第十五章 戦後の前田家【三女・千恵子】

 三女 千恵子 


 私は二十歳近くになるまで、あまり友人に自分の幼少の頃を語ることができなかった。

 貧しい時代とはいえ、他の家庭に比べたら我が家は貧しすぎたのかもしれない。小学校時代は貧乏人!と石をぶつけられたり仲間はずれにされたり、クラスのどんな平凡そうな子にもやさしい子にも、いわゆる差別扱いをされていた。

 いくら勝気で強気の女の子でもこれは辛いことで、いつの間にか無口になり、学校では空ばかり仰ぐ、ということが多かった。担任の教師はわれ関せずとばかり、通信表に「明るくなりましょう」などと平然と書く。成績も最低だった。

 しかし私は、自分の置かれている不本意な状況を、自分で何とかしようという思いをつのらせていた。

 3年間くらい続いたいじめの状況の中で、6年生の夏休み明け、学級会の時間に私は手を挙げて発言した。

 「私のことを汚いとか、病気がうつるとか言ってクラス中の人が私のそばをよけて通りますが、何がうつるのか説明して下さい」

 私はこれだけ言った後、泣き伏してしまった。私の中にいわれようのない屈辱感が渦巻くようだった。

 担任の教師が間髪をおかずに厳しくバシっとした声で言った。

 「そうだ。先生も時々そういう様子を見て知っている。千恵子さんを本当に汚いとか病気がうつると思っている人、立って理由を説明しなさい。説明できない人は、今すぐ、千恵子さんに謝りなさい。そして二度とそういうことをしないと誓いなさい。」

 担任の先生の言葉のあと波打ったように静かになったかと思うと、クラスの人が席をポツリポツリと立ち始め、全員が私のところへ列を作って謝りに来た。

 私の中に長いこと複雑な思いがしこりになって残っていた。

 二十歳頃になってようやく、私はいじめを受けた幼少時代や貧しかった暮らしぶりを包み隠さず話せるようになった。

 その昔我が家は、農家特有のわらぶき屋根だったが、飛騨高山にあるような民芸調の日本家屋とはほど遠い、隙間風がどこからも入るような土壁に囲まれた家だった。

ガタピシャと音のする戸口を開けると、土間には囲炉裏があって、裸電球が一個。しかし黒光りする大黒柱が文字通りデンとかまえていた。そこに九人の家族が囲炉裏を囲み、粗食をほおばりながら、父から何とたくさんの話を聞いたことか。

 野良仕事から帰って疲労しきっているはずの父は、深いしわの刻まれた相好をくずして、子どもたちに力一杯語るのが常だった。父の過ごしてきた過酷な歴史を、戦争の愚かさを、満州の広大さと自然の厳しさを。占領軍として満州に入った兵隊である自分たちといつの間にか人情を交し合った中国人の心の広さと人間の重みを。土とともに生きる農業の素晴らしさ。自然から生かされる人間が奢ってはいけないこと。

 父は毎日毎日飽くことなくかたり続けた。

 また父は、歴史上の人物の話を、物語のように語った。

 栄養失調から失明同然の母の苛立ちにあうと、墨をすり、カレンダーの裏に筆を走らせる。

「主婦が笑えば一家が笑う。笑う門には福来る」

 母が笑い、家族中が笑うと、父は得意の筆をふるって川柳や和歌を次々したためる。

 百人一首の詠み手となる父はダジャレも得意であった。

「すえのまっつぁん、なみこさんとは」(末の松山波こさじとは)など自己流の詠み方をして家族を笑わせた。

 幼かった私たちにとって今も深く心に刻まれている父の思い出のひとつに、添い寝をしながら話してくれた昔話がある。

 「あのなあ、さる公がな、柿の種をみつけたんだと…」など、独特の名調子で物語の登場人物になりきって、実に多くの、今も父にしか教えてもらっていないおかしさにあふれた昔話を毎夜語り聞かせてくれた。

 年の大きな兄たちとは腕相撲や懸垂、碁や将棋を競い、父はその力強さと、他人に負けたことのない気骨さと頭の良さを誇った。

 しかし本当は、こうして子どもたちと興じながらも、一日一日をたった一人で戦い抜いていたのだろう。

 野良仕事の合間に、息つく暇もなく日銭を稼ぐために出かけて行った。

山芋を掘ったり、大きな農家の日雇いをしたり。そこで出た三時のお茶菓子も、そっくりそのまま紙にくるんで家でさえずっている小雀たちに持ち帰ってきた。

「オー・パン・アバ・チャイ。」(お父ちゃん、パンまたもってきて、いってらっしゃい)

 弟の最初のカタコトを、私は今も覚えている。

 こんな話もあった。

 山芋を堀りに山深い人里離れた山にいると、度々うさぎが目の前を駆け抜けて行く。そんな山道をとっぷり日が暮れ下りてくる途中、向うから若い女学生が鞄を抱え上がってくる。学校からの帰途らしい。近づくにつれ、道端の方を怯えたように歩いている様子が痛いほど分かる。可哀想に、薄汚い野良着を着た見ず知らずの男と、こんな日暮に会えば怖がるのも無理はない。父はなるべく足早に通り過ぎようとして、明るく声をかけた。

 「暗くなるから足元に気をつけて帰りなさいよ。こんな山を通ってまで勉強のために学校へ行くのは感心だ。しっかりやりなさい」

 するとその女の子は今しがたまで体を縮こませていたのが嘘のように晴れ晴れした声で答えた。

 「ハイ!ありがとうございます。さようなら。」

 別の日に同じ道筋で会うと、今度は女の子の方から先に声をかけてきた。「おじさん、こんにちは。おじさんもお気を付けて!」

 私は、こんな話を食い入るように聞くのが常だった。

 こんなふうにして、学校生活と家庭生活の両方を思い起こすにつれ、貧しさの中でも、本当は自分がどれほどか生き生きと生活していたことに気付き始めた。

 そういえば、学校で屈辱的な思いをしている、などと親に訴えたこともなかったし、家にまでそんな思いを持ち越すこともなかった。学校とはそんなものだ、友達とはそんなものだ、先生とはそんなものだ、というような思いがあった気がする。

 私は、貧しさに対する級友たちの蔑視に対して強い怒りがあった。

 私は貧しさを、また私の家庭を屈辱的な家だと思ったことは一度もない。貧しさを辛いと感じていなかった。

 私の場合、兄や姉に囲まれて、むしろ恵まれているとさえ思っていた。

 長女の姉は、目を患っている母に代わって家族の洗濯から食事作り、すべてを一人でやっていた。それなのに私の髪を毎日とかして編んでくれたり、とてもよく世話してくれた。兄二人は家のために働き、わずかな給料が入ると必ず、私たち全員に文房具や手毬などを買ってきてくれる。

 私は自分が何か劣っているとか、嫌われてもしかたないとか、思うことができなかった。にも拘わらず、差別を受けているという事実が屈辱だった。

 級友たちの前で訴えた一言のきっかけから、状況が変わったことを私は長いこと考え続けた。こんなに簡単に、私に落ち度がなかったことをクラス中の者が認めて謝りに来る。

 いじめていた人たちの悪意のなさ、人を傷つけていることに鈍感な悪意のなさ。

 いじめられる子にも、いじめている子にも落ち度も悪意もないことを承知しているからこそ、どうしようも出来なかった教師の人の良さ。それでも私を不憫に思ったのか、折あるごとに「先生のうちに遊びにいらっしゃい」と声をかけてくれた教師の優しさに、私は当時気がつかなかった。

 そしてあの愛すべき級友たちは、私を嫌っていたわけじゃないのに、自分より見劣りする貧しい女の子をいじめることで、自分たちは「まとも」だと思いたかったのだろう。人間に対してどんな態度をとるべきか、躾けられていなかったのだろう。

 それにしても、こんなわずかな一言の「告発」によって屈辱的な扱いを一掃することができること。またそれをせずにいたら、自分の立場はずいぶん変わっていただろう、ということを私はいろいろ考えずにはいられなかった。

 あの一言を言えるように、私は父から知らず知らず育てられていたのだ。

 どれほどか大きな力で父が私の背後の支えになっていたかを。

 貧しさの苦しみに一番耐えていたのは父だろう。しかし強い支えとなって、人間としての誇りを失わず堂々と生きていた父は、まるで吹き飛ばされそうな家屋の中にどっしり構えていた、あの古き黒光りする大黒柱そのものだった。









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