翌日に迫った佐川とのホールリハーサルの準備を終え、透は帰路についた。

 ホールを出ると、六本木の喧騒が耳に流入する。首都高と六本木通りを何台もの車が排ガスと騒音を上げながら走る。立ち並ぶ高層ビルの窓ガラスはきらきらと光り、その一つ一つが労働の証だということがわかる。

 透は鞄の中にいれていたイヤホンを手に取り、自分のスマートフォンに接続する。「歩きながら聴ける音楽など聴くに値しない」という師匠・一番合戦あゆみの教えが身にしみついてしまっていて、透は携帯音楽プレイヤーを持っていない。そのためか移動中に音楽を聴く必要性や聴きたいという欲望は感じなかった。

 しかし、この音楽だけは歩きながら聴かないと聴くことはできない。

 携帯の音楽再生アプリの画面には佐川公彦が弾くショパン、ピアノ協奏曲第一番が表示されている。今から二年前に録音された演奏だった。まだ、この演奏を録音したときには二年後に同じ曲でショパンコンクールを優勝することは誰も知らなかったんだ、と透は思う。

 十和田湖国際ピアノコンクールで佐川に敗北を喫してから、透は佐川の演奏を聴くことをしなかった。仕事上、さまざまな演奏を聴いてきたが、佐川の音源だけは意識的に咲けるようにしていた。

 透は、あのとき感じた憎悪と喜びが入り混じった不可思議な感情を味わいたくなかった。佐川の演奏を聴けば、その演奏が素晴らしくても酷評に値するものだったとしても、どのみち、十二年前の感情が勝手に立ち現われてしまう。

 ただ、今回の仕事をステージマネージャーとして完遂するにあたってはやはり佐川公彦の音楽の研究を怠るわけにはいかない。今の佐川がどんなピアノを弾いて、どんな響きかせ方をするのか。それを知らなければセッティング作りができない。他のコンサートでもソリストの過去の演奏は丹念に聴き、どんなセッティングにすればいいかと計画をしていた。その作業を私情によって避けるわけにはいかない。

 しかし、家でじっくり聴いたり、全神経を注いで聴いてしまってはあの感情が心に溢れてきて、満足に聴くことができないことは透にはわかっていた。だから、師匠の禁を破って「歩きながら聴く」という行為に及んだ。そうすればイヤホンの外から聴こえてくる騒音も混じり、視界を激しく往来する車などが集中力を阻害し、百%、その音楽を聴くことはきっとできないはずだ。

 ステージマネージャーとして、一つの音楽に対して中途半端な姿勢で臨むことは職業人として失格なのかもしれない。しかし、透は一人のステージマネージャーであると同時に、一人の「元」ピアニストだった。ピアニストのときに抱いていた感情を、すべて殺すことはできない。歩きながら音楽を聴く、というのは最大級の妥協案だった。

 メトロポリタン・フィルとショパン国際ピアノコンクールの優勝者が共演することは前々から決まっていたことだった。つまり、佐川がショパンコンクールを優勝した時点で共演することはわかっていたはずだった。しかし透の足はなかなかCDショップには向かず、ショパンコンクールから一ケ月だった十一月の半ばにようやく佐川のCDを四枚ほど購入し、スマートフォンに入れ、それからさらに一ヶ月ほど経過したこの十二月にようやく聴く決心がついた。

 透は歩きながらイヤホンを両方の耳に装着し、音楽を再生する。

 三拍子の激しい音楽が湧き起こる。激しさを含みながらも、しなやかで柔らかい音楽も同時に体現している。透にとっても、このショパンのピアノ協奏曲は憧れの曲であり、少年のときから何百回、何千回と聴いて繰り返し練習してきた曲だった。この前奏曲を聴いていると、自宅で弾いたショパン、発表会で弾いたショパンを思い出し、大学であゆみに「こんなものはショパンでもなんでもない」と酷評され涙を流したことも同時に連想される。音楽というのは記憶の引き出しを開ける鍵となる。意識的に思い出そうとしなくても、その音楽を弾けば旋律が進むにしたがって勝手に頭の中のテープが再生される。一種の協奏曲のように、頭の中で旋律と記憶が絡み合う。そして、その先のピアノには最も触れたくない記憶が待っている。歩く速度が自然と速まる。透はイヤホンの隙間から入ってくる環境音をできるだけ聴こうとする。ショパンを掻き消すように、記憶を掻き消すように。

 四分ほどのオーケストラによる前奏曲のあと、その瞬間は不意に訪れる。

 ピアノの煌めく高鳴りが透の耳を襲う。直後、速いパッセージで音が駆けあがっていく。歳高音に達した瞬間、透の足はぴたりと止まった。

 さっきまで耳にしていた都心の喧騒が完全に止んだ。透の脳内にはピアノの音でいっぱいになる。タッチはどこまでも正確であり、指揮者がオーケストラのテンポを揺らしても揺らぐことはまったくない。どの和音もはっきりと聴こえ、あらゆるリズムが輝いて聴こえる。

 そのショパンは、透の記憶の中にあるどのショパンよりも輝いていて、素晴らしかった。それまでの記憶を一気に書き換え、新たなショパンが透の記憶を埋め尽くす。記憶はおろか、透が今まで「こんなショパンを弾きたい」と抱いていた理想の演奏をもはるかに凌駕していた。

 こんなショパンがこの世にあるなんて、この世にあっていいなんて、と透は都市のど真ん中で愕然する。今まで聴いてきたショパンは、今まで弾いてきたショパンは、今まで想い描いてきたショパンは一体なんだったんだ。透の頭の中に様々な言葉が走る。都市を包んでいた夜の闇は耳から入ってくる佐川のショパンによって切り裂かれ、透の眼前には煌めく風景が広がる。あのときの舞台袖と同じように、暗闇にいた透を明るい世界へといざない、引きずり出す。

 透も、十和田湖のコンクールから十二年という年月を重ねた。その間で聴いてきた様々な音楽が、佐川のショパンの素晴らしさを証明する。十二年前に聴いたシューマンよりも、何倍も素晴らしく透には感じられた。

 透の頭が「このショパンをこれ以上聴くことはできない」と拒否反応を起こし、親指で音楽プレイヤーを停止させようとするが、体がまったく脳の言うことを聴かない。体はこのショパンをもっと中へ取り込もうとしている。耳から飲み込み、体内のあらゆる器官が吸収し、自分のものにしようとしている。

 体を、新しく書き換えようとしている。

 透はその体が起こす欲求に逆らうことはできなかった。

 いつの間にか二楽章に入り、ゆったりとした芳醇な旋律が聴こえる。一楽章の速いパッセージに翻弄された聴衆を労わるように、どこまでも優しい旋律が次々と生まれ、透を襲う。甘美で、軽やかで、静かな音楽が響き、透の体を都市の夜にたゆたわせる。透の足が再び動き出し、体は前へと進んでいく。透は地に足がついていないような不思議な感覚を覚える。二本の足で歩いているのにもかかわらず、小舟に乗って静かに流れる川をゆらゆらと下っているような感覚。川の中には白い鍵盤と黒い鍵盤という卵から生まれたいろんな音符が踊るように泳いでいる。透は泳ぐ音符たちと一緒に六本木通りを渋谷に向かって歩く。軽やかなアルペジオが始まれば、音符が流れの中で踊るようにはねる。そしてまたゆったりとした音楽が流れれば流れにそってゆっくりと音符が泳ぐ。

 本当に今自分は六本木いるのかどうか、透はだんだんとわからなくなっていく。

 三楽章が始まる。二拍子の速い音楽。民謡調が加わり、リズミカルな旋律によってどんどん音楽は前に進んでいく。川の流れは一気に速まり、周りを泳いでいた音符はどんどん数を増していき、さらに勢いを増していく。

 透の歩く速度も上がり、どんどん前へ進む。本来乗るはずの地下鉄の駅はとっくに過ぎている。足が真っ直ぐにしか向かない。

 音楽も同じようにくるくると回りながら進行していく。バックのオーケストラよりも速く、佐川のピアノが音楽全体を引っ張っていく。オーケストラも佐川のピアノに負けじと情熱的な音楽を繰り広げる。これこそまさに協奏曲だ、と透は思う。お互いに寄り添うのではなく、お互いが寄りかかり合うのではなく、お互いが妥協するのではない。お互いが戦い、お互いがせめぎ合い、お互いが傷つき合いながら高め合う。まるで弁証法のような演奏。これこそが「協奏曲」なんだ。ショパンが書きあげた音楽と、オーケストラと佐川が三位一体ならぬ、三位分裂をしながらも、まったく違った味を持つ三者がぶつかり合うことによって新しい何かを生み出している。協奏曲だ、これが、音楽だ。

 ラフマニノフのような大げさなカデンツァもなければ、ブラームスのような仰々しいクライマックスもない。

 ただそこにあるのは純粋なピアノへの愛情だった。

 音楽は激しさを増し、上昇音型と下降音型を繰り返していく。

 そして僅かに東欧的な響きを持ったラストシーン。

 佐川の表情は見えない。しかし、そこには自信に充ち溢れた表情が見える。

 透はなす術なく音楽に身を任せる。

 ピアノは弾け、最後のフェルマータが響く。

 そして、音が消える。

 都会の喧騒は元には戻らない。そこにはショパンの余韻のみが広がっていた。

 いつの間にか四十分を超える時間が経過しており、六本木を歩いていたはずの透はすでに渋谷の駅に到達しようとしていた。透は一度立ち止まり荒くなった呼吸を整える。ほとんどノンストップで歩いてしまい、今さら蓄積された疲労を自覚する。

 しかし、なかなか電車に乗る気が起きなかった。電車に乗って帰宅することよりも、もっと聴きたい。もっとこのピアノを聴いていたい、という欲望が遥かに上回っていた。

 透は方向転換をして明治通りを南下し始める。そして耳からは佐川の弾くプロコフィエフのピアノ協奏曲第三番が流れ始めた。クラリネットのゆったりとした音色が、透を夜の街へといざなっていく。

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