5.影の修練

 学園での授業は、ジェフにとって慣れないことばかりだった。

 少なくとも、老師から施された鍛錬方法とはまったく違う。


 荒野の異形を追い回すこともなければ、山の奥地へ置き去りにされることもない。初日のようなグリフォンの襲来があるかと思ったが、あれは滅多にあることではないらしい。

 しかし、授業内容は老師の鍛錬以上に困難だった。


「じゃあ、今日は新入生もいることだし」

 と、ヴァネッサは言った。

 研究室の隅の小さなデスクが彼女の定位置らしく、眠そうに頬杖をついて学生たちを観察していた。

「コントロールの基礎訓練、やっておこうか。『影の修練』。各自の実力を見せてもらおうかな」

「はい」

 ユリーシャがいち早く、生真面目にうなずいた。

 メリーとジェフを含めて、その日もヴァネッサ研究室ゼミナールの生徒は五人。

 あとの二人は、どうもしばらく姿を見せないらしい。特にミシェル・リヴァーズという生徒は謹慎中であり、小遠征には間に合わないとのことだった。


「一応、解説しとくと――契約コードを結ぶ対象は、身近なものであるほど容易になる」

 ヴァネッサの説明は、主にメリーとジェフに向けられていた。

「自分にとって一番身近なものは何か。答えは、例えば自分自身の肉体、っていうのもあるけれど」

 一瞬、スリカ・ヤヴォンに目をやり、少し困ったように笑った。スリカはほとんど反応を示さない。ただ、その頬の入れ墨に手をやっただけだ。


「――まあ、なんというか、それはそれで高等テクニックだからね。基礎訓練では、自分自身の『影』を使う。きみらが生まれてからずっと一緒だったものだ。そいつと契約コードを結んで、思った通りに動かしてもらう」

「了解しました。基礎訓練ですね」

 歯切れよく答えるユリーシャだが、どこか表情が張り詰めていた。振り返った目元には、寝不足によるものと思われる隈もあった。

「メリー。ジェフ。きみたちの実力を見ておきたい。あまり気負わずに、リラックスして、なおかつ細心の注意を払いつつ試みてほしい。自分自身の影とはいえ、扱いによっては危険な魔法に繋がる可能性もゼロではない。事実、影から生まれた異形という存在も――」


「はい、はい」

 ユリーシャの説明を遮ったのは、このときもエレノアだった。

「それじゃあ私が一番ね。ヴァネッサ先生も、ユリーシャも、私の腕前はもう知ってると思うけど――はい」

 気軽な調子で杖を振る。腕の肘から先よりもやや長い杖。おそらく、その材質は杉。鋭く硬質な力を引き出すために、最適な材質のものだ。

 そうして、杖の先端に淡い緑の《しるし》が灯る。

「ん」

 エレノアの足元にあった影は蠢き、ぎこちなく左手をあげるような仕草をしてみせた。

「ほら、こんな感じ! いまの結構うまくいったよね? 本当なら、万歳する予定だったんだけど……まあ私、こういうの苦手だし」


「苦手、で済む問題ではないぞ、エレノア」

 ユリーシャの顔はまるで鉛でも噛んでしまったような、苦々しいものだった。

「きみは彫金の分野以外でも、熟達してもらわなければ。このままでいいのか? きみのご家族もそう望んでいるはずだ」

「家族のことは関係ないでしょ。ユリーシャのところと一緒にしないで」

 エレノアが珍しく不愉快そうな顔をした。どちらかといえば、うんざりしたという様子だった。だが、すぐに表情が緩んだような笑顔に戻る。

「それより、新入生の二人だよ――ねえ、私も見たいなあ。メリーちゃんとジェフくんの魔法」

「む」

 ユリーシャも腕を組んだ。

「二人とも、やってみてくれるか」


「も……もう、やってみてる、んですけど」

 メリーは白樺の杖を握りしめ、自分の影を脅すように突き付けている。

 が、杖の先端に紫色の歪な《しるし》が輝くたび、影はわずかに震えるだけだ。

「ぜっ、ぜ……ぜんぜん、動かないんですよね……!」

「――これは」

 ユリーシャの顔が露骨にしかめられた。

契約コードに問題がある。大雑把にすぎる――と、思う。明確な契約コードを形成できなければ、影もどのように動いていいかわからない。最初は単純な『躍動』の契約コードを試してみるべきだ」

「そういわれても……!」

「ひとまず契約コード内容を組み直し、それから魔導線も不安定だから――う、うむ。待った」

 首を振り、メリーの腕を掴む。指が白くなるほど握りしめていた杖を、ゆっくりと下ろさせる。

「きみは、あまり慣れていないのか」

「ええ、いや、あの」


 メリーは暗い目つきでうつむいた。

「『衝撃』の契約コード以外、練習したことがないんです。実家が、その、そういうの――許してくれない空気の場所だったので」

「なんと」

 天井を仰ぎ、ユリーシャは一歩後退した。よろめいたように見えたのは、目まいでも感じたのかも知れない。

「そ、それでは、ジェフ。きみの方は――」

 振り返った先では、ジェフが自分の影に杖を差し伸べるところだった。


「いま、やる」

 心中に、冷たい炎を思い浮かべる。ジェフが老師から教わった集中の方法だ。

「重要なのは、コントロール」

 手本は、エレノアが示してくれた。影に両手を上げさせる。その程度でいい。脂汗が浮くほどの繊細な集中。視界の端で、スリカ・ヤヴォンが祈るように両手を組んでいるのが見えた。

契約コードを――」

 黒檀の杖の先端に、銀の《しるし》が灯る。

「結ぶ」


 次の瞬間、ジェフの影が爆ぜた。

 教室内を覆うほどに膨れ上がったかと思うと、液体のように飛散し、あちこちに飛び散る――もちろん、本人に被害はない。肉体そのものが破裂したわけではなく、あくまでも影だけだ。

 悲惨なのは、周囲の人間だった。


「うわあ、暴発」

 エレノアは間延びした悲鳴をあげた。顔に黒い影の染みができている。頬を拭うが、影が塗料のように落ちるわけでもない。

「まる一日は取れないんだよね、この影。これで昔はよく悪戯したなあ――けど」

 何度か頬を拭い、彼女はすぐに染みを取ることを諦めた。

「こんな大規模なの、見たことないなあ。これはこれで凄いっていうか」

「さすがです、《継承者マスター》ジェフ」

 スリカはひざまずき、目を閉じた。どうやら、それが彼女の祈りの仕草らしい。


「はは」

 一方でヴァネッサは咄嗟にローブを広げ、自分の顔に飛び散るのだけは防いだらしい。愉快そうに手を叩いていた。

「両者とも、実に教えがいがあるよ。ユリーシャ、大丈夫かな?」


「……はい」

 少しの沈黙の後、ユリーシャはぶぜんとした顔で答えた。彼女の場合は、頭から墨を被ったかのように黒々と、影の染みがしたたる痕跡を残している。

「大丈夫です。が、メリー。ジェフ。気をつけるように。私が先ほど言おうとしたことだ。未熟な魔法は、このように――有害な結果を及ぼす場合もある」

 その瞳は、やや怒りを含んでいる。

 ジェフですら、確信的にそう思えた。


――――


 そこからの授業も、惨憺たる有様だった。


「杖のメンテナンスは、魔導士にとって必須の技術といえる」

 ヴァネッサ教授は、やはり眠そうに頬杖をついて宣言した。

「最低でも、自分で杖を作れるくらいにはなってもらう。うちの学生ならね。いいかい? 杖は魔力価を増幅し、魔導線をスムーズに流し込むための増幅器アンプ――だけど、役目はそれだけじゃない」

 自分の杖を宙にかかげ、それをひらひらと動かす。


「己で作り出し、肌身離さず持ち歩く杖は、最も身近な器具になる。契約コードを結びやすいってことね。例えば特定の仕草やキーワードで、杖から炎を出したり、稲妻を出したりできるようにしておけば――ほら」

 小さな二重の円を描いた、ヴァネッサの杖の先端からは、七色に輝くシャボン玉がいくつも生み出された。彼女は曖昧に笑う。

契約コードを形成することなく、魔法を行使できるってわけ。実戦では、このコンマ数秒の差が生死を分ける。かも。だから、各自サボらずやるように」


「はーい」

 ここで気楽に答えたのはエレノアで、メリーとジェフの手元を覗き込んでいくつかのアドヴァイスも寄越してくれた。

 どうやら彼女は、杖の作成といった分野についてだけは、多大な集中力と面倒見の良さを発揮するらしかった。

「ゆっくりやった方がいいよ。最初はね。何時間かかってもいいくらいの勢いで。急いでやろうとすると、失敗して爆発したりするからさ――これ、経験者は語るってやつね」


「そ、れ、って……すごい……怖いんですけど」

 メリーはやはりひどく苦戦していた。杖に魔力を通すことさえ満足にはできず、その工程はどれを取ってもぎこちない。

「う、ぐっ。魔力……通りにくくないですか? これ! この枝! 私のこと嫌いなんですか? こ、交換したいです!」

 自身が持つ杖と同じ、白樺の小枝を前にして、メリーはついに泣き言を叫んだ。これには、エレノアもひどく呆れたようだった。


「《翡翠庭園》で育てられた白樺の枝なんだけどなあ。メリーちゃん、自分のその杖、どうやって作ったの? それと同じ要領で魔力を通すだけでいいんだよ」

「これは、その実家から、ぬす……いえっ。あのっ」

 言いかけて、青ざめ、メリーはすぐに否定する。

「何でもないです! 集中! 集中すれば、すぐにできますから……! ちょっと、あと数秒、数分だけでも待ってくださ――」


「えっ? あっ、わ、ああああああ!」

 そのとき響いたのは、ユリーシャの金切り声。

 ばちっ、と何かが破裂するような、いやに湿った音。メリーもエレノアもそちらを振り返ると、ジェフだった。彼の手元で、白樺の枝が異様な姿に変形していた。


 まるで丸太のように太く、膨れ上がった小枝。

 その両端から、根と枝と葉が生え、天井と床に突き刺さっていた。

「んんー」

 ヴァネッサは首を捻った。もう眠そうにはしていない。

「すごいね、ちょっと――これは想定外だ。私もこんなのは――見たことがないな。ジェフ・キャスリンダー。きみ、それ、どうやったわけだ?」


 このとき無事では済まなかったのは、ただ一人、ユリーシャのみである。

「ジェフくん」

 近づきすぎていたためだろう。無造作に伸びた枝葉に絡めとられ、締め上げられて、彼女は宙吊りになっていた。ローブの破けた箇所を押さえながら、恐らく激怒のためだろう。彼女は顔を赤らめていた。

「きみには重点的なコントロール訓練が必要のようだ」


 まさしくその通り、と、ジェフは思った。


――――


「使い魔は重要だ。特に、未熟なうちは」

 飼育棟、と記された尖塔に立ち入ったとき、ヴァネッサはそんな風に説いた。

「優れた使い魔は、魔導士の不足を補い、良き友人となる。注意すべきは、彼らに悪意を注ぎ、異形へと変化させないこと」

 そうして、彼女はひとつの扉を開けた。

「さあ、きみたちに適した使い魔はいるかな? もしも心を通わせることができたら、きっと小遠征でも力になってくれるよ。これはまあ、手っ取り早い実力底上げの方法だね」


「ええ! それはもう、ここは大天才の私に任せ――ひえええええ!」

 意気揚々と前進しかけて、メリーはいち早く悲鳴をあげた。飛び出して来たいくつもの影のせいだ。

 響くのは狂乱に近い鳴き声。吠え声。そして爪で石や金属を擦るような音。

「い、痛い、いっ! なんですかあなたたち! やめてください――いい子だから、い、いいっ? 噛まないでください! つつくのもやめて!」

「落ち着くべきだ、メリー」

 ジェフは妥当と思われる言葉をかけた。そのまま室内へと踏み込む。

「きみが興奮すると、感情に敏感な使い魔も興奮する」


 ジェフが使い魔たちに近づくと、唐突に静けさが訪れた。

 犬、猫、鷲、梟、蛇、蜥蜴――そのいずれもが叫ぶのをやめ、弾かれたように壁際まで後退する。その瞳には、明白な怯えがあった。鳥たちは項垂れ、犬や猫はひっくり返って腹部を見せている。

「お、どうした、アンジェリカ」

 ヴァネッサはひときわ大きな狼に近づいて見せた。その狼もまた、腹部を上に寝転がっている。呼吸も荒い。

「何か怖いことでもあったのか? この前のグリフォンどものせいか――珍しいね」

 この現象に、ジェフは心当たりがあった。


(スノウだな)

 この数日、彼は「散策」と称して、学園内のあちこちを密かに飛び回っている。その間、生意気な同輩に上下関係を教えてやった、と言っていた。

 ジェフには、そのスノウの《しるし》が濃密に染みついている。

 ここの使い魔たちには分かるのだろう――恐怖をもたらす者の《しるし》が。どうせスノウが脅しつけたせいに違いない。

(あいつめ。悪い癖だ。売られた喧嘩を買わずにいられない)

 時折、特に使い魔の同輩を見かけたとき、彼は少し野蛮すぎる態度を示す。


「すまない、メリー」

 ジェフは謝った。スノウの代わりだ。

「これでは、使い魔を選べそうにない」


――――


「――もう、わかった。十分だ」

 一連の授業が終わると、ユリーシャは、ひどく不機嫌そうに彼らを見ていた。

 思いつめた表情には、決意と不安とが溢れかえるほど表れている。

「やはり、私が何とかしなくてはならないな」

 声は低いが、そこには強烈な意志の力があった。

「研究室長として……やるしかない……!」


 ユリーシャの瞳には炎が燃えている。

 頼もしい少女だ、と、ジェフは思った。

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