第五章 家族ができる 昭和11年(1936)

 この年の暮れ、祖母の実家に縁談の話があるから正月に行ってこいという。里の嫁の妹で、今年23だが、三年ほど東京で女中をしていたけれど今は自宅に戻り家事を手伝っているという。同じ秦野の台町に住んでいるが、百姓は出来ないらしい。「でもお前がふだんから町場の娘の方がいいと言うから知らせてきた」という。

 その中田夫婦に紹介され正月早々見合いをしたが、父親の泰次郎と話が弾んで、

「頼もしい青年だ。タキは末娘でわがままだが、宜しく」と挨拶され、結局昭和11年(1936)1月28日に祝言をすることになった。(このすぐ後の新婚早々、二・二六事件が起き世間はしばらく大騒ぎであった。)

 お袋が足を痛めていたし、妹のソヨ(三女)は、住み込みで奉公に出ているからすぐ迎えることにした訳だ。

 その年の暮れには長男が誕生した。俺は環境に意地で立ち向かってきたが、この子には晴れ晴れと生きてほしい。そんな気持ちで「通晴」と名付けた。

 ところで、嫁をもらい子どもが生まれると、やはり自給自足でいいという訳にはいかない。 

 交際も広がったし、ソヨも来年春には藤沢に嫁にやることが決まったので、今度は給料取りになる決心をした。

 しかし、大学を出ても就職先のない若者が多かったあの時代、特技もない俺が簡単に就職できる訳がない。田畑が忙しくなり、6月の始め野良仕事をしていたら、横浜市鶴見の浅野造船から、溶接見習い工として採用するという通知が来た。

 しかし、これは想像を超える激務だった。

 泊地に築かれた足場の上で、30メートルも先から投げられる火の玉(リベット)を片手で受け取り、梅雨の中で鉄板に打ちつけながら軍艦を建造するという仕事で、通い始めて一週間のうちに2人が足を踏み外し、海へ転落した。

 何よりも参ったのは、朝七時から夜八時までの12時間勤務なので、家を五時には出なければならず、帰宅は毎晩十時になる。だから、ようやく這うようになった通晴の寝顔しか見れないし、風呂も満足に入れない。第一こんな勤めを続けていては、一人男なのに日旺百姓が出来ない。結局二週間でやめ、田植え、麦刈り、野菜作りと再び多忙な野良仕事に戻った。

 昭和12年(1937)、31才の8月25日、突然赤紙が来た。

   













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