茶色い大きな水たまり
夜半過ぎにようやく降りやんだ雨は、しかし夜明けとともに再びしとしとと降り出した。
雨空の下、警備用の大型車輌が、流水を蹴立てて進む。
先刻、荷台の揺れに目を覚ましたわたしが、シートの隙間から外を眺めると、町中が、大人の脛まである濁った水にとっぷりと浸かっていた。局長が危惧していた通りだ。許容量を超えてコルネア川をあふれ出した流水が、ヘクサロキア市街を茶色い大きな水たまりに変えてしまった。
どこかの家から流れ出したブーツの片っぽが、所在無げに視界を通り過ぎていく。ねえ、あれは拾ってあげなくていいの? きっと困ってるんじゃないかしら? わたしはうんと伸び上がると、小さな仕切り窓に顎を載せて、運転席に声をかける。
「なんと、リューナ嬢。いつの間についてきていたんだ?」
助手席にいた金色の頭が、わたしの呼びかけにぎょっと振り返った。エレイア局長だ。
寝て起きたら出発した後だったのだもの、わたしのせいじゃないよね? わたしは窓越しに、精一杯無邪気な顔を作って見せる。怒らないで。
エレイア局長の眉根が寄った。
「現場へ連れて行くわけにもいかないのだが……ううむ、ボリス、どこか適当な場所に下ろせないか?」
「適当な場所ねぇ……」と、ミラー越しにちらりとこちらを見て、ハンドルを握る赤毛の男。
「下ろすのは簡単ですが、適当な場所と言われましても……町中がこのありさまじゃ、水の中にでも放り出すくらいしかできないわけですが」
放り出しますか、とボリスが言い、わたしの背中の毛がぞぞっと逆立つ。この男ならやりかねない。敵と認めた相手と興味のないものに対しては、ボリスは恐ろしく冷淡なのだ。そしてたぶん残念なことに、わたしは、ボリス局長補佐官にとって興味のないものの範疇に入ると思う。
やめてよ、わたし泥水で泳ぐ趣味は無いわよ。流されて死んじゃったらどうするのよ。こんな大水の中に置いてけぼりなんて嫌。わたしは一生懸命抗議の声を上げた。
「それでは溺れてしまうではないか」と、局長。
「はあ、まあ、手っ取り早くそうなるでしょうが」
「馬鹿者、化けて出でもしたらどうする」
「猫は七代祟るといいますしねえ」
「うう、恐ろしい話だ。……いや、そこではなくてだな。それ以前に溺れるのがわかっていて放り出すわけにはいかん」
「ではどうしますか? このまま乗せておきますか」
「ううむ……」
局長がうなった。
「仕方がない、このまま連れて行くことにしよう」
「りょーかい」
ボリスは軽く肩をすくめた。さっきのは冗談だったってこと? それとも、もしかして、最初からこうなることがわかってたの? わたしは不思議な思いで、ボリスのスズメのしっぽみたいなひとつくくりの後ろ頭を眺める。局長以外の生き物には興味が無いのだと思ってたけど……違うのかしら。
暫くすると水流が途切れて、たぶん道らしきものの上に出た。たぶんというのは、そこが石畳の舗装も何もない剥き出しの地面だったから。あまり知られていないことだけど、ヘクサロキア市街には意外にこういった場所がある。発展する大都市の死角に忘れられた、ぽっかりと穴の空いたような整備の届かない区域は、見るからに寒々しい。
水を吸ってぬかるんだ黄赤色の土が、タイヤの跡をくっきりと残す。タイヤが滑るのを、ボリスが見事なハンドル捌きでそれとわからないように立て直している。
足の下で何かが崩れるような気配。ぬかるんでいるだけでなく、地盤も随分緩んでいるみたい。もしかしなくても、わたしたちは、かなり危険なあたりに来てるのかも。
半ば泥に埋まった数軒の家屋が見えてきた。地面が大きく陥没して、それに巻き込まれるように、土台から家が落ち込んで潰れている。うわ……あれ、中の人は大丈夫だったんだろうか。
わたしが目をまるくして見つめていると、雨の中、潰れた屋根の上で作業していたうちの一人が、到着した車輌に向かって手を振った。正確には、到着した車輌に乗っているエレイア局長とボリス局長補佐官に、だけど。
「待ってましたよ、局長、補佐官」
「重機が入れないんで困ってたんです」
「まだ一人埋まってるんですよ、シャベル程度じゃどうにもならなくて」
「
車を降りた局長とボリスは、たちまち、ヘルメット姿の作業員たちに囲まれる。誰も彼も真剣な顔に泥撥ねをつけている。よほど苦戦していたみたい。
わたしは荷台から飛び降り、こわばった体を思い切り伸ばした。
空気に充満する、雨と土の臭い。
「わっ、猫、一緒に連れてきたんですか」
気づいた作業員が、わたしに手袋を外した手を差し伸べる。連れてこられちゃったの、と、わたしが喉を鳴らして頬をこすりつけると、抱き上げられて肩に移された。あら、ご親切にありがとう。いい眺めだわ、特等席ね。
視線を動かすと、起動した駆動外骨格が、荷台から降りたところだった。立ち上がった姿は随分大きくて、わたしは思わず目を瞠る。頭の先が普通の家の二階まで届くんじゃないかしら。横幅なんて、人間の大人二人が両腕を広げたくらいありそう。つなぎ目から見えるウネウネした筋っぽいのといい、ぎょろりとしたカメラ・アイといい、固まりかけた血みたいな色の巨人は、薄暗い雨空の下で見ると、ちょっと不気味だ。
見ているうちに、暗赤色の巨人は、危なげない足取りで折り重なった瓦礫の元に歩いて行く。
『どれをのければいいんですか?』
スピーカーから、乗り込んでいるボリスの声が響いた。
「そっちの倒れてるばかでかいコンクリート壁です。丁度ど真ん中のあたりから声がするんで、下の隙間にいるはずだと」
『わかりました』
暗赤色の腕が伸びて、壁を攫む。すごい力。重そうな壁が、きしみを上げて持ち上がり始める。
わたしも皆と一緒になって応援する。わっせ、わっせ、頑張って。もうちょっと持ちあがったら、人が潜り込めるわ。
と、いきなり何かに引っ張られたみたいに、
『左の方、何か引っ掛かってます。見て貰えますか?』
ボリスの声に、作業員の一人が慌てて走っていった。
芯の鉄材が引っ掛かってるようです、と、すぐに雨の幕を突き破って声が届く。建物を補強するたくさんの鉄芯が、あだになっているらしい。
ダメだわ。やっぱり途中で引っ掛かって、持ち上がらないみたい。
『これは……鉄芯を切らないと。この壁も、見かけよりかなり重い。半分にしないと、
誤算でした、とスピーカー越しに、ボリスの落としたため息が聞こえる。カッターで切るにしても、どのくらい時間がかかるんだろう。作業員たちの間からも、落胆の声が漏れた。
「半分なら、持ち上がるんだな?」
今まで作業員たちの後ろで腕組みをしてながめていたエレイア局長が、口を開いた。
「どいていろ」
局長が、作業員たちの前に踏み出す。
局長は、腰に差していた芽が伸びた玉ねぎみたいな銀色の棒を、さっと引き出して振った。
金属のはまり込む微かな音と共に、局長ご自慢の魔道
エレイア局長の胸に埋め込まれた第三魔道陣が動作して、
耳をえぐる悲鳴のような声で銀色の魔道
局長が
「殲ッ滅ッすッッ!」
勢いよく振り下ろされた
コンクリート壁に、長く大きな一直線の裂け目が入っていく。火花まで散ってるのは、たぶん呪力振動で鉄芯を切断してるからだ。二撃、三撃……凄まじい破壊音を響かせて、
ぽかんと見守るわたしたちの前で、ついに壁が半分に割れた。作業員たちの間から、どっと歓声が上がる。凄い、ほんとにあの壁が半分になっちゃった。局長って、局長って、やっぱり名前通り
大きな手が、わたしを腕の中にすくい上げて、毛並みを撫でる。
「惚れ直したか?」
「さあ?」と、ハッチを開き、新鮮な空気を入れて、ボリス。
「惚れ直さないのか」
局長は、心底残念そうに、操縦席のボリスを見上げる。
「残念ながら」と、ボリスは肩をすくめた。
「相思相愛のべた惚れなんで、これ以上直しようがないんですよ。……と、でも付け加えておきますかね」
わたしは思わず噴いてしまった。見事な棒読みだ。面食らった顔の後、渋面を作った局長に、ご愁傷様、と言ってくすくす笑いをおさえる。素直じゃない、でも本音でないとも言い切れない、聞いてるこっちが百面相になっちゃう切り返し、それがボリスなんだ。
「局長、ボリス補佐官」
機材の片づけを終えた作業員の一人が、声をかけてきた。
「自分たちは次の現場に急ぎますが、お二方はどうなさいますか?」
「さて」と、これはボリス。
「また
「はい、……いえ、現場を確認してみねば不明なのですが」
ふむ、とボリスは顎に手をやった。彼が考えをまとめる時の、いつもの癖だ。
「無駄足になる可能性も高いと。では、一応移動準備はしますが、実際に現場に向かうのは、
「ああ。私も、ボリスが言う方法が合理的で良いと思う」
局長が、脇から口をそえた。
「私はボリスとともに移動する」
「了解致しました。では、何かありましたら、無線でご連絡いたします」
作業員は、びしっとかっこいい敬礼を残して去っていった。そういえば、あの人たちって、もともと監察局の人たちなのよね。災害救助も仕事のうちなのか……ご苦労様……。移動する彼らを、わたしたちは見送る。
ぱらつく程度まで弱まっていた雨足が、また少し勢いを増してきた。
「止まないものだな」
掌に雨粒を受けながら、憂鬱な空を見上げて局長がつぶやく。わたしにはそのつぶやきが、ため息に聞こえた。たかが雨、だけど、降り続くそれが引き起こす事態に、わたしたち地上に生きるものたちは、なんて無力なんだろう。
「止みませんね」と、同じく空を見上げたボリスが相槌を打つ。
「貴女のその
「馬鹿もの。できるならとうにやっている」
局長が、ぎょろりと彼をねめつける。
「冗談に決まってるでしょう」
ボリスはフと小さな笑いをもらした。大真面目で答えた局長が、おかしかったらしい。
「……今夜は徹夜ですかね」
雨は降る、際限なく。空の上の誰かが、蛇口を閉め忘れているみたいに、止む気配もない。
「この様子では、そうなりそうだな」
「仕方ありませんね」
ボリスは軽く肩をすくめ、ハッチを閉める。車輌の荷台に、
エレイア局長の腕の中からそれを眺めていたわたしは、ふと、顔を上げた。
なんだろう? なんだか変な気配がする。
わたしの中の、野生の本能という部分が、ちくちくと警告を発している。
なんだろう?
局長の腕の中で伸びあがって、わたしは耳をそばだてる。何か聞こえない?
足のずっと下から、何かのくる気配。わたしの鼻孔を、つんと強い香りがつく。この空気の臭い、なんで? さっきより土の臭いが濃くなってる。
――変、だ。
「どうした、リューナ嬢?」
不思議そうにわたしの顔を覗き込んできた局長に、逃げてと叫んだ。と、同時に、本能の命じるまま後ろ足を強く蹴って、わたしは局長の腕の外へ飛び出す。
土の臭いが濃い。地面についた足の下で、何かが崩れる気配がする。たっぷりと水を吸った地盤は緩んでいて、なのにその上を人や車が動き回って、
ここ、きっと、崩れる!
追いかけてきた局長の驚愕の声が聞こえる。
わたしは渾身の力をこめてジャンプする。まだ、固い地面へ。届いて!
振り返った空中で、バランスを崩した
もうもうと立ち上る、黄赤色の土煙り……、耳を聾す、轟音……。
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