第十二章 戦後の前田家【長女・和子】

 長女 和子

 

 さまざまな思い出の中に、私にとって忘れられないことのひとつに、終戦の年の3月か4月頃のことがある。私が4才の時だったと思う。

 その頃父は会社で怪我をしてまもなく、松葉杖を頼りに歩行訓練を始めたばかり、何気なく庭に出て来た父は、道を挟んだ防火用水(水深四m位)に落ちた直後の子どもの足がひらっと見えたという。その時、足の悪いのも忘れ崖をどうして下りたのかも記憶にないくらい無我夢中で浮かび上がった子どもの足を引っ張り上げた。

 それがまさか自分の子どもだったとは思わなかったという。

 水の中から引き上げられ、ずぶ濡れの私に父は、「早くよく拭いてもらえ、風邪をひくと困るから」と、それだけで何も言わなかった。しかし、その時の父の目を、なぜか40年の年月が流れても思い出されてくる。(※執筆時 昭和60年)

 父は、決して妥協を許さない厳しい人だった。若い頃は相当短気で、兄や私は小学校の頃から田畑を手伝わされていたが、子どもだからといって手加減しない。間違えば大声で怒鳴る。手取り足取り教えることはなく、自分自身で考え体得させる、それが父の方針だったようだ。

 しかし仕事を離れたわずかな休憩の時などは、豊富な話題を私たちに語って聞かせ、生きた社会勉強をさせてくれたのだった。

 また大変厳しい反面、体が弱っている時など、思いやり深く面倒を見てくれたものだった。

 我が家が最も貧しかった頃のこと、熱の下がらない子どものために、どこでどう都合をつけたのか、薬や、普段めったに口にすることのできない食べ物などを買い求め「さあ、少し食べてみろ」と言って食べさせてくれた父や、「どうだ、熱下がったか」と言って武骨な手を額に当ててくれた時の本質的な父のやさしさを、子ども心に感じたものだった。

 生活の一番困難な時に父はよく言ったものだ。

「明日のことを思いわずらうな。明日は明日自身が思いわずらうだろう。

一日の苦労は、その日一日だけで十分だ」

 この言葉がキリストの言葉であることを、その頃の私は知らなかった。

 父はこの言葉によって励まされ、新しい明日の希望に向かって子どもたちを育て生活を切り開いていったのではなかったのだろうか。




















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