第3話

その夜は中々寝付けないでいた。

思いがけない方との遭遇、しかも送り届けて頂けるなんて。


布団の中で何度も思い出す、あの方の後ろ姿、そして大人びた声、優雅な仕草。


小さい頃、野山を駆け回り、虫を捕まえ泥だらけになり遊んだあの頃とは違う大人の男性。

いつの間にか意識し始めた心は留まる事を知らない様に加速していく。

決して叶わぬ想いなのに。決して言葉にしてはいけないのに……。


涙が出るのは何故だろうか。理由なら分かりきっている。

けれどその理由を認めてしまってはいけない。

溢れる涙の膜をそっと指で拭い、布団をかけ直し、眠れぬ夜を過ごした。



次の日は配給のある日なので朝から店に出て物資を配ったり、届けたりと働いた。


「柚。沢渡さんのお家へ届けてくれないかい? 奥様もお忙しい様子だし」


「沢渡さんのお家へ? 分かりました。いつもの分で大丈夫?」


「問題ないよ。あ、でもご次男さんはまだ本調子じゃないから、くれぐれも早くお暇しなさいね」



母に頼まれ物資を鞄へとしまい、沢渡家へと向かった。

私の心は夕べの事もあり複雑ではあったのだが、やはり足取りが軽くなってしまう。


「もし会えなくてもいい。少しだけ近くに感じる事ができれば……」



自分の家から沢渡家は歩いてもそんなにかからない距離にある。


しかし、砂利道を草履で歩くのはやはり辛い物があった。


発展した街ではきちんとした履物があると聞くが、うちには縁の無いものだ。


暫くして沢渡家が見えて来た。立派な家屋で、やはり昔ながらの商家だという事が分かる。


裏門へ回り声をかけた。


「ごめんください! 物資を届けに参りました!」


ややあって女中さんが中から出てきて労いの言葉をかけてくれた。


「ご苦労様です。確かに頂きました。生憎ご主人と奥様はお出かけ中ですので、ここでお引き取りを……」


「はい。勿論そのつもりです。では宜しくお伝え下さいませ」


そう言って踵を返そうとした瞬間……。


「待って下さい!」


家の中から声がかかった。


振り返れば始さんがこちらへかけてくるではないか。


「始さん……。どうかしましたか?」


「いや、少し散歩でもと思いまして。お付き合い願えますか? それともお忙しい?」


「始さん。旦那様や奥様が安静になさいと仰っております。お部屋へお戻り下さい」


「タミさんは厳しい。少し散歩するだけですよ。無理はしません。さ、行きましょう。柚さん」


いつの間にか手を取られ歩き出してしまった。



「あ、あの! どちらへ行かれるのですか⁈」


「さて、何処へ行きましょう」


少し悪戯気味に笑う始さんは私の手を握ったまま歩いている。


手から伝わる温もりが、身体中を熱くする。



「ここで少し休みましょう」


ふと離された手が急に冷たく感じ、何処か寂しくなってしまう。


「桜の丘ですね……」


わざと始さんの方を向かない様に呟いた。

自分の浅ましい気持ちが分かってしまわれそうで、何だか落ち着かない。


「もうじき蕾をつけるでしょう。そしてたちどころに花が咲く。

その花が咲き終わる頃……。出征になります……」


「え……?」


ーー出征?でもお怪我をして、春の終わりの出征は先に送られると……。


「内地勤務です。怪我ももう大丈夫です。当初の予定通り、出征になります。桜の花が咲き終わる頃には、戦地へと赴きます」


「そうですか……。お国の為ですもの。喜ばしい事です」


「近く本命令が下るでしょう。その前に、この花が咲く頃、一緒に見に来ませんか? 折角花を咲かせるのだから、二人で見に来ませんか?」


真っ直ぐに私を見つめる眼差しは優しくて、心が温かくなる。


「是非。是非見に来ましょう」


「良かった。では約束で」


二人手を伸ばし、指切りを交わした。




それから桜の花が蕾をつけ、一輪、また一輪と花を咲かせる。


同時にあの方が出征する日が近づいてくるのが悲しく、私は願いを込めてひと針ひと針白い布に始さんの名前を縫い付けた。


組の人達は日の丸に一人一人名前を書き、日の丸の真ん中に万歳の文字を書いた。



「柚さん」


お使いの帰り道、始さんに声を掛けられた。


「始さん……」


「これから桜を見に行きませんか? きっと咲き頃ですよ?」


「はい」



突然の申し出に、もう始さんとのお別れが近い事を悟った。


いつ、こんな日が来るか分からないと思ったので、鞄の中には始さんへ渡す白い布が入っている。

私の精一杯の想い。二度と会えないかも知れない。そんな不安を拭うように想いを込めた私の気持ち。



「あっ。ほら! 見頃ですね。桜……」


「本当。綺麗です」


「小さな桜の木ですが、凄い生命力だ。毎年頑張って咲いてくれる」


「本当に。毎年綺麗に咲き誇ってますね」


「二、三日中に、出征します……。戦況が思わしく無い様だ。内地もかなり危険だと」


「……待っていても、いいですか? 貴方をここで、待っていても、いいですか?」


「柚さん……。軽い約束はできません。けれど、また貴女とこの桜を見たい。来年も、その先にも……」


鞄から白い布を取り出し「約束、して下さい……」


そっと始さんの手に渡した。

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