第四章 ピアニスト 佐川公彦の場合

 ショパン国際ピアノコンクール。

チャイコフスキー国際コンクールなどと共に世界屈指のピアノコンクールとしてその名を知られている。一九二七年に第一回大会が行われ、それからほぼ五年に一度の頻度で、ショパンが亡くなった十月十七日を中心とした約三週間という期間で開かれている。ショパンの名前が冠されているように、審査で演奏される曲はすべてフレデリック・ショパンが作曲したマズルカやポロネーズ、協奏曲である。

 世界中のピアニストが憧れ、死に物狂いに練習をして第一位の座を狙う。

 それまで、日本以外のアジアの国からは第一位を取るピアニストがいたが、日本人の最高位は第二位に留まっていた。

 日本のクラシック界としてもその第一位を取るピアニストを心から切望していた。そして、その壁がついに破られた。

 佐川公彦、二十五歳。

 十二年前、十和田湖国際ピアノコンクールを最年少受賞した少年が、ショパン国際ピアノコンクールの第一位を受賞した。

 ショパンコンクールの受賞者の多くは十代のうちに受賞をしていて、二十五歳で受賞をした佐川は比較的遅い受賞となった。二十歳のとき、佐川は前回の大会に出場したものの、途中で体調不良により棄権という結果に終わっていた。その雪辱を果たし、今回見事に第一位を受賞した。

 佐川はこの受賞の前から国内はもちろん、海外オーケストラと共演するほどのソリストとして活躍の場を広げていて、二年前には海外CDレーベルとも契約を果たしている。今回の受賞はその実力と人気を不動のものとするには十分過ぎるものだった。

「本当に、大出世しちゃったね」

 下村音葉はリヒテスホールの客席に座りながら音楽雑誌を眺めていた。巻頭はもちろん佐川公彦特集。受賞から一ケ月が経とうとしているが、テレビ、雑誌と佐川は各メディアで連日取り上げられていた。音葉の隣では透が座席に腰掛け、舞台を眺めている。

 バルセロナ公演を成功のうちに終わったメトロポリタン・フィルは日本に帰国し、また通常の定期公演の準備に勤しんでいる。

「まさかショパコンまで取っちゃうとはね。確かにすごい才能の持ち主だとは思ってたけど、才能だけで取れる賞でもないし」

「まったくです」

 透は非常に複雑な心境でいた。

 佐川の顔をテレビなどで目にするたびに、どうしても十二年前のあの舞台袖の光景を思い出してしまう。体内には憎悪と幸福が満ち溢れ、二つの瞳から大粒の涙を流したあの舞台袖。普段から定期的に夢に見たり、電車に乗っているときなどのふとした瞬間にフラッシュバックして心臓が収縮するような感覚に陥ることがあったが、佐川の受賞後はその頻度が爆発的に上がった。 

 自分でも驚くほどにその光景が鮮やかに頭の中に甦る。目を閉じても、目を開いても暗闇を切り裂くような音の輝きがはっきりと想起される。

「さすが、透くんを負かすだけのことはある」

 透が自覚的に隠しているわけではないが、過去に十和田湖ピアノコンクールに参加し、優勝を逃したことはほとんどの楽団員は知らない。昔から透の師匠であるあゆみと仲が深かった横溝はそのことは知っている。他に知っているのは音大時代の同期である秦裕輝、コンマスの堀内、そして同業者であるリヒテスホール、ステージマネージャーの音葉だけだった。

「透くんは十和田湖一番近い場所で彼の音楽を聴いていたわけでしょ? そのときからもうショパコン受賞するだけの才能は見抜いてた?」

「言いたくないですけど、十和田湖の会場で彼の音楽を最も楽しんでいたのは僕だと思います。客席にいた誰よりも、彼の音楽に心を打ち抜かれて、同時に砕かれていました」

「ふーん。私も一回だけ彼のリサイタルを聴いたことあるけど、確かにすごかったな。オーラっていう言葉で片付けられない何かが彼にはあった。照明のはね返し方が他のソリストと全然違うんだよね。ほら、前にここでアルトを唄った琴乃ちゃんいるじゃない。確かに、彼女もすごい雰囲気を持ってるし、実力も十分備えてるけど、やっぱり佐川くんには遠く及ばないと私も思う」

 音葉はホール運営の責任者だけあって、そのソリストの評価の仕方も独特だ。音でも評価をしているだろうが、照明というものに焦点を当てて語っている。

「容姿も端麗、メディアへの対応もばっちりときてるからね。完全無欠にも程がある」

「まさに才能の兵器ですよ、彼は」

 そしてその才能が、自分にはなかった。

 今している仕事に透は十分満足している。ステージマネージャーの仕事に大きなやり甲斐を感じているし、自分にしかできない仕事がここにあるということも確信している。ステージマネージャーという仕事も、なろうと思っても簡単になれるような職業でもない。

この仕事を通じて様々な人間と出会い、自分が考えたことのないような考え方とも触れることができた。時にはどうにもならない障害に立ちふさがれたり、悩むことだってある。ただ、それを上回るほどの魅力がこの仕事にはある。

 そう自分に「言い聞かせている」時点で、真実から遠ざかっていると言わざるを得ない。

 自分にそう言い聞かせるほど、今している仕事が「自分が一番したかった仕事」ではないということを自覚してしまう。心の底で眠っているはずの欲望が、自分の理性によって逆に呼び覚まされる。

 この世界に「本当にしたい仕事」に就いている人間がどれだけいるのだろうか、と透は考える。それもピアニストとして成功できる人間が同時代の世界で一体何人いるんだろうか。一つまみですらない。地球規模で見れば電子顕微鏡で見なければならないほどだろう。

 大人になるにつれて、環境というものは自分で掴むものからいつしか与えられるものへと姿を変えていく。そして、その環境の中でいかに適応していくかが「オトナになる」ということなんじゃないか。自分の可能性を切り開くことよりも、自分が置かれている立場を飲みこんで、その環境をいかに良好にしていくかということが「オトナ」の存在意義になっていく。

 透はそう考えながら舞台に目を向ける。その考えが自分に対する正当化だということもわかっている。しかし、そうでも考えなければ自分の中の精神的均衡を保つことができなくなる。

 そうやって正当化をしていれば、またステージマネージャーとしての仕事に従事できる。仕事をしているときは過去について余計なことも考えないし、フラッシュバックも襲ってこない。自分が思い描く最高のパフォーマンスができるだけの準備は常にしている。

 しかし、その均衡が崩れる事態に透は直面している。

「とにかく、この公演を透くんは成功させなければならない。この公演は、世界が注目しているんだから。メトロポリタン・フィルの知名度を世界に知らしめるためにも、失敗は許されないよ」

 そう言って、音葉は雑誌のあるページを開いて、透に向けて掲げる。

「わかってますよ」

 わかりすぎているほどに。

 その広告は、メトロポリタン・フィルハーモニー管弦楽団と佐川公彦の共演が十二月に行われることを告げていた。

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