あとがき ~終戦、昭和、平成 

 

 

 1945年3月、東京が焼野原になった時、入院半年を言い渡されていた代吉は、横浜十全病院のベッドで「次は必ず横浜がやられる」と恐怖で眠れぬ日々を送っていた。

 町田だって危険だけどどうせ死ぬなら家族と一緒にと、無理やり退院したその約2か月後の5月29日、町田から季節外れの入道雲が見えた。横浜市全域が白昼、米軍による大空襲を受けたのだった。横浜市の記録によると、米軍機は商店街・住宅密集地に無差別爆撃、逃げ惑う市民には機銃掃射を浴びせた。十全病院のあった浦舟町からすぐの黄金町の被害は特に甚大だった。

  ぎりぎりの判断でここでも代吉は生き延びた。

 一方、このような状況になっても日本軍は、来る連合軍を迎え撃つと、いわゆる「本土決戦」を叫んでいた(同盟国イタリア・ドイツはすでに降伏していた)。皇居を長野県に遷す計画も進められていた。小学3年生だった通晴少年は、学校で「小国民」と呼ばれ、槍を持たされ積極的に敵兵に立ち向かうように厳しく指導された。同じ頃、米国の子どもたちはどのような教育を受けていただろうか。無差別殺戮機を相手に、子どもの持つ槍が何の力を持つのか。

 「馬鹿げていた」と、通晴は後に回想する。

 8月6日、広島に原爆が落とされる。

 その時町田には空襲警報が出ており、家族皆、防空壕の中のラジオでそれを聞いた。「広島に新型爆弾が落とされたもよう。被害が出ているが、詳しいことは調査中」とアナウンスされただけで、広島が地獄絵図と化していたことは誰にも想像できなかった。

 同じ悲劇が三日後長崎でも繰り返される。一方この日、日ソ不可侵条約を破りソ連が参戦、満州などに侵攻。報道も人々の関心も、この事件一色だった。一般市民が原爆や放射能の恐怖を知ったのは、だいぶ後になってからである。

 1945年8月15日、集落で唯一ラジオを持っていた前田家の庭に、「重大な放送」を聞きに近所の人々が集まった。彼らは庭に敷いたゴザの上に正座、前田家の家族は室内で、縁側に置かれたラジオに耳を澄ませた。

 「朕(ちん)深ク世界の大勢ト帝國ノ…」

 玉音放送を理解できた人はおらず、代吉が集まった人々に内容の解説をした。

 代吉はずいぶん落胆したという。敗戦となったこと。自分が途中除隊となったこと。命助かった喜びはもちろんあったが、責任を果たせなかったという思いも消えることはなかった。また満期除隊ではなかったことで、恩給を受け取ることもなかった。

 「無駄な奉仕をした」と代吉は戦争について繰り返し呟いた。戦後は反体制の思想を強く持ち、志を同じくする政治家を支えるためにずいぶん活動した。経済発展という視点から物事を見ようとしていた長男通晴とは、考え方の違いでぶつかり合うこともあった。

  

               ****

 

 戦後38年を迎えた1983、昭和58年の夏、私は町田の家の居間で祖父代吉と共に終戦記念番組を観ていた。日本軍が戦争へと暴走していく様子を追ったドキュメンタリーだったが、普段おしゃべりな祖父が沈黙し、悲しみとも怒りともとれる眼差しで画面に見入っていたのを今でも覚えている。

 「何か言わなくちゃ」と子ども心に思った私は、「こんなにひどいことになったんだから、最初にもっとよく考えてから戦争すればよかったのに」と言ってみた。

 「よく考えようが考えなかろうが、戦争だけは絶対しちゃダメだ!」

大声で祖父に怒鳴られた。いつもユーモアたっぷりに遊んでくれる優しい祖父に怒鳴られたのはこの時、一度きりだった。

 その翌年の秋に祖父は亡くなり、親、伯父伯母、子どもだった従兄弟ら、それぞれ追悼文を書いた。それを活字化・印刷・製本するため、あらゆるつてを頼って母が奔走していたのを覚えている。

 

 時代は平成へ移り、昭和48年生まれの私も二人の娘の母親になった。

 親になってから、子ども時代に祖父が繰り返し語ってくれた愉快な昔話を思い出した。我が子にも聞かせてやりたくて、出典を調べたが、なかなか分からなかった。毎回笑い転げて聞いた面白い話だったのだ。

 しばらくして上方落語だったことを知った。祖父は一体どこで落語を知り、暗記したのだろうか。閻魔えんま様の気まぐれで地獄に落とされた男が、そこで大活躍する話。「地獄のそうべい」というタイトルで絵本が出版されていたので、買って何度も娘たちに読んだ。

 2015年、長女が小学校を卒業するとき、これから歴史を学ぶ娘たちに、祖父代吉の物語を読ませよう、とふと思いたった。私たちにはまるで実感の涌かない激動の現代史の渦の中に、血の繋がった祖父が確かに生きたのだから。

 30年ぶりに、追悼集を開いた。伯父通晴による代吉一代記の中の戦っている祖父は、今の私と同年代。強く引き込まれて一気に読んだ。

 

 代吉一代記は東京大空襲の時で終わっていた。続きを少しでも知りたく、娘たちを連れ、話を聞くために町田の通晴宅を尋ねた。

 喜寿を越えて(平成27年当時)なお、伯父の記憶力は大したもので、日にちも状況も実に正確に、当時の話を聞かせてくれた。おかげで私が終戦当時のことを引き継ぎ記すことができた。

 代吉の子どもたち、すなわち私にとっては母はじめ伯父や伯母の子ども時代の話には、囲炉裏端での家族の団欒風景がたびたび登場する。そこで代吉は多くの物語を子どもたちに語った。

 その囲炉裏のあったわらぶき屋根の家は、昭和35年に取り壊しになったそうだ。生活様式が大きく変わるとき、寂しさはなかったのか、と母に訊ねてみた。

 母いわく、常にすすけて汚れていた囲炉裏生活が、現代的な台所に様変わりしたときは本当に嬉しかった。村で最後のわらぶきの屋根も当時は恥ずかしく、新しい家を心から歓迎した。ただ農村地帯だった町田が目覚ましい発展を遂げていく中で、いつも遊んでいた美しく澄んだ小川が埋められ住宅地になった時、「変わっていく」ことに対して持った喪失感は大きかったという。貧しさのせいでいじめを受けた時期も、学校の帰り道に目にした、澄んだ川沿いの草花や、季節によって表情を変える田んぼの風景はいつも母を癒した。町田市は戦後の発展が日本で最も大きかった場所と聞いたことがある。

 孫・ひとみ(和子長女。私にとっては従姉)によると、和子少女時代の思い出として、ご飯を炊くことがどんなに辛い仕事だったかを繰り返し聞いているという。炊飯用に用意したかめの水は、冬場は硬く凍りつく。苦労して解かし、氷水で米を砥ぐ度、朝、家族のご飯が炊けていたらどんなに幸せだろうと考えたそうだ。末の妹恵美子が、同じ年頃になるとオルガンを買ってもらったりしていたので、時代の移り変わりの激しいこと、と笑い話になっているという。


 通晴宅を訪ねた日のことに戻る。

 前田家には、建て替え前のわらぶき屋根の家時代からの、先祖代々の位牌が保管されていた。この日初めて見せてもらった。江戸時代からのそれらの木札は古く黒ずんでいた。伯父通晴は一枚一枚を解読し一覧表にしており、私にコピーをくれた。戒名を見ると、童子、童女の文字が並び、多くの先祖が幼くして亡くなっていると推察される。

 死がいつもすぐそこにあった激動の時代を逞しい生命力で生き抜き、祖父代吉は私に、私の娘たちやまだ小さな甥や姪に、命を繋いでくれたのだ。祖父が亡くなって30年以上経ち、それを知った。      

 

                          2015年7月 孫 いくこ

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