうか、という疑問に苛まれながら透は椅子に座っていた。

 もちろん、自分が大きく関わっていることは間違いないのだが、でもこの椅子に座るべき人物は自分ではなく、桃香のはずだ。

 それなのに、なぜ自分が燕尾服に身を包んで、大勢の人間の前でスピーチをしなければならないのか、と疑問に思う。

「えーそれでは続きまして、日本ノンフィクション大賞、受賞者によるスピーチでございます」

 司会者が淀みない発音で原稿を読み上げている。それまでざわざわとしていた授賞式会場に静けさが広がる。透はコンサートの開宴直前に似ているな、とふと思った。

「この度、『舞台袖は、露に濡れつつ』で日本ノンフィクション大賞を受賞しました八重樫桃香様ですが、取材の都合によりスウェーデンへ渡航しております」

 透は司会者の声を聴きながら数日前の桃香の言葉を思い出す。

「ごめん透、取材入っちゃって式典に出られなくなったから、代わりに出ておいて。簡単にスピーチするだけだからさ。別に私がいなくてもいいでしょ。ていうか、みんなは透の話が聞きたいはずだからさ、じゃ、よろしくね」

 有無を言わさず、透の式典参加が決まった。寝室で突然言われ、反論しようと思ったらすでに桃香は夢の中へと旅立っていた。

「ですので、著者の八重樫桃香様に代わりまして、八重樫さんのご主人であり、今回受賞なさった『舞台袖は、露に濡れつつ』でその半生を綴られた、八重樫透様にスピーチを賜りたいと思います。それでは八重樫透様、壇上へお願いいたします」

 司会者がそう言うと、会場から大きな拍手が起こる。

 拍手を直に浴びるのは久しぶりだな、と思いながら透は観念して椅子から立ち上がる。

 ゆっくりと壇上へと向かう。

 考えてきたスピーチは短いものだった。

 桃香も、仲間も、ここにはいない。

 だからせめて、普段は言えない感謝の気持ちを嫌というくらい並べてやろう。

「この度、日本ノンフィクション大賞を受賞いたしました、八重樫桃香の旦那であります、八重樫透です」

 会場は笑い声に包まれる。しかし、それも束の間のことで、会場につめかけた報道陣たちや関係者は透の言葉を待って、みな口を閉ざした。

 静寂だ。

 透は思う。

 その空間に、静寂が広がっていた。

 透は、その静寂に少しだけ体を浸して、口を開く。

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舞台袖は、露に濡れつつ 神楽坂 @izumi_kagurazaka

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