第十一章 その後 

 …父代吉の一生を通じてのハイライトは、このあたりまでです。空襲の恐怖にさらされている病院のベッドで、このような述懐にふけった時期は昭和20年3月末だったそうですから、79才で亡くなったため、文字通り人生折り返し地点だったわけです。

 父の言う通り、40才までの半生は波乱万丈でしたが、その後の半生は子どもの私から見ても人並みというか平凡、いや晩年にはむしろ他人より幸せだったと思います。その最大の理由は、7人の子どもをもうけ、いずれも成人し、立派に独立して親としての心配がなくなったからです。自分のきょうだいは次々と亡くなり、姉と2人になってしまった。先祖も代々兄弟運がなかったのに、父の代に大きく根を張った。これは物心ついて以来、ひとり男として「家」に縛られ、家を支えてきた強情一代の成果と言えるでしょう。

 十全病院退院後5か月目の1945年8月15日終戦となり、籍の残っていた全購連も解散、当分リハビリに専念しながらも、翌1946年(昭和21)になると、戦前、国のことに注いでいたエネルギーを政治活動に向け始めました。農地解放、農協設立、選挙運動などを通じて父自身の思想もきわめて左傾化していくのですが、それは老境に入っても変わらず、一面子どもっぽいくらいでした。このあたりにも反骨強情な気性を伺うことができます。

 昭和21年に二女輝子、23年に三女千恵子、25年に三男孝、28年、父47才の時に四女恵美子と、ほぼ2年おきに子どもが生まれ、その間の23年1月には祖母のコウ、すなわち父の「お袋」が亡くなりましたが、それから実に36年間、我が家では一度も葬式を出しませんでした。これは本町田全体でもほとんどないくらいの恵まれた例だそうです。

 確かに戦後の10年くらいは食うのがやっとの赤貧の暮らしでしたが、日本経済の復興と同じように昭和30年代に入ると、我が家の生活も次第に安定してきましたし、35年(1960)春、230年余続いたという旧家屋を新築のため壊す時は感無量の表情でした(当時から230年前は、徳川八代将軍吉宗が享保の改革をした頃)。

 昭和40年から子ども七人を全て結婚させ、50年代を過ぎると孫も10人を超え、強情男の面影はどこへやらの好々爺に見えたのですが、亡くなった後、世間の人たちの話を総合すると、あちこちで強情場面を何回も発揮し、他人の面倒見がいいにもかかわらず、相当誤解もされたようです。また、これほど貧しい半生を送りながら、必要以上の財産を築こうとせず、むしろ経済至上主義を悪と考えていたようで、この点では現代に適合しない人間であることを父自身も認めていたようです。だからよく、「俺みたいな気性の人間は、これからもう出ないだろう」とつぶやいていました。

 腰と足の怪我が治ってから、病気らしい病気をせず、毎年風邪をひかないことを自慢にしていた父でしたが、68才になった昭和49年(1974)の夏、「前立腺炎」で入院してからは、寄る年波に勝てず、52年夏に再発。強いはずの心臓が弱っていることがわかりました。その年の11月、前立腺の手術に成功した後は、医者に忠告された通り、好きだった日本酒を止め、ぶどう酒の晩酌を続けていました。

 老人会の役員をやりながら旅行などへ行って来るたびに、「俺の足や目や耳は、若い者並だ」と言っていたのですが、その実、私たちが見ていても、めっきり弱っていく様子が目立ってきました。

 弱っていることを口にしないのが、父の若い頃からの面目であり、その代わりに家の中では次第に怒りっぽくなっていくのです。しかし、家の親類付き合い、近所付き合いは依然一手に引き受け、老人会や自治会の世話役なども止めようとしません。

 昭和57年3月の末、父が77才、母が70才になったお祝いを、7組の子ども、11人の孫が鵠沼海岸で開きましたが、その席上では自分の来し方を句に託し、皆の前で披露しました(次男・正昭の章参照)。

 翌年の6月、「人事調査所」という機関が取材に来たのち、編集した「激動の昭和戦史―軍友」という本を売り込みに来た時は独断で購入してしまいました。代金が48000円とあまりに高価な本なので私が苦情を言うと、「後世にどうしても伝えたいからだ」と、短く言ったきりでした(※現在も通晴家にて領収証と共に保存)。

 昭和59年に入ると、明らかに老化が激しくなりました。

 7月中旬に入院、「前立腺がん、手術不可能」と宣告され、母と妻と7人の子どもの交替での世話が始まりましたが、涙をあふれさせることがよくありました。

 嬉しい時でも口では嬉しいとは言わない、強情に生きた祖父勘蔵、誇り高く生きた恩師福室先生を思い出していたのでしょうか。

 退院1か月後の1984年(昭和59)10月22日午前10時10分、78才で、自宅にて息を引き取りました。                 

                           長男 通晴



      感激しつつ朝日を拝み

      感謝しつつ日を送る

      これが人生というものだ  


         昭和59年(1984) 8月 国立病院ベッドにて代吉口述


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